【1-20】どこもかしこも月が綺麗
《!毎日20時に連載中!》
睡眠のお供にどうぞごゆるりとお読みくださいませ。
「よいしょ」
医務室から出て水を汲みに行っていたフロラルは小さい身体でなんとか桶を運んでいた。足元が暗いので転ばないように慎重に歩く。
渡り廊下まで来れば灯りがあるので一安心だ。ふーっと汗を拭ったフロラルは、煌々としている本殿に目をやった。
今本殿ではルーチェが参加している晩餐会が開かれている。
(ルーチェ様、大丈夫かな……)
ブランの救出から戻って以降、彼女とは顔を合わせていない。メイドさんのアリーによれば、相当お疲れのようだ。
(怪我はないってシルヴァン殿下も言ってたけど心配だなぁ)
そんなことを思いながら医務室の扉を開けると、奥の個室から二人の言い争う声が聞こえていた。
オルレンと今朝目を覚ましたブランである。
「おい、フロラル。あの二人を黙らせてくれ」
医務室長は新聞を読みながら顎で個室の方を示す。フロラルはそれにコクリと頷くと満タンの水が入った桶を一旦床に置き、意を決して二人がいる個室の扉を開けた。
扉を開けた瞬間二人の言い争う声が医務室中に響き渡った。
「ブランおじさん、大人しくしてくださいッ!!」
「うるせぇ!!さっさとここから出ねぇと嬢ちゃんが来ちまうだろ!!」
「別にいいじゃないですか!何で逃げるんですか!?」
「だぁぁぁかぁぁぁら!逃げるわけじゃねぇっての!」
ベッドの上でぐるぐる巻きにされているブランは、色んな意味でとても今朝まで意識がなかった人間だとは思えない有様だった。
花園でも縛られていたが、今度はオルレンとフロラル、二人の愛の鞭で縛られていた。
二人の声がうるさいので医務室長からジロリと睨みつけられ、フロラルは慌てて桶を持ち、中へ入って扉を閉めた。
フロラルは精一杯鼻から息を吸い込んだ。
「二人の声、うるさいっ!」
この時フロラルはおそらく今までの一生の中で一番大きな声を出した。
◆ ◆ ◆
フロラルの大きな声を聞いてブランとオルレンは我に返った。
お互いに深々と溜息を吐き、オルレンはクリーム色の髪をガシガシと掻く。
「……なんで口止めなんてしたんですか。余計に怒って来ちゃうでしょう?」
今朝ブランはなぜか自分が起きたことをルーチェには黙っていて欲しいと各方面に口止めしていた。シルヴァンは晩餐会が始まればそこで報告することになると言っていたが、それでもいいとブランは頷いた。
「ルーチェ様はブランおじさんを必死になって探していたんですよ。早く元気な姿を見せてあげないとあまりにも可哀想です」
ルーチェはブランを助け出す為に自身の命を狙う人工精霊と対峙した。人工精霊はシルヴァンが捕らえたと聞いている。
だが、さすがのルーチェでも一人の女の子だ。一瞬でも一対一になったというのだから、怖かったに決まっている。
それでもプイッと顔を背けているブランにオルレンは沸々とした怒りを覚えた。
「おじさん、怪我はないのに服だけが汚れていてずっと意識を取り戻さないんですもん。…………何があったんだろうって、誰だって、心配します……」
オルレンは込み上げてくる涙を我慢できなかった。
ブランが花守であること、花園を一人きりで護ってきたこと、恩師から裏切られたこと。
昨日、寝ているブランの横でシルヴァンから詳細を聞き、オルレンとフロラルは二人で泣きじゃくった。
自分が不甲斐なかったから、ブランは一人で抱え込んでしまったのだ、とオルレンは自分の無力さに心底落胆した。
「俺にもっと力があれば、ブランおじさんはこんな目に合わなかったのに」
オルレンは涙を見せたくなくて誤魔化す様にフロラルから桶を受け取ると、テーブルに置いてブランに背中を向けた。
周囲にいくら優秀だと言われても、権力を前にすれば、なす術なく狼狽えることしかできない。
水に映るのはただの平民の、少年だ。
「……違う」
暴れていたブランはオルレンの背中を見て静かにそう言った。
「お前らを貴族のゴタゴタに巻き込みたくなかったんだよ」
