【2-9】青い氷
《!毎日20時に連載中!》
睡眠のお供にどうぞごゆるりとお読みくださいませ。
「ふぁ〜あ、参ったのぉ」
セルヴァイア魔法学園現学長であるオクタザール・トメリアンは白くて長い顎髭をフッサフッサと撫で、モノクルからある書類を覗いていた。
「ねぇ、リュシエル君、なんとかしてくれなぁい?これぇ」
学長室に呼ばれたリュシエルは渡された書類に目を通すと、やれやれと肩をすくめた。
書類というのはノルディア領主、コンラート・ノルディアから届いた手紙と退学届だった。新入生である自身の娘、アドルフィーネを退学させたいらしい。
本人にサインをさせろとの旨と、くだんの件について遠回しでグチグチと文句が書いてあるだけのただの無意味な紙だ。
「紙の無駄遣いとしか言いようがありませんね。アドルフィーネ嬢は退学を望んでいません。それも強く」
ここの生徒である以上、親や領地は介入できない。
セルヴァイアはあくまでも政治的争いに中立でいなければならないからだ。
だからこそ、今回のような明らかに派閥絡みである事件にセルヴァイアは動けなかった。仕方がないので秘密裏に魔法省へ救出依頼をしようとしていた頃、今話題の黒衣の魔法使いが動いてくれていた。
どうやらエルネストは黒衣の魔法使いを呼び出すことに成功したらしい。
「無視でいいですよ、こんなの。オクタザール学長」
「君がそう言うなら無視でいっか!それっ」
オクタザールは書類を軽く上に掲げ、人差し指を向けた。すると、ボッと音を立てて書類に引火し、瞬く間に紙は灰と化した。
そんな灰を見つめながら、リュシエルは嘲笑を浮かべた。
コンラートはアドルフィーネを自身の声が通りにくいセルヴァイアに入れるべきではなかった。
(バカだなぁ、ほんと。シルヴァンに釣られて娘を融通が利かないこの学園に入れたのが運の尽きだ)
リュシエル、シルヴァンと王族が続けてセルヴァイアに入学してからというもの、婚約者の座を狙えと競って娘をこの学校に入れる野心的な貴族が増えた。
リュシエルにとって、その貴族達はどうにも、罠に掛かった滑稽な小動物のようにしか見えない。
(野心的な貴族ほど、ここは扱いづらい教育機関だろうに)
アドルフィーネ誘拐事件から数日。
彼女の顔付きは明らかに変わった。
相変わらずシルヴァンに媚びを売っているようだが、以前と違い、彼女なりの打算を感じる。
「その後、誘拐犯はなんて言っているんだい?」
「驚くほど素直に……というか、自分が悪い事をしたという自覚がないのでしょう。相変わらず私への忠誠心を盾に自身を正当化した発言しか出てきません」
「厳しいねぇ」
オクタザールはフォッフォと笑いながら髭を撫でた。
過激的な第一王子派であるシグムントは、アドルフィーネが第二王子の婚約者になることを阻止しようとして犯行に及んだと供述している。
この国唯一の海を持ち、あの倉庫群へ魔術具がたくさん集まるノルディアを、アドルフィーネとの婚約によって第二王子に押さえられるのは危険だと思ったのだろう。
謝罪の要求は建前だ。
彼はノルディア領主の性格を見越した上でアドルフィーネを殺すつもりでいた。
ノルディアは第二王子派ではあるが、寝返ってきたばかりの新参者だ。
いくら自身の娘の命がかかってるとはいえ、裏切ったことを認め、謝罪をするという選択肢は取りづらい。どの領地が同じ立場に置かれてもそうだろう。
それが合理主義のコンラートなら尚更だ。
彼ならば、シグムントの考えを見透かしていたとしてもおかしくない。
娘が誘拐されたと知った時点でその命は諦めていた可能性が高い。
今回コンラートは、謝罪の要求を拒否し続けたことで第二王子派からは信用を得ただろう。
一度は見捨てた娘の命も無事に戻ってきた。
また、コンラートは戦闘用の魔術具を大量に輸入していた。密輸だと噂になっているが手続き上は問題ないため罪には問えない。こういうギリギリの穴をつく狡賢さは流石だ。
