【1-8】一方、その頃
自ら研究室を出た主人の後に続きながら、パトリックはその背中を見つめていた。廊下を歩く足取りにも雰囲気にも、気持ちの揺らぎは見えない。研究室にまだ足音が届く距離だからと、取り繕っているのだろう。
(こういう気遣いは大人になられましたね)
長年シルヴァンを見てきたパトリックは柄にもなく感慨深い気持ちになった。
廊下を曲がり、完全に足音も喋り声も研究室に聞こえなくなったぐらいでシルヴァンは唐突に足を止めた。
「シルヴァン様?」
パトリックの声掛けには応じず、シルヴァンは壁におでこを付け動かなくなった。パトリックは長年の経験上、主人がどういう気持ちでこの格好をしているのか理解している。
「シルヴァン様は今落ち込んでいるのですね」
冷たい壁におでこを付けることで冷静になれると以前本人から聞いたことがあったので言い当ててみた。
シルヴァンはおでこを壁に付けたまま器用にパトリックを睨む。頭だけを動かすことでズリズリと銀色の前髪が壁に擦れて音を立てた。
「分かっているなら言うな」
パトリックは「はい」とだけ返事をした。そこに畏れも、ましてや心配なんてものは微塵も存在しない。
シルヴァンはそんなパトリックを咎めるでもなく目の前の壁を視界いっぱいに映したまま、今の心情を整理していた。パトリックにしか聞こえない声でポツポツと本音を漏らす。
王族の自分がその場に居れば、良くも悪くも空気は変わってしまう。今日は悪く働いてしまった。
ルーチェは今日自分に気を遣っていた。それは貴族として仕方のないことだ。でも昨日の幼くキラキラと目を輝かせて喋るルーチェをまた見てみたいと思ってしまった。第二王子としては伝承の話を済ませたら、研究員達が気を遣わないよう、すぐに研究室を後にするべきだったのに自分は欲張ってしまった。
シルヴァンが壁に向かって、取り留めのない言葉で言った内容はそんなところだ。
「じゃあなぜ部屋を出てきてしまったのですか」
パトリックはその答えを理解していた。ただ主人の気持ちの整理を促すために問い掛けたのだ。
「それは……。彼の前で、王族の俺がこれ以上研究を妨げるようなことはできないだろう」
再度恨めしそうにパトリックを睨み、そう言った。
彼とはブラン・フィールドのことである。
シルヴァンの中でブランの好感度は地の果てまで落ちてしまっているが、それはそれだ。
ブラン・フィールドの正体を知っているのは王族とシルヴァンの側近だけである。よってシルヴァンは、彼がどんな思いでこの研究に取り組んでいるのかよく理解していた。だからブランが、昨日と違う様子のルーチェに顔を顰めたのにもすぐに気付いたのだ。
かつての王族は神から授かった植物にうつつを抜かし己の国を滅ぼしかけた。結果、王族だけに止まらず大勢の貴族や民衆、歴史や文化までもが戦禍に焼かれ、多くの犠牲を払ってしまった。植物に貴重な魔力を込めるなどという王族の愚策によって。
――そして、王族の覚えもめでたい、ある貴族が巻き込まれる形で衰退の一途を辿った。
シルヴァンはブラン・フィールドに、いやフィールド家に負い目を感じている。
そしてブランは今もなお……。
「やれやれ。お互いに難儀な性格をしていらっしゃる」
パトリックが肩を竦めてそう言ってもシルヴァンは壁を見つめたままボーッとしている。
パトリックはそんな主をどうやって引き剥がそうか静かに思案する。
「ならば、少しでも研究の足しになる様に魔法学や植物学の本を図書館から探して研究室に持っていきましょう。本来はその約束でしたし。それが終われば例の精霊について情報収集を行いましょう。ルーチェ様の安全に繋がります」
こうやって他人のためにするべきことを示せばシルヴァンはすぐに壁からおでこを離して立ち直った。
「よし。すぐに行こう」
(……我が主ながらなんて単純な人なんでしょう)
青い目をキリッとさせたはいいものの、白いおでこには丸く赤い痕が付いている。
(今回はルーチェ様のためなので尚更元気になるのが早かったですね)
先程より軽快な足取りで歩み出した主人の背中の後をパトリックは追いかけた。その背中を静かに見つめる。
やはり、まだまだ幼い背中であった。
この後、図書館司書も、ルーチェ達も、おでこの丸い痕を凝視したが誰も指摘できずにシルヴァンはエリオにバカデカい声で「なんかおでこが丸くて赤いですよ!」と指差して笑われた。