ますますオルレンは自分の不甲斐なさを痛感し、眉根を寄せる。それを聞き「ありがとう」とはならない。
暫く桶に映る自分を睨んでいると、背後から「ぅぁぁぁぁあもう!」という聞き馴染みのある癇癪声が聞こえた。
オルレンはゆっくりと振り向く。
「貴族としての俺をお前らに見せたくなかったんだよッ!……お前達だけには失望されたくなかった。……怖かったんだ」
ベッドの上で縛られたままで項垂れているブランは本音をぶちまけた。
二人に自分の素性を言えなかった本当の理由は、貴族としての矜持でも花守としての義務でもなんでもない。
ただただ自分が今もなお、花園に縋り付く愚か者の末裔だと二人に思われるのが怖かったからだ。
オルレンは大きく目を見開く。そのせいで、溜めていた涙が零れ落ちた。
今まで周りのどれだけ偉い貴族に悪口を叩かれても「言わせとけ」と鼻で笑っていたあのブランが、自分達に嫌われたくないという感情を抱えていたことが、オルレンにとって意外で、同時に、
――ものすごく嬉しかった。
「……ふっ」
思わず吹き出したオルレンにブランは柄にもなく顔を真っ赤にした。
「分かったらさっさとこれを解けぇぇッッ!!」
そう噛みつくブランに、フロラルがベッドによじ登り頭をポンポンと撫でた。オルレンもそれに便乗する。
「な、なんだよッ!やめろッ!!!」
「ルーチェ様から逃げる理由を話してくれたら考えます」
「分かった!分かったから離れろ!!縄を解け!!」
これ以上揶揄うと後が面倒くさいので、オルレンとフロラルは言われた通りに縄を解いてやった。
ブランは最大級の溜息を吐いて肩をグルグルと回す。そして他言無用だと二人に釘を刺した上で彼がルーチェから逃げる理由を話し始めた。
「俺は花園で確かに怪我を負った。だがこの通り、外傷は何もない。…………嬢ちゃんが俺に治癒魔法を使った可能性が高い」
「ち、治癒魔法ッ!?」
あまりの衝撃に声が大きくなったオルレンの口をブランが塞ぐ。
「声がデケェよ」
「す、すみません……だけど、治癒魔法が使えるのは確か王族の許可を得た限られた魔法使いだけですよね?」
魔法や魔術に馴染みのないオルレンやフロラルでさえ、一薬剤師として、魔法一つで傷を癒すというその眉唾な魔法のことを知っている。
「ああ、その通りだ。アイツはその危険性を何も分かっちゃいない。治癒魔法は使い手に多大な負担がかかるんだ。命の危険だってある、そんな禁術だ」
オルレンとフロラルはゴクリと唾を飲んだ。ルーチェが医務室に来られなかったのはその反動のせいだったのかもしれない。
「……でも、ブランさんを助けようとしてくれたことに変わりはありませんから、どうかお手柔らかに……」
まさか、ブランはルーチェが治癒魔法を使ったことを報告するのだろうかと思ったオルレンはブランを説得しようとした。そんな彼にブランは「何を勘違いしてんだ」と片眉を上げる。
「オルレン、フロラル。俺に協力しろ」
「へ?」
今からブランがやろうとしていることを聞いた二人は空っぽになったベッドを見つめていた。
ブランがいなくなった個室は、先程のうるささが嘘の様に静かになっていた。
「ブランおじさん、もしかして、ルーチェ様に、こ……」
オルレンも同じことを思っていたが、フロラルの口を急いで塞いだ。あまりそういう邪推を口にするものではない。
「言うな。口にすると本当になってしまう」
そろそろ晩餐会も終わる頃だろうか。ブランが意識を取り戻したと聞かされたルーチェは間違いなく、飛んでここに来るだろう。
二人は窓から微かに見える本殿の光を見ていた。
今夜はやけに月が綺麗で、星々が夜空を彩っていた。
◆ ◆ ◆
晩餐会がお開きになったあと、バーナードはすぐさまルーチェを連れて帰ろうとしたが、ルーチェはそれを断った。
「お父様、どうしても確認しなくてはならないことがあるのです!」
「ダメだ。もう外に馬車を待たせてある」
「一瞬!一瞬でいいのですっ!」
どうしてもブランの様子を確認してから帰りたい。じゃないと今日の睡眠の質は最悪になってしまうだろう。
(なんなら、飛行魔法で飛んで帰れるから大丈夫!)