……損失らしい損失といえば、見捨てた操り人形に自我が芽生えたことぐらいだろうか。
「にしても、事件の収束は早かったねぇ。流石リュシエル君だねぇ」
「いやぁ、それがですね……」
連日でシグムントに買収された者達は芋蔓式に摘発され、事件は爆速で解決へ向かった。
その要因は、ある魔法使いがリュシエルに大きなヒントを提供したからだ。
「オクタザール学長、黒衣の魔法使いをご存知ですか?」
「ああ、もちろん。最近色々と話題だからねぇ」
(色々と……。学長は学会にも参加してるから僕達とはまた違った話題だろうなぁ)
リュシエルはそんなことを思いながら、箱を取り出し、蓋を開けてトルメリアン学長に差し出した。
「これはぁ?」
「ちょっと見てて下さい、すごいんですよ、これ」
箱の中には三つの魔法石と、手のひらほどの魔術具が入っている。
魔術具を取り出し、真ん中に嵌めてある魔石に魔力を込めれば、魔法石の位置情報が頭の中に浮かび上がる。
「……!」
同時に、三つの魔法石は眩しいほどの光を放った。
「ほぉ、こりゃすごい発明だねぇ。魔法石を持っている人物を探し出せるんだねぇ。色々な使い方ができそうだ。こんな魔術具見たことないよ」
オクタザールはモノクルをキラリと輝かせて面白そうに観察し始めた。
この魔術具は、まるで自身が行える魔力探知の範囲が拡大したかのような錯覚に陥る。
何より驚いたのは、魔力探知より、魔力の消費が格段に少ないことだ。
「この魔法石は摘発された元騎士団員の三人が持っていました。どういう経緯かは不明ですが、黒衣の魔法使い様に持たされたのでしょう。彼らはシグムントの指示で動いていたため、セルヴァイアにも情報が入ってくるのが遅くなり、ノルディアの現場への到着も遅くなってしまいました。そして彼らを捕らえられたおかげで、セルヴァイアの買収された衛兵や教師を隅々まで炙り出すことができたのです」
魔法石と対になっているこの魔術具は先日、生徒会室に置かれていた。黒衣の魔法使いの名が書かれた紙と共に。
胡散臭いと思いながらも正直、騎士団の中から買収された者を見つけ出すのはなかなかに難しかった。
モノは試しだという軽い気持ちで紙に記された指示通りに魔術具を使ってみたら、ビンゴだったのだ。
魔法石を所持していた元騎士達の足取りを調べると、シグムントの屋敷への出入りがあったことが確認された。そして逮捕へと至ったのだ。
あとでシルヴァンに言ったら「そのような怪しい物を使ったのですか?」とドン引きしていた。
「アーヴェルくんの事情聴取からも、黒衣の魔法使い様は無償で力を貸してくれたようです。彼に是非ともお礼を申し上げたいのですが、オクタザール学長、何かご存知ないですか?」
オクタザール学長なら顔も広く、何より魔法使いの職場とも言える魔法省にも顔を出しているくらいだから何か知っているのではないかと思ったのだが、彼は「うーーん」と首を捻る。
「魔法省にも滅多に来ない人だからねぇ。僕もチラッと後ろ姿ぐらいしか見たことないし。まぁ僕から魔法省に言っておくよ、そうしたら本人にも伝わると思うからね」
「助かります」
今回の件で結果的には自分の派閥の勢いは落ちたのだが、リュシエル自身は何も気にしていなかった。
むしろ目障りな狂信者もどきを一人失脚に追い込んでくれた黒衣の魔法使いに心の底から感謝している。
(黒衣の魔法使い……。一体何者なんだろうなぁ)
箱に入った魔術具を見つめながらリュシエルは密かに笑っていた。
◆ ◆ ◆
「へぶしっ!」
「ルーチェ、風邪?」
「大丈夫、アドルフィーネ。誰かが噂しているみたい」
「噂?」
アドルフィーネは理解できないように首を捻った。
くしゃみをすれば誰かが自分の噂をしているというのは日本では常識だったがこちらでは違うようだ。
彼女は事件から戻ってきた後、まるで別人のように取り繕わなくなった。ただし、シルヴァンを除き。
