【第7話】 来年へ残す種
晴真は、霜をまとった虹穀の種へ手を伸ばしかけて止めた。
「全部持っていくのは駄目か」
「駄目だ」
フィエルナの返答は、指先が触れるより早かった。
壁際には、次の作付けまで冬の眠りを与えられた種が保管されている。村へ見せるためとはいえ、保存状態を崩してよい量ではない。
「向こうは種を預かってる人なんだろ。数が多い方が話は早い」
「残すべき種を減らしてまで、相手を驚かせる必要があるのか」
「驚かせたいわけじゃない。四つの畑を作るなら、違う種が要る」
「なら、成果を大きく見せるな。事実を見せろ」
フィエルナは保存分から少量だけを分けた。霜が薄くほどけ、虹色の粒が布の上へ転がる。
晴真は形のよい粒を選びかけたが、脇に残った色の淡い粒へ目を戻した。
「こっちは置いていくか」
「なぜだ」
「見た目が悪い」
「では、なぜ悪い」
答えられず、晴真は淡い粒も袋へ入れた。
「成功したやつだけ見せても、次に育つかは分からないか」
「ようやく理解したな」
「セルクさん、朝から容赦がない」
「種を減らそうとした者へ必要な分だけだ」
戸口では、ピィロが晴真の荷と畑を交互に見ていた。晴真が手のひらを見せても近づかず、朝日の当たる畑の縁へ移動する。
「来ないのか、ピィロ」
「ピィ」
短く鳴いた後、金色の身体は温かな石の脇へ収まった。
「俺より留守番を選んだな」
「自分で選べるのはよいことだ」
「そこは少しくらい寂しがってくれてもいいだろ」
ピィロは聞いているのかいないのか、羽毛を膨らませた。フィエルナが畑の境界へ細い氷の線を引くと、そのぎりぎりまで寄って熱を放とうとする。
「ピィロ」
声が低くなる。
ピィロは橙色に光りかけた羽先を引っ込め、不満そうにくちばしを閉じた。
「二人とも、畑を頼む」
「クゼ。水を使いすぎる話を持ち帰るな」
「分かってる。水が足りないから、種を借りに行くんだ」
「借りると決まったわけではない」
「そこから交渉してくる」
保存虹穀と水を携え、晴真は農家を出た。
既存の道をたどり、日が高くなる頃には畑と家々の集まる場所が見えてきた。村へ入る前に、晴真は道端で作業をしていた者へ目的地を確かめる。
「ここがラトラ村で合ってるか?」
返ってきた肯定に、晴真は続けて種の相談相手を尋ねた。
「共同倉を預かっている種守なら、マルタ・エノだ」
教えられた先で待っていたのは、腕を組んだ大柄な女だった。晴真を見るより先に、手にした袋へ目を向けている。
「種の相談だって?」
「久瀬晴真です。廻季原で畑を作ってる。これを二度収穫できた」
晴真が袋を開くと、マルタは眉一つ動かさなかった。
「名前は」
「虹穀。春と夏を使って育てた」
「誰が植えた」
「俺だ」
「誰が種を選んだ」
「俺と、冬を扱える仲間だ」
「何度採れた」
「二度。二度目も食べた。次の作付け用の種は冬の眠りで保存してある」
マルタはようやく一粒をつまんだ。
「来年も同じ物が採れる根拠は」
「そのために来た」
「答えになってないね」
短い言葉が、晴真の勢いを真っ向から止めた。
マルタは虹穀を爪で割った。粒の内側を確かめ、鼻先へ寄せて匂いを嗅ぐ。次に別の粒も割り、そのまま少し噛んだ。
「食べ物としては悪くない。甘さがあって、乾かしても香りが残る」
「だろ。温めるともっと――」
「種の話をしてる」
晴真は口を閉じた。
マルタは袋の底から色の薄い粒を拾い上げた。指の腹で押すと、殻の内側が僅かにへこむ。
「これは詰まってない」
「見た目だけじゃなく?」
「割れば分かる」
刃先で開かれた粒は、先ほどのものより中身が薄かった。
「二度採れたことと、袋の中身が全部次へ残ることは別だ。こいつを植えても芽が出るとは限らない」