そう言おうとしたところで、シルヴァンが良い提案をしてくれた。
「バーナード卿、私が明日ルーチェ殿をお送りしよう」
「いいえ!これ以上シルヴァン殿下のお手を煩わせるわけには……」
シルヴァンがそう提案すれば余計にバーナードは首を横に振った。
ルーチェが頬を膨らませていると、シルヴァンは少し考えるようにして、やがてクスリと笑った。
「彼女には、研究室のやり残している仕事がまだあるのだ。それを放置して帰られるのは困る」
ブラック企業みたいな考え方である。懐かしいような悍ましいような心地がしたが、この時ばかりは権力者に感謝してしまった。
「……承知しました。ではルーチェをよろしくお願いします」
「ああ」
希少植物研究は王命。何を置いても優先するべき仕事なのだ。
許可が出たのでさっそく医務室に向かおうとしたルーチェの後にニコニコ笑顔のシルヴァンも続く。
「……シルヴァン殿下はいらっしゃらなくても大丈夫ですよ?」
ルーチェがコソッと優しい笑顔でそう言うと、予測していたのか「私もブラン殿に話があるからな」と即答した。
心の中で邪魔だなぁと思っていると、パトリックがシルヴァンに近づいて来た。
「シルヴァン殿下、少々こちらへ」
シルヴァンの完璧な笑顔がピクッと引き攣り、瞳から光が消える。何か急用を言われたようだ。その目は笑っていない。
(そんなにブランさんと話したかったのかな)
ルーチェは見当違いをしながらも、一人で医務室に向かうことに成功した。かと言って、医務室で長話する訳にもいかないので本当にブランの様子を確認してファーン兄弟の癒しをもらったらすぐ戻るつもりだ。なのでアリーには待機してもらっている。
周りに誰もいないことを確認して足に魔力を溜める。
これで少しは足が速くなる。
本当は飛行魔法を使いたいがここは王城なので誰かに見つかれば怒られてしまう。少し足が速いぐらいなら、誤魔化しが効くだろう。
「走りにくいなぁ」
今日はさすがに早着替え衣装ではダメだったので重たいスカートにヒールの高い靴だ。
「靴ぐらいなら脱いでいっか」
ルーチェは気づかない。
あと百メートル先の曲がり角に、第一王子リュシエル・セラレオールがいることを。
ヒールを片手に令嬢、いや人間とは思えぬ速さで夜の王城を駆け抜ける。本人は分かっていないが「少し足が速い」ではとても誤魔化しきれないスピードだ。
ルーチェがリュシエルの存在に気付いたのは曲がり角の直前。
(誰かいるッ!?)
急ブレーキをかけようとしたところでルーチェの身体はなぜか真横に引っ張られた。
「へぶっ!?」
情けない声を出しながらもルーチェはすぐに攻撃体制を取ろうとしたが自分のクッションになっている人を見て息を呑んだ。
「ぶっ!」
「しーーッ」
名前を呼ぼうとしたら背後から口を塞がれ、ある魔術具を握らされた。すぅっと魔力がその魔術具に吸われていく。
魔力探知に引っかからない効果のある魔術具だ。
「ん?何か変な声が聞こえませんでした?」
「そうかい?僕には聞こえなかったけど」
「リュシエル殿下、私が見て来ます。お下がりください」
リュシエルの護衛がいつでも剣を抜けるような態勢でゆっくりとルーチェ達に近づいてくる。
魔力探知されないとはいえ、当然ながら見つかれば怪しまれる。
そうなるより先に何食わぬ顔で自己紹介した方がいいのではと思ったルーチェの心を見透かして、口を塞いでいる手に力がこもった。それだけで「下手なことをするな」と言われているのが分かる。
よく考えたら今裸足だ。こんな格好で第一王子の御前に出る訳にはいかない。
「誰かいるのか?出てこい」
どちらの心臓の音かも分からないくらい心拍数が上がる。
――むりむりむり!!!!
「兄上。どうかされましたか?」
目を瞑って耐えていると、聞き馴染みのある声がした。
(シルヴァン様……!)
ルーチェ達へ向かっていたリュシエルの護衛はシルヴァンの声が聞こえた途端、すぐにリュシエルの元へ駆けつけた。
さすがに第二王子に剣を向けることはしないがご時世上か、警戒心が滲んでいる。
その護衛とは裏腹にリュシエルはパァッと顔を輝かせてシルヴァンを抱きしめた。
「シルヴァン!会いたかったよ!なんで昨日の夕食に顔を出さなかったんだい?」
「少し用がありまして」
兄に抱きしめられシルヴァンは笑顔で抱擁を返すが、その様子は少しも嬉しそうではない。
現状、この二人は王位継承を争っている。
「用?一体何の用だい?僕の帰還を祝うよりも大事な用だったのかい?」
「申し訳ありません。またの機会にお祝いをさせて下さい」
リュシエルの質問責めに狼狽えるでもなく、シルヴァンは笑顔で答える。
第一王子が帰還していてシルヴァンがなんとなく避けているのは分かっていたが……。
どうやら第一王子の帰還を祝う夕食に参加したくなくて、ルーチェのもとに身を隠していたようだ。
「もしかして……。噂のルーチェ・ハイアン、かな?」
名前を出された瞬間、ルーチェの背筋が凍る。
シルヴァンの碧眼には若干の影が落ちた。それを見てリュシエルは意味ありげな笑みを浮かべながら弟を見据える。
ここは確実に冷戦の最前線だった。
ルーチェは思った。
(この二人の仲、取り持つの無理じゃない!?!?)
