【1-10】ダルス領、路地裏にて。
最近、ダルス領民の間で有名な噂話がある。
——ラオブルート様が隣の領地、ハイアンのご令嬢に求婚し、こっ酷く振られてしまったらしい。
そんな、不名誉な噂である。
武を尊ぶが、比較的温厚な者が多いダルス領では、そんな不名誉な噂を政治的な観点から咎める領民は少なく「坊っちゃんも早いうちに現実を知れてよかったじゃないか」と生温かい目でその噂話を楽しんでいた。
笑い声の行き交う大通りから、一本入った陽の当たらない路地裏。
煙草を咥え、煙を不満と共に吐き出す男が、一人座り込んでいた。
「あーあ全く。平和ボケしてやがるぜ」
彼の名前はロドリク・モーデン。
かつて理知的だった焦茶色の目は年齢のせいか酒の飲み過ぎ故か不健康に濁り、たくさんの論文を書いてきたその手はもうペンも握れぬ程、痩せ細っていた。
遠い昔、ロドリクは愛弟子にこう言った。
——身につけるのが一番簡単で最強の武器になるもんはなんだと思う?
と。弟子はこう返した。
——金。
と。
ロドリクはその答えを聞いて拳骨を食らわせてやった記憶がある。
今になって気付いてしまった。あの時の自分が、間違っていたことを。
「ああ。そうだよ。お前が合っていて俺が間違っていたんだ」
いつも周囲に虐められこの世の全てを憎んでいるような顔をしていた、小汚い少年。ロドリクは気まぐれで彼を弟子にした。
……俺が全て教えてやったんだ。何もかも。
力もなく知識もない弟子に、この俺が全てを教えた。
なのに……。あいつは今も自分のしたい事をのうのうと……。
「あー!こんな所にいたロドリク!」
目の痛い派手な紫色の髪をした少年がひょこりと路地裏に顔を出す。
「もう!随分探し回ったんだからね」
プンプンと頬を膨らませながら少年はロドリクに近づき彼の手に持っていた本に目を留めた。
「その本は、お弟子さんの本かい?なになに?魔力と植物について……。ふーん、大したお弟子さんだねぇ」
ロドリクは弟子の書いた本を何遍も何遍も読んだ。そして湧き上がるのは……。
「本当に、恩知らずなお弟子さんだねぇ。君はこんなに苦労しているのに」
少年はロドリクを抱きしめて甘ったるい声で囁き、白髪の混じった黒髪をするりするりと優しく撫でる。
その蜂蜜を煮詰めたような声がロドリクの胸の奥深くに沈んでいき自尊心を擽る。
「俺は政変で全て失いこのザマだっていうのに」
ダルス領では数年前に政変があった。前領主は領民から巻き上げた税を私利私欲に使う様な悪徳領主であったが、前領主の妻の実家が強力な後ろ盾であったため誰も口出しできなかった。
ところが、その妻が数年前に病死。娘を溺愛していた父は心を病み、その半年後に後を追うように急死したのである。
唐突に後ろ盾を無くした前領主は、ずっと迫害し続けていた自身の腹違いの弟とその母に今までの非道を暴露され、いよいよ領民の不満は爆発。その座を追われた。
そして今は領民を味方に付けた腹違いの弟――ラオブルートの父が、領主の座についている。
話だけ聞けば大団円である。きっと歴史書にも勧善懲悪の物語として記されるのだろう。
……その陰でそのまま一生を終える人間のことなど、最初から存在しなかったかのように。
前領主と一緒になって甘い汁を啜っていた貴族やその関係者も当然ながら一斉検挙された。
その中にロドリクの父親も入っていたのだ。すでに独り立ちしていたロドリクは連座を防ぐためすぐに絶縁しようとした。
だが不可能だった。
父親はロドリクが開発した魔術具などを前領主に紹介されたルートで密売していたのだ。その品に見合わない高額な金額で。
知らず知らずのうちにロドリクは罪を犯していた。
生涯かけて蓄えた知のせいでロドリクは陽の下を歩けなくなってしまったのだ。
……なんて馬鹿らしい人生。
少年はロドリクの頬を撫でゆっくりと瞬きをする。
「前の作戦は失敗に終わってしまったのが残念だったね。でも大丈夫。次はきっとうまくいくさ」
近くで顔を見れば、睫毛や瞳の色までも彩度の高い紫だったことを知る。
――まるで、人間ではないような。
「どうするんだ」
ロドリクは少年から目を逸らし、本に書いてある著者名を愛おしそうに撫でながら静かに問い掛けた。少年はニコリと微笑みロドリクを光のない紫の目で見つめる。
「君のお弟子さんがいる王都へ向かう」
「……えぇ」
ロドリクは心底嫌そうな顔をした。
その顔を見て少年はムスッと頬を膨らませロドリクの肩をツンツンする。
「良い年して我が儘言わないの!」
「……お前さんの方が年上だろうが」
少年は何も言わずに目を細め笑みを深めるだけだった。
「さあ行こう。君のかわいいお弟子さんのもとへ」