なんとなく、事件後のアドルフィーネを気遣っていたルーチェは、ここ彼女と一緒に授業を受けるようになった。
「ハイアン!自己管理もできぬ其方にアドルフィーネ様のお隣に座る権利はない!」
「うるさいわよ、エル」
後ろからそう喚くのはまだ頬の傷が癒えていないエルネストだ。彼もまた、ルーチェのことを『ハイアン』と呼ぶほど取り繕わなくなっていた。いや、初対面からこんなだった気もする。
アドルフィーネのエルネストへの扱いの雑さ(?)にも段々と慣れてきたルーチェはクスクスと笑う。
「な、なによ」
アドルフィーネは気恥ずかしそうにルーチェを睨んだ。
「本当に仲良いんだね」
ルーチェがそう言うと、アドルフィーネは顔を真っ赤にして「そ、そんなことないわよ!」と謎の反論をした。
「ふふん、よく分かっているじゃないか、ハイアン」
一方エルネストは立ち上がり、ここ数日、耳にタコができるほど聞かされた武勇伝を教室中に聞こえるように語り出す。
そう、黒衣の魔法使いと共にアドルフィーネを救い出した感動的な物語。
派閥争いに巻き込まれ、自身の父親に裏切られた悲劇のヒロイン、アドルフィーネは長年側にいたエルネストのおかげで真実の愛に気づき、一度は自身を見捨てた領主である父親に勇敢に立ち向かうのだ。
……もうここ数日はずっとこの話をしているので教室中みんな慣れてしまっている。
最初こそ、黒衣の魔法使いの話を聞きたい生徒はエルネストを取り囲んで質問責めにしていたが、最終的に彼の話はアドルフィーネが如何に美しかったかという話に変わるので、もうみんなお腹いっぱいだ。
「今回で何回目?」
「十五回は聞いたわ」
アドルフィーネですら、もう止めるのを諦めているようで、反応は薄い。
黒衣の魔法使い本人は自分の名前が出る度にドキドキしていたが、彼の物語りの中で黒衣の魔法使いは脇役でしかない。エルネストがアドルフィーネのことしか考えていなくてよかったぁと、謎の気持ちになった。
ふと、熱弁を振るうエルネストの耳に目がいく。まだ傷が塞がっていないので包帯を巻いている状態だ。おそらく、魔術具の攻撃が掠めたのだろう。包帯の下は三角に切り込みが入ったようになっている。
(本当に猫みたいだな……)
不謹慎ながらもそう思ってしまったことはそっと心に留めておいた。
「――そこで!領主にアドルフィーネ様は美しく毅然な態度でこう言ったん……」
「席につきたまえ、エルネスト・アーヴェル」
教室に入ってきた教師は開口一番、面倒くさそうにエルネストに注意した。
高いヒールをコツコツと響かせながら壇上に登ったその教師は、三つ編みに結った長い髪を雑に払った。
彼にとってはとても良い所で話の腰を折られたので不満そうだが、アドルフィーネに睨まれた瞬間、即座に席へついた。
「今日から魔法基礎学を担当する、ダリア・ハインツだ」
褐色の肌に透き通るような薄紫の目。
彼女は去年、魔法と魔術の根本を覆すような新しい魔術式を発表した魔法学者だ。
(さすがセルヴァイア……)
比較的若く、女性でも能力を見て人材を確保している。
前任の教授は一身上の都合により学園を去ったと説明されたが、おそらく、このタイミングならばシグムント一派に買収されていた人物だったのだろう。生徒には隠す方向性らしい。
「この授業は全員必修科目だ。単位を落とすなどという無様な真似はしないように」
(それにしても……)
随分胸元がパックリと開いた服を着ている。皆ギョッと目を剥いていた。多分、今何を話されても頭に入ってこない。
ダリア自身は新入生にこんな顔をされるのは恒例行事な上、三日もすれば皆慣れてくるので全く気にしていない。
「では授業を始める」
ダリアは皆の視線は無視して、学籍簿を広げる。そして一人の生徒に目を留めた。
「ジェリン・ドラクシア。魔法と魔術の違いについて説明しろ」
(うわ、いきなり当てるタイプ……!?)