絶望したまま固まっているルーチェをブランは静かに移動させた。
◆ ◆ ◆
「兄上……ルーチェは」
「いいなぁ!僕も会いたいなぁ!だって彼女、全属性なんだろう?優秀な魔法使いのたまごじゃないか。それに加えて次期聖女ときた。いやぁ、興味深い。あ。でももうすぐ会えるね。入学式は明後日だし」
シルヴァンが言いかけたのを敢えて無視し、わざとらしくそう言った。
リュシエルの朱色の長い髪がサラリと揺れると、女物の香水の匂いがした。
「……兄上は婚約者がいるでしょう?あまり他の女性と関わると問題になりますよ」
「大丈夫だよぉ。彼女は分かってくれるから」
シルヴァンはリュシエルの女癖の悪さに、時折本気で心配になる。
「シルヴァンにだって、婚約者いるだろう?」
「……婚約者ではなく、婚約者候補です」
リュシエルはなんとか弟を揶揄おうと話を持ち出したが、肝心な弟の反応はイマイチだ。
「アドルフィーネ嬢、だったかな。今年入学してくる子だろう?可愛い子だと耳にしたよ。シルヴァンにお似合いだと思うなぁ」
そんな揶揄いでシルヴァンは動揺しない。彼はいつも冷静で、相手の欲しがる反応を読み取り、その都度適応する能力に長けている。
笑顔を絶やさず、みんなの理想の王子でいようとする姿勢はリュシエルにはないものだった。
彼は幼い頃から一緒にいる側近以外には、感情をあまり表に出さない。
だが、さっきの目は――。
「僕がルーチェ・ハイアンに言い寄るのは心配?」
「……いえ、別に」
リュシエルはこれでも次期生徒会長。成績はずっと首席で、性格は天性の人たらし。さらにシルヴァンとはまた違うタイプの美貌の持ち主である。
そんなリュシエルに言い寄られるルーチェを想像しただけで……。
(……いや、ルーチェなら一定の距離を保ちつつ遠距離攻撃とかしてきそうだな)
そう思い直した。
想像して思わず笑ってしまったシルヴァンにリュシエルは少し目を丸くしたあと、何かを企むように目を細めた。
「これは本格的に妬けるなぁ」
「はい?」
奥の曲がり角にはルーチェが落とした靴がキラリと光っていた。
◆ ◆ ◆
ブランに連れられるまま裏道を通って辿り着いたのは、王立図書館の地下一階だった。
「ブランさんッッ!!元気なんですか!?身体は!?身体は大丈夫ですか!?!?」
ルーチェは今度こそ誰もいないのを魔力探知で確認したあと、ブランの周りをちょこまかと動きながら容態を確認する。
「落ち着け」
「あいたたたたたた」
むにぃと頬をつねられて身動きできなくなったが、すぐにルーチェの頬は解放された。
代わりにブランの手はルーチェの肩を掴む。そのまま彼は項垂れて動かなくなった。
「……ブランさん?」
ルーチェは顔を覗き込む。その顔を見てルーチェの心はざわめいた。
ブランは唇を噛み締めていた。ルーチェを巻き込んでしまったことを酷く後悔していたのだ。
「なぜ治癒魔法を使った……!」
ルーチェの肩を掴む力がより強くなる。
魔法の知識があり、治癒魔法を実際に受けたブランが気づかないはずがない。
治癒魔法は使い手に大きな負担がかかる。それも命を賭けるほどの負担が。だからこそ、禁術とされているのだ。
「わたしは大丈夫です。ほら!この通り元気です。魔力だけは多い体なので……」
「そうじゃない。いやそれもあるが、王子殿の前でそれを使ったんだろ。……嬢ちゃん、この先の争いに巻き込まれるぞ」
冷戦状態の中、今は魔法使いや魔術師の需要がどこそこで高まっている。ブランはそれにルーチェが巻き込まれることを心配していた。
「でも、大丈夫です。シルヴァン様は不問にしてくれるらしいですよ。目的はまだ分かりませんが……」
ブランはそれを聞いて一瞬目を丸くしたが、すぐに険しい表情に戻る。
「だが、王子殿がそれを知っている事実は変わらんだろ」
「そうですけど……」
頭を抱えてハァッとしゃがみ込むブランにルーチェは頬を膨らませる。
「だって、ブランさんに死んで欲しくなかったんですもん!」
「そうやって後先考えずに自分を犠牲にするな!!」
クワッと目を見開き、すぐに雷が落とされてしまった。それでもルーチェは反抗する。
どれだけ怒られても自分の判断が間違っていたとは思わない。
「後先はちゃんと考えました!ブランさんが今言ったような事態になることも!でも、貴方が死んで良い理由にはならないっ!貴方が大事な人に殺されて良い理由にはならないっ!」
青筋を立てていたブランはルーチェの言葉に思わず呆気に取られてしまった。
