【第8話】 葉に宿る春雨
晴真は、畑を覆う葉を持ち上げて眉をひそめた。
「大きい。なのに、軽いな」
数日前、マルタから受け取った試験用の種を一包みだけ選び、農家の隣へ小さく播いた。春の成長を移した若葉は、期待どおり目に見えて育った。昨日までは両手ほどだった葉が、今朝には晴真の上半身を隠せるほど広がっている。
成功に見えたのは、遠目からだけだった。
葉の縁は薄く乾き、持ち上げると張りがない。根元の土へ指を差し込めば、表面の色に反して中はぱさついていた。
「昨夕、雨水を入れたばかりだぞ」
「根が飲んだ」
背後からフィエルナが答えた。彼女は畑の端へしゃがみ、浅い排水路へ触れている。
「春の成長だけを重ねたのだろう。葉を広げ、根を伸ばすために、水を使い続けている」
「見た目だけなら豊作なんだけどな」
「見た目を食べるつもりか」
「前の仕事なら、それでも褒められた」
晴真は葉を裂き、断面へ目を凝らした。汁はほとんど滲まない。口へ入れるまでもなく、瑞々しさからは遠かった。
井戸から水を足せば、さらに育つだろう。だが、その分だけ虹穀へ回す水が減る。雨水にも余裕はない。
水不足を助ける春区画を作るつもりが、水を飲み続ける巨大な飾りを育てていた。
「追加の水はやめる。春も足さない」
「止めても、根は止まらない」
「分かってる。育てた分は残る」
畑の向こうで、ピィロが葉の上へ差した朝日を追っていた。乾いた葉先の、日を受けて温まった場所へくちばしを寄せている。
「ピィロ。そこは温めなくていい」
「ピィ」
返事だけはしたが、離れない。胸を僅かに膨らませ、温かな部分を自分が作ったかのように眺めていた。
昼前、畑へ来たマルタは、巨大な葉を見ても声を上げなかった。
「これが春の成果かい」
「失敗の方だ」
「先にそう言えるなら、少しは畑を見たらしいね」
マルタは葉を一枚つかみ、ためらいなく裂いた。断面を指で押し、乾いた繊維を確かめる。
「大きくした分だけ根が働いた。味も薄い。根が虹穀の方へ伸びる前に減らしな」
「全部抜く?」
「種を返す約束は、枯らすまで眺める約束じゃない。残す株と処理する株を分けるんだよ」
フィエルナが畑の反対側から歩いてきた。マルタの視線が、彼女の足元に沿って残る細い冷気へ向く。
「こちらが、冬を扱える仲間だ。フィエルナ・セルク」
「フィエルナだ」
短い名乗りに、マルタも顎を引いた。
「マルタ・エノ。村の種を預かってる」
互いに手を差し出すことはなかった。フィエルナは乾いた根元を見て、マルタは境界の土を見た。
「眠らせれば止められるのかい、フィエルナ」
「止めるだけならできる。だが、今すべてを眠らせれば、何が春の成果だったかも分からなくなる」
「眠らせたまま満足されても困る」
「目覚めさせる時期を決めずに畑へ戻される方が困る」
「初対面から噛み合ってるな」
「噛み合っていない」
二人の声が重なった。
晴真は乾いた葉をもう一度握った。春の成長を強めれば、葉も根も一緒に大きくなる。それが問題なら、畑全体へ春を与える必要はない。
「目的を変える」
「また増やす気かい」
「増やさない。水を飲ませるんじゃなく、葉に持たせる」
マルタが目を細めた。
「どうやって」
「春は芽を伸ばすだけじゃない。雨も露も春だ。畑に雨を降らせれば土が余計に水を抱える。だから、葉だけを対象にする」
晴真は残す株を一つ選び、その中でも傷みの少ない葉へ手を添えた。
畑ではない。根でもない。この一枚だけ。
春雨が若葉へ触れ、露を抱かせる性質を思い描く。
季節替えが働くと、葉脈の色が変わった。白く乾いていた筋へ淡い光が走り、薄い葉の内側へ透明な粒が集まっていく。葉は垂れるどころか、内側から満たされるように張りを取り戻した。
「おお……」
晴真が指で押すと、冷たすぎない水気が葉脈の中を滑った。
だが、変化は葉だけに留まらなかった。根元から少し離れた土へ、じわりと濃い色が滲む。
「クゼ」