当てられた生徒は一拍遅れて「は、はぃ?」と素っ頓狂な声を上げた。
「魔法と魔術の違いについて説明しろ」
間髪入れずにダリアは繰り返し質問する。その態度が気に食わなかったのか、ジェリンは顔を真っ赤にしてダリアを指差した。
「そ、それを教えるのが教師の仕事でしょう!?」
(あ、あの時絡んできた巻き髪女だ)
なるほど、彼女の態度は立場に甘える貴族の子どもそのものだ。巻き髪女改、ジェリンの周りにいる取り巻きも不躾な視線でダリアを見下している。
「……ここにいる者は大きく二つに分けられる。魔法や魔術を修めることに意欲がある者と親や領地の言いなりでここへ来た者。其方は後者だ」
ダリアの低く響き渡るような言葉に、隣でピクリとアドルフィーネの手が震えたのが分かった。
ダリアはそれだけを言うと鼻で笑い、次当てる生徒を探すように目を教室内に巡らす。
(うっわぁ……。お願い当てないで!っていうこの感じ、懐かしい)
どこで生きてもこの感覚を味わうことになるのが学校らしい。
ダリアは次の生徒に目を留めた。
「アドルフィーネ・ノルディア。魔法と魔術の違いについて説明しろ」
名前を呼ばれたアドルフィーネはビクリと震え、後ろにいるエルネストからは唾を飲み込んだ音が聞こえた。
彼なら「なぜアドルフィーネ様を当てる!?この痴女め!」とかなんとか言いそうだと思い、別の意味でドキドキしていたが、エルネストはアドルフィーネの発言を固唾を飲んで見守るだけだ。
(少し意外だ……)
アドルフィーネは一拍遅れたものの、「はい」と返事をした。
「魔法は神の力を借りて起こす奇跡と呼ばれる現象のことで個の能力や感情に依存します。魔術はその魔法を再現するための手段です」
アドルフィーネは声を震わせることもなく、堂々と答えた。
その答えにダリアも一つ頷く。
ルーチェが肩の力を抜いたところで、ダリアは隣にいるルーチェに目を留める。
「ルーチェ・ハイアン、補足を」
(補足ッ!?)
一瞬動揺したが、ルーチェもアドルフィーネを見習って声を震わせないように、あと喋り過ぎないように気をつけながら発言する。
「魔法は個人の能力、つまり得意属性や魔力量、魔力濃度などが大きく影響します。一般的に使われている魔法は属性魔法といい、これはイメージや想像力が重要です。一方魔術は魔術式を用いるので先天性の能力に依存しないところが魅力です。もちろん魔術式によって制限や条件はありますが」
ルーチェもこの世界にやってきて最初に持った疑問は魔法と魔術の違いについてだった。
『魔法』は大きな括りに過ぎない。言ってしまえば魔術も魔法なのだ。
正確には、魔法は『属性魔法』と『魔術』に分けられる。
例えば、得意属性に依存する単純攻撃魔法や風属性の飛行魔法などは属性魔法だ。
一方、防御結界やルーチェの考えたコピペ魔法は魔術だ。
例外として挙げられるのは魔力探知だろうか。
あれはどちらかといえば属性魔法に近いが得意属性というより、魔力量と関係する。
「魅力、か……」
ダリアは考えるようにそう呟いた。
(個の能力って言っても努力次第だからなぁ。実際、量や濃度は努力で伸びるし。感情制御も訓練なわけだし。ああ、でも得意属性を増やすのは難しいらしいんだよねぇ。最初から全属性だったから試しようがないのがもったいない!ほんとルーエン様余計なことを……)
ルーチェはダリアがどんな反応をしているのかは見ているようで見ておらず、改めて心の中で魔法と魔術について考えていた。
すると、机をバンッと叩く音が耳を劈き、思考が現実に戻る。ジェリンが行き場のなくなった怒りを爆発させたのだ。
「わたくしを無視するなんて失礼ではなくて!?わたくしは子爵家の娘よ!この教師風情と性悪女共!!」
ダリアは一瞥した後、人差し指をクルクルと動かしてすいっと上にやった。すると、ジェリンは見えない紐で縛られているかのように拘束された。
「!?」
そのままふわりと浮上すると生徒の頭上を飛んでいき、教卓の上に落とされた。
まるで一本釣りされた魚のようだ。
……最近は縛られてる人を見る機会が多い。
「な、なにをするの!」
「ルーチェ・ハイアン。今わたしが使った魔法について説明しなさい」
その異様な光景に教室中が騒然となり、ジェリンもみょんみょんと身体を動かして解放しろと騒ぐ中、質問されたルーチェだけは口に手を当てて、暫く考えていた。
そんなルーチェをアドルフィーネは不思議そうに見つめる。答えは考えるまでもないと言いたいのだろう。
「ルーチェ?」
(普通なら、ジェリンを浮上させたのは属性魔法である風魔法で、見えない拘束の紐は魔術だろう。拘束などが目的の物なら強度を予め設定できる魔術式を使った魔術の方が効率的だから)
だが、ダリア・ハインツが去年発表した魔術式。
それは、――属性魔法を補助する魔術式。
「身体を浮上させたのも、拘束の紐も、どちらとも風の属性魔法です。ですが、その拘束には、属性魔法を補助する魔術式を組み込んでいますね?」
ルーチェがそう発言した途端、その場は静まり返った。ジェリンを拘束している見えない紐を凝視し始めポツポツと疑問の声が上がる。
「そんなことが……」
「属性魔法を補助ですって?」
「あれはどう見たって魔術だろ……」
「だが、確かに従来の拘束の魔術だとしたら紐が見えるはずだ」
「な、何を見ているの!?見るんじゃないわよ!」
騒いでいるのはジェリンだけで、魔法に最低限触れてここへ入学してきた者達は興味深そうに拘束されている彼女を凝視し、口々にその可能性を否定した。
ルーチェは面白そうに皆の疑問を聞きながら、考察を口にする。
「拘束はおそらく風属性魔法です。だから紐が透明なのでは?他の属性で拘束の魔法を使えば、服が汚れたり濡れたり……。火属性ならば大怪我になってしまいますね。先生はとてもお優しいです」
無論、ダリアの得意属性を知らないので他の属性を使えるのかどうかは定かではないが。
「正解だ」
ダリアは一言そう言ってニコリと笑った。
(わ、笑った――!?)