「何を置いても貴方の命が最優先だったんです!」
その言葉に重なるのは昔実の父から言われた冷たい言葉。
――『それが、お前の命より大事な使命だ』
そう言われ続けて生きてきたブランには眩しくて、温かくて、得難い言葉だった。
じわりと目頭が熱くなったのを隠すようにブランは下を向いた。
医務室でのオルレンとフロラルとのやりとりも相まって、今、彼の涙腺は柄にもなくゆるゆるなのだ。
「……すまん。そうじゃない。そうじゃないんだ。嬢ちゃんをここに連れて来た理由は、感謝を伝えるためだ」
聞いたことのないブランの声色に今度はルーチェが驚いた。
そんな驚いた顔にブランはそっと触れる。
そして優しく笑った。
「助けてくれてありがとう、嬢ちゃん」
その言葉に、ルーチェの瞳は光を宿す。
涙でいっぱいになったせいか、はたまた神様が星の輝きを与えたせいか。
「……よかったです、本当に。ブランさん生きててよかった……」
大粒の涙を流すルーチェにブランは困り果てる。
困り果てた結果、ルーチェの頬をみょんみょんと捏ね始めた。
「貴族がそんなに泣くもんじゃねぇぞ」
言い方からして、ブランなりの励まし(?)だとルーチェには分かる。
余計に涙が止まらなくなった彼女の前にブランはどこからか長い木箱のような物を差し出した。
「……これは?」
恐る恐る木箱を受け取り、中を開いた。
中に入っていたものを見てルーチェの涙はピタリと止まった。
そこにあるのは、魔力が飽和してキラキラと輝く、一輪のタンポポ。
「嬢ちゃんに借りを作るのだけはごめんなんでな。勘違いはして欲しくないんだが、嬢ちゃんが使った分の魔力ぐらいは返した方がいいと思って……」
ブランは早口でツラツラとそう言葉を続けたが、ルーチェには全く聞こえていなかった。
この前彼が話していた、魔力を込めた花だ。ルーチェは何のためにその花をあげたり貰ったりするのか知らなかったが、今分かった気がした。
「きれいです。とても」
触れるのも怖いぐらい、儚くて美しい。
いっとき見惚れていたルーチェだったが、すぐに研究者としての血が騒ぎ始める。
「一体どうやって作ったんですか?王族以外はタンポポに魔力は込められないと思っていたのですが、違うんですか?」
すぐに研究物を見定めるかのようになってしまったルーチェに何とも言えない気持ちになりながらも、ブランはフッと口角を上げた。
「ああ。花守に代々伝わる魔術具があってだな。嬢ちゃんがこの間魔力を込め続ける実験してただろ?その結果を元に魔術具を少し改良して、王族じゃなくても希少植物に魔力を込められるようにしたんだ。莫大な魔力が必要だけどな」
「すごいっ!でも、魔力込めたらタンポポ増えちゃいますよね?多分陛下がお怒りになると思いますよ?」
陛下はブランが昔の慣習に倣うのを望んでいないと断言していた。そしてタンポポの寿命はあと数年であると。だからこそ、花園の取り壊しを取り止め、ブランが花園を隠蔽していたことを不問としたのだ。
「実験分のタンポポは何をしてもいいと許可を得ている」
「いつの間に……」
「最初に言われたろ?」
呆れたようにそう言われてルーチェは考える。
「最初……ってええ!?セルヴァイアで見つけたあのタンポポのこと言ってます!?」
「そのうちの一輪がそれだ。いやぁ、一応貰っておいてよかったぜ。実験の一つと言えば、約束を破ったことにはならねぇだろ?」
なるか、ならないかで言ったら、なると思う。
しかしルーチェはそんな言葉を飲み込んで、木箱の中に入っているタンポポを見つめる。
これが没収になったらおそらく泣き叫ぶだろう。
そう思い、下手に反論するのをやめた。
ルーチェがタンポポを見てニヤニヤしているのに居心地が悪くなったブランは、雑に頭を掻いて、図書館に出る階段を上り始めた。
「そのタンポポの経過記録ちゃんと書けよ。そしてちゃんと俺にも報告しろ」
「ふふん、もちろんです」
ルーチェはご機嫌な足取りでブランの後に続く。
「わたしにもその改良した魔術具見せて下さいよ!」
ブランは少し考えてニヤリと口の端を上げた。
「タダでは見せられねぇな」
「ええー!」
「そうだなぁ、あの『コピペ魔法』とやらを教えてくれたら見せてやらんでもないが」
ブランは字や絵が下手くそだ。確かにコピペがあれば清書作業がうんと楽になるだろう。
だが、この魔法が広まるのは少々怖い。どんな影響があるか分からないのだ。