フィエルナの声が低くなる。
境界側には、彼女が運んだ冬苔が置かれていた。湿りを吸い、白い表面が重く沈み始めている。
「まだ一枚だ」
「一枚でも波及している。冬苔は無限に吸わない」
「もう少し入れれば、厚みが――」
「晴真」
今度はマルタだった。
「大きさを競いに来たんじゃないんだろ」
晴真は葉の中心へ集まる露を見た。増やせば見栄えはよくなる。食べられる量も増える。
その代わり、境界の土へ水分が広がる。冬苔も限界へ近づく。
「……ここで止める」
手を離しても、透き通った葉脈は元へ戻らない。湿った土も乾かなかった。根は残り、吸水を続けている。
「葉を採る。根の負担を減らす。残す株は一つだけだ」
「妥当だ」
フィエルナは吸水した冬苔を境界から少し離し、乾いた苔と分けた。マルタは株ごとに根元を押し、土の減り方を見比べる。
晴真は巨大化した葉を惜しまず刈った。乾いた葉は脇へ分け、露を蓄えた一枚を両手で持ち上げる。
「最初に食べるのは俺でいいな」
「止めても食べるだろう」
「よく分かってきたな、セルクさん」
葉の端を折ると、透明な露が断面に浮いた。晴真はそのままかじる。
ぱり、と軽い音がした。
次の瞬間、青い香りとともに柔らかな水気が口いっぱいへ広がった。井戸水のような硬さも、冬の冷たさもない。雨上がりの若葉をそのまま噛んだような、淡く甘い味だった。
「これは、いい」
「感想が短いね」
「口の中が春雨でいっぱいなんだよ」
もう一口かじる。乾いた巨大葉とは、同じ株から採れたとは思えない。
マルタも小さく裂いて口へ入れた。数度噛み、飲み込んでから根元の株へ視線を戻す。
「味は認める。葉物として使える」
「合格か?」
「食えることと、畑で残せることは別だと言っただろ」
「やっぱりそこへ戻るか」
「根が水を食いすぎない株を残す。種ができても、中身を確かめる。次に同じ葉が出るかは、その後だ」
マルタは収穫分を指で分けた。
「食べる分。しばらく見る分。種を取る候補。混ぜるな」
「名前も分けた方がよさそうだな」
晴真は手の中の葉を見た。春雨を露として抱え、噛めば口の中へほどける葉。
「春露葉。こいつは春露葉だ」
「名前を付ければ育つわけじゃないよ」
「でも、次に同じものを目指せる」
マルタは否定しなかった。残す株の根元へ目印を置き、春露葉の一片をもう一度噛んだ。
夕方、春区画には刈り取った跡と、一株だけの種候補が残った。境界の土はまだ湿り、吸水した冬苔も元の軽さには戻っていない。
「この苔はいつまで眠らせる」
マルタが尋ねる。
「吸った水分が落ち着くまでだ」
「その後、種候補を畑へ戻す時期は」
「種が成熟する前に眠らせるつもりはない。対象と期間を分ける」
「なら、保存に入れる前に私が株を見る」
「構わない、マルタさん。ただし、眠らせる時期は私が判断する」
「畑へ戻せるかは私が見る」
二人は同意したわけではない。それでも、何をどこまで扱うかは決まった。
晴真が収穫籠を持ち上げると、ピィロが暖まった土へ近づいた。羽先が橙色に光りかける。
「ピィロ。そこは今、仕事じゃない」
金色の雛は土と晴真を見比べ、熱を引っ込めた。不満そうに背を向けた先には、まだ開けていない試験種の包みがある。
そのうち、日を好みそうな一包みへ視線が止まった。
「次はお前の出番かもしれないな」
「ピロロ」
ピィロは胸を膨らませたが、包みには触れなかった。
春区画は完成していない。春露葉が次も育つかも、種が残るかも分からない。井戸の問題も消えてはいなかった。
それでも、乾いた巨大葉しかなかった朝とは違う。
籠の中には、噛めば露が広がる葉がある。畑には種候補が残り、境界には止めるべき湿りの目安が残った。
晴真は春露葉を一枚持ち上げた。
「春は、早く育てるだけじゃない」
「次も同じ物を作ってから言いな」
「そこまで含めて、次の勝負だな」
マルタの返答はなかったが、帰る前に春露葉をもう一枚だけ持っていった。