その笑顔の破壊力は、教室の一体感を生んだ。
◆ ◆ ◆
「ルーチェ貴女、魔法に詳しいのね。やはり全属性だからかしら」
休憩時間、アドルフィーネはルーチェの顔をまじまじと見ながらそう言った。
「さっきのは偶然だよ。ダリア教授が発表した魔術式の論文を読んだことがあったから。わざわざ当てるならそうかなって思っただけで……」
内心焦るルーチェをよそに、アドルフィーネは真剣な表情を崩さないまま、窓の外を見つめた。
「ねぇ、ルーチェは黒衣の魔法使いのこと何か知らないかしら?」
「し、知らないけど……」
(何かって何!?何も知らないですッ!!)
心拍数が急上昇していくのを感じながらも、なぜそのようなことを聞いてきたのか気になり、ルーチェは恐る恐る探りを入れてみることにした。
「ど、どうして?」
ルーチェはあの時、海産物がもっと流通すれば良いのになぁという気持ちをアドルフィーネとエルネストに語った。語ってしまった。
その中でアドルフィーネが領主の座を奪えばいいという話をしたのだが……。怒らせてしまったのかもしれない。
ドキドキして様子を窺っているとアドルフィーネの目は優しげに細められた。
「彼にはノルディアでお世話になったから。一言お礼を伝えたいのよ」
「お礼……」
怒っていなかった上に、黒衣の魔法使いのことを完全に男だと思ってくれている。
ホッとするのと同時にルーチェはつい頬が緩んでしまった。
「……なんでルーチェがニヤニヤしてるのよ」
「いいや。アドルフィーネって本当に可愛いなって思っただけよ」
「んなっ!揶揄うならもうこの話はしないわ!」
アドルフィーネは頬を膨らませながらプイっとそっぽを向いてしまった。
「何のお話かな」
和やかに笑っていたら突然背後から声が聞こえ、アドルフィーネとルーチェの肩が飛び跳ねた。
「リュシエル殿下!」
アドルフィーネが驚いて名前を呼んだことで初めて教室にいた生徒達もリュシエルの存在に気づき、騒然となった。
(別に魔力探知に引っかからないわけでもないし、存在感はむしろ大きい。単純にこの人、気配を消すのが上手なんだ……)
アリーと同じようなタイプね、と密かに思っていると、リュシエルは、近くで適当な生徒に例の武勇伝を強制的に聞かせているエルネストをチラリと見た後、アドルフィーネに視線を移した。
「アーヴェルくんがいない今のうちに」とでも言わんばかりだ。よほどエルネストが苦手らしい。
「アドルフィーネ嬢、申し訳ないが今日の放課後、学長室に来てくれないかい?ご実家のことでまたお話があるんだ。時間は取らせないから」
「かしこまりました。わざわざ教室まで足を運んでいただきありがとう存じます」
アドルフィーネは注目の的になっているが、丁寧にお礼を述べるまでにとどめた。リュシエルとは一定の距離を保っている印象だ。
彼は一つ頷いたあと、次はルーチェを見た。
シルヴァンとよく似た綺麗な作り笑顔を向けられ、即座に嫌な予感が彼女を襲う。
「ルーチェ嬢。青い氷を溶かすのを手伝ってくれないかい?僕達だけじゃ手に負えないんだ」
「……かしこまりました」
リュシエルは「助かるよ」とだけ返事をし、エルネストに絡まれないようにそそくさと教室をあとにした。
「青い氷って?」
「……溶かすのが大変な、わがままで頑固な氷があるんだよ。それの処理の手伝いってところかな」
「ふぅん、貴女も大変なのね」
ルーチェは溜息を吐いてコクコクと頷いた。
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