「うーん。条件契約付きだったらいいですけど……」
「よし、乗った」
オリジナルの魔法を普及する際に条件契約を付けることは至って普通のことなのだが、ルーチェは知らなかった。
一方で安く買い物ができたブランの足取りは軽い。
なにより、これからは気兼ねなく、花守としての知識を活用して共有できる。
未来の実験に思いを馳せるだけで、蔓延っていた胸の突っ掛かりは綺麗に消え去っていった。
「おい、それより嬢ちゃん、靴どうした。……まさかあの場所に置いてきたのか?」
「……あれ」
そう言われてルーチェは自分が靴を履いていないことに漸く気付いた。そしておそらく靴はあの現場に……。
「後で回収しに行きます」
「まぁ、あそこなら死角だし、さすがに気付かれねぇだろ」
男の前で靴を脱いで素足を晒すというのは、淑女としてあまり良い行動とは言えないのだが、ブランはその点には触れなかった。
「きれい……」
図書館に出ると一番に大きな天窓が目に入った。
差し込む星々と月の明かりは一部の本棚を静かに照らしている。昼間とはまるで別の顔を持っている空間だ。
あたりは当然静まり返っていて、あのおじいちゃん司書もいない。
「そういえば聞きそびれていたが、なんで靴も履かずにあんなところを全力疾走してたんだ?」
「ブランさんに早く会いに行くために医務室へ向かっていました」
ふふんと胸を張って答えると、ブランは残念なものを見るかのような目になった。
「……そりゃありがたいが、医務室は反対側だぞ」
「え」
ブランは角灯を持って来ると中に入っている魔法石に魔力を込め始めた。
魔法石は瞬く間にオレンジ色に淡く光る。
「これだからお貴族様は。付き人がいねぇとなんにもできねぇな」
ルーチェはへへと頬を掻きながら誤魔化す。
「ブランさんこそ、あんな所で何してたんですか?」
「……さっきまでそのタンポポに魔力を込めまくってたんだよ」
ブランはどうしても飽和する状態になるまでタンポポに魔力を込めたかったのだ。
今日中にルーチェに渡したかったというのもあり、実はさっきまで間に合うかハラハラしながら作業に専念していた。だからルーチェから隠れる必要があった。
「そんなに魔力使って大丈夫なんですか!?安静にしておかないと……」
「大丈夫だ。回復薬飲んだから」
ルーチェは疑わしそうにブランを見たが、ルーチェが言えたことではない。
「ようやく完成して医務室に戻ろうとしていたら全力疾走してる嬢ちゃんを見つけたんだ。あとちょっとで第一王子と事故るとこだったぞ」
「あ、ありがとうございました。この度は……」
あそこで衝突事故を起こしていれば、第一王子に怪我をさせてしまっていたかもしれない。そうなれば王子同士の仲を取り持つどころの話ではなくなっていただろう。
「オルレンとフロラルに嬢ちゃんが医務室に来たら足止めしていてくれってお願いしてたんだがな。無駄だったみたいだ」
ブランは初めてここで会った時と同じように窓の縁に腰掛けた。その表情はあの時と違いとても穏やかだ。
「二人と何かありました?」
「変なとこで目敏いな……お前」
目敏いと言うけれど、誰がどう見ても分かるぐらいにはブランの表情は晴れやかだった。
「まぁ、そうだな。やっとあの二人と対等に同じ場所で研究ができる気がする」
窓の外に目をやりながらゆっくりと、ひとりごとのようにそう言った。
そこに部外者であるルーチェが居座り続ける余地はない。希少植物についてまだまだ研究したいことはたくさんあるけれど、ある程度の結果を王族に提出できれば、ルーチェはそこにずっと籍を置くことはできない。
ルーチェもブランと向かい合わせになるように窓の縁に腰掛けてみた。ブランは何も反応せず、立てた足に頬杖をついて外を眺めているだけだ。
沈黙が流れる。
その沈黙はルーチェにとってとても心地よかった。
ブランからもらったタンポポをそっと摘んで取り出してみると、月明かりを反射して先程より一層美しく見えた。ルーチェは自然と顔を綻ばせる。
ブランは変わらず窓の外を見ているフリをしていた。
月明かりの中、窓ガラスにうっすら映る、小さな翡翠色の光。
ブランは、そこから目を逸らさずにいた。
やがて、ルーチェは丁寧にタンポポを木箱にしまってブランを見つめる。
――そこは何が見えるのだろうか。自分も同じ目線で何かを見ることは叶わなくなるのだろうか。
「……なんて面してんだよ」
「なんで見てないのに分かるんですか。今は頑張って真顔ですけど」
「頑張ってんのが分かんだよ……」
ブランは呆れたように溜息を吐くと、外からルーチェに目線を移した。
「……二人に腹割って話せたのは嬢ちゃんのおかげだ。きっかけをくれてありがとな」
「どうしたんですか、ブランさん。今日は二回もありがとうを言ってくれるなんて。まだ体調が悪いんじゃ……」
ブルブルと震えるルーチェの頬をブランは容赦なく抓る。
「そんなに抓られたいか」
「もぉつねってますぅぅう」
それでもブランはなんだか気分が良さそうだ。
本当は、ロドリクとはどういう関係だったのかとか、花園で彼に何を言われたのかとか、聞きたいことは山のようにあったはずなのに、ブランのこの顔を見ればルーチェの中にある黒いモヤモヤが少し晴れたような気がした。
ルーチェは抓られた頬をさすさすしながら、ブランの横顔をじっと見つめた。正確には、月明かりのせいで鮮やかな黄色に光るブランの瞳を。
「な、なんだよ」
「ブランさんの目って、タンポポみたいですね」
「…………はぁ?」
「……あ」
ルーチェは数秒後、口を押さえる。
つい、口に出してしまった。
この世界の人々が知っているタンポポは、綿毛の姿だけだ。図鑑にも、花の色までは書かれていなかった。
「タンポポは何色?」と聞かれたらおそらくみんな「白」と答えるだろう。
――綿毛になる前の花が黄色いなんて、知っているはずのない話である。
魔力付与によって増殖が当たり前だった昔の花守なら綿毛になる前の黄色のタンポポを知っていたと思うが、どの記述を探しても色までは書いてなかった。黄色の期間が恐ろしく短いのか、綿毛の状態を開花としていたのか、とルーチェは推測して……と、今はそんなことはどうでもいい。
輝いていたブランの瞳から光が消え、訝しむように眉を寄せる。
「俺の目は白じゃねぇが?」
「いや、あの間違えました。白っぽく見えただけです」
「お前がタンポポの色を間違えんのか?……まさかお前、何か知ってることが……」
ルーチェは慌てて腰掛けていた窓の縁から降りて、「あぁーー!」と声を上げた。焦っている時ほど、ベタなことをしてしまう。
「アリーを待たせていたの忘れてました!オルレンさんとフロラルさんに会えなかったのは残念ですが、ブランさんが元気そうなのを確認したんで戻ります!」
「おいちょい待て」
ルーチェの肩はガシッと掴まれた。ブランはとっても機嫌の良い笑顔でルーチェの手の中にある木箱を目で指し示す。
「それ、数日で増殖すると思うが、経過報告、忘れんなよ?」
「……は、はぃぃ」
(なんでわたしが綿毛になる前の色を知っているのか、うまい言い訳、募集中!!!)
ブランの追求から逃げるように図書館を出た後、ルーチェは靴を取りに先程の場所に向かった。
「あれ。こっちじゃなかったっけ……」
王城は同じような景色が続くので分かりづらい。決してルーチェが方向音痴だからとか、そういうせいではない。
裸足のまま戻ったらきっとアリーに叱られてしまう。
「何か探し物かな?ルーチェ殿」
ビクッと飛び跳ねて振り返ると、そこにはルーチェのヒールの靴を持ったシルヴァンの姿があった。
「シルヴァンさ、ま」
今一番見つかりたくない人に見つかってしまった。
頬を引き攣らせているとシルヴァンは嬉しそうにずんずんと近付くと何も言わずにしゃがみ、ルーチェの前に靴を置いた。これは履けということだろうか。
「肩に手を置いて」
恐る恐るというか、ほぼシルヴァンの肩には触れずに靴を履いた。
「あ、ありがとうございます」
シルヴァンは立ち上がるとルーチェが持っている木箱に目を留めた。その視線に気付き、木箱を持つ手に微かに力が籠る。
「それは?」
「……実験中の希少植物です。ブランさんから経過観察を頼まれていまして」
嘘は言っていない。ただ全ては言っていないだけだ。
シルヴァンは面白くなさそうにふーんと言って目を眇めた。
「あ、ブランさん、元気でしたよ!あの感じだったらお話しするのも差し支えないと思います。よかったですねシルヴァン様」
「話?」
「シルヴァン様が先程、ブランさんとお話があるとおっしゃっていたではないですか。あの時パトリック様に呼び止められて、落ち込んでいらっしゃったでしょう?」
シルヴァン的にはブランとの話はルーチェに同行するための口実のようなもので、落ち込んでいたのもそれが上手くいかなかったからなのだが、ルーチェには全くもって通じていない。
シルヴァンは胸の辺りにチクチクとした痛みを感じた。
父や兄と会話をして疲れたからだろうか。
ルーチェの顔を見たら吹き飛ぶと思っていたが、ちっとも心が晴れない。寧ろモヤモヤとした霧がかかったようで彼女の顔を見ると更にその霧が広がった。
シルヴァンは思わず胸をギュッと抑えた。
「シルヴァン様?どうされました?」
ルーチェは控えめに首を傾げてシルヴァンの顔色を窺う。
ここに居るのが自分ではなくブランだったら彼女はどんな顔をしてどんな言葉をかけただろうか。
「君は……なぜ私には触れてくれないんだ」
「………………へ?」
夜の王城は声がよく響く。
ボソリと言ったとしても聞き間違えようがない。
ルーチェは数秒固まる。完全に答えに困っているのにシルヴァンはじっとルーチェの答えを待っている。
「あの、シルヴァン様。貴方は王族です。わたくしのような者が、易々と触れていいようなお身体ではありません。それに、シルヴァン様だけという訳でなく、わたくし自身も無闇に他の方に触れたりはしません」
ルーチェがフリーズした後に紡ぎ出した言葉は、シルヴァンの怒りを買ってしまった。
口をへの字にしてまるで子供のようにルーチェをビシッと指差した。
「さっき、ブラン殿にはベタベタ触れられていただろう!?」
「さっき!?」
「俺が兄上と話していた時だ」
シルヴァンはルーチェ達がリュシエルに見つからないように機転を効かせたのだ。だから喋りたくもない兄にわざわざ声を掛け、ルーチェ達が逃げる隙を作った。
シルヴァンの子供のような態度と、意図して声を掛けてくれたことに驚愕しルーチェは口をパクパクしていた。
「気付いていたんですね。ありがとうございます」
とりあえずルーチェはシルヴァンにペコリと頭を下げた。なのに、ちっとも納得してくれない。無言の圧で先を促される。
「た、確かにブランさんと距離は近かったですが、あの時はブランさんもわたくしも隠れるのに必死だったんです。事故みたいなもので……」
ブランは基本的にルーチェの扱いは雑だ。あの扱い方を「触れる」という優しい表現で表していいのだろうか。
「靴を履く時も肩に手を乗せろと言ったのに、全然乗せなかっただろう。花園でだって、全然エスコートされてくれなかったな」
(バレてたか……)
「それなのに、ブラン殿とは事故ごときで触れ合うのだな」
「ふ、触れ合!?語弊があります!」
反論しようとしたらジトっと半眼で見つめられルーチェは言葉に詰まる。事実無根なのに、反論を許さぬような青い目を向けられ追い詰められた小動物のような気持ちになった。
「つ、つぎ!次機会があれば、ちゃんと肩でも手でもお借りしますから!」
遂に耐えきれなくなって投げやりにそう叫んだ。それでもシルヴァンはいじけている。
「……次?今回は?」
「今回!?」
(なんで今日はこんなにしつこいんだ!?)
期待する眼差しを受けて折れたルーチェは白旗をあげた。
「じゃ、じゃあ手を出してください」
シルヴァンの掌にルーチェは手を重ねた。
(冷た……)
シルヴァンの手は氷のように冷たかった。
三秒ほど重ねた後、「これでいいでしょう」とルーチェは手を引こうとしたがシルヴァンは無理やり指を絡ませた。
「………………あのぉぉ、シルヴァン様?」
「ルーチェの手は温かいな」
「……シルヴァン様の手が冷たいのですよ。末端冷え性はあまり良くないですよ」
掌全体にじわじわと冷たさが伝わり徐々にルーチェの手の温もりは奪われていく。
ルーチェの頭の上にはずっと疑問符が浮かんでいた。
シルヴァンのこの一連の行動が理解不能という顔をしている。
シルヴァンはルーチェがもう片方の手で胸に抱いている木箱を一瞥した。彼はゆっくりと手を伸ばす。
その手は木箱――ではなく、ルーチェの首筋に触れた。
「!?」
両手が塞がっているせいで阻止できず、体はピクリと小さく震えた。彼女は手から逃れるように一歩後ろに下がる。
「そんなに寒いのならもう戻りましょう」
気まずさに耐えきれなくなったルーチェは誤魔化すようにシルヴァンにそう提案した。
「ああ。そうだな」
ルーチェの反応を見てシルヴァンの中の何かがさっきより満たされたような心地がした。
彼の心は少しだけ温かさを取り戻した。
まだ希少植物研究は続きますが、これにて【第一章 希少植物編】は終了です。次回からはいよいよセルヴァイア魔法学園へ。
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