悔しさより先に、昨朝まで自分が選んだ種だという事実が胸へ刺さった。形と色を見て分けたつもりだった。だが、内部までは見ていない。
今ここで春の成長を与えれば、反応する粒を見せられる。
晴真の指が僅かに動く。
だが、仮に芽が出ても、それは今この場で力を足した結果だ。来年も同じ条件で育つ証明にはならない。反応しない粒へ重ねれば、水と種を無駄にする。村の種まで巻き込めば、失うのは晴真の畑だけではない。
「……ここでは使わない」
「何をだい」
「芽を出させる力がある。でも、今出しても意味がない。育つかどうかじゃなくて、次も残るかを見てるんだろ」
マルタは割った粒を布の上へ戻した。
「少なくとも話は通じるらしいね」
「選別が甘かった。発芽しなかった粒も含めて、次の結果を持ってくる」
「次の種が手に入る前提で話してるね」
「四季ごとに違う役割を持たせたい。成長向き、熱に強いもの、実り方の違うもの、眠りに耐えるもの。できれば種類は多い方がいい」
「共同倉を空にする気か」
「そこまでは言ってない」
「顔には書いてある」
マルタは共同倉の方角へ視線を向けたが、すぐには歩き出さなかった。
「水は」
「井戸だけじゃ足りない。雨水と分けて使ってる」
「広さは」
「最初は小さくする。種類ごとに分けて、虹穀の水を削らない範囲だけ」
「失敗したら」
「失敗した種も持って戻る。何をしたか、何が育たなかったかも隠さない」
「追加を寄越せと言われても渡さないよ」
「次が欲しいなら、先に結果を返す」
マルタはしばらく晴真を見た。成果を見る目ではない。損失を誰へ押しつける人間かを測る目だった。
「晴真。村の主要な種は渡さない。共同倉の作付けにも触らせない」
姓名を確かめた後の呼び方は、親しさではなく責任の所在を固定するように聞こえた。
「分かった、マルタさん」
「少量だけだ。性質の違うものを選ぶ。全部育つと思うな」
「育たなかった方も成果にする」
「食えもしない失敗を、無理に美談へするんじゃないよ」
「そこは現物を見て決める」
「口だけは減らないね」
マルタが共同倉から持ち出したのは、幾つかの小さな包みだけだった。どれも一つの畑を埋められる量ではない。晴真が朝に思い描いていた獲得量より、はるかに少なかった。
それでも、包みごとに粒の形も重さも違う。
「同じ場所へ混ぜて植えるな。小区画に分ける。村の追加負担はなし。結果は現物つきで返す」
「了解」
「まだ信用したわけじゃない。虹穀が珍しいことと、あんたが畑を続けられることも別だ」
「次は、そこを見せる」
マルタは頷かなかった。ただ、包みを晴真の手へ渡した。
帰路では、昼に携行した保存虹穀を食べ、水を少しずつ使った。別の場所へ寄らず、包みを濡らさないよう抱えて道を戻る。
夕方、農家へ着くと、フィエルナが戸口で待っていた。
「大量には見えないな」
「最初から痛いところを突くな」
晴真は包みを机へ並べた。
「でも、違う種を少しずつもらえた。小区画限定。失敗も現物で返す。追加は当然にもらえると思うな、だそうだ」
「妥当だ」
「少しくらい俺の交渉を評価してくれ」
「能力を使わなかったのなら評価する」
「そこまで見抜くか」
「使っていれば、もっと得意げな顔で帰る」
ピィロが包みへ気づき、机の端まで寄ってきた。くちばしで一つをつつこうとする。
「ピィロ、これは温めない」
晴真が包みの前へ手を置くと、フィエルナも机の上へ細い氷の境界を引いた。
ピィロは線の手前で立ち止まり、袋と二人の顔を見比べる。やがて不満げな音を漏らし、代わりに晴真の手元へ温かな小石を置いた。
「仕事を取られた慰謝料か?」
「触れずに済ませたのだから、褒めておけ」
「ピィロ。今のは合ってる」
「ピロロ」
胸を膨らませた金色の身体の向こうに、性質の違う種の包みが並んでいる。
四つの季節区画はまだない。どの種が食べられる成果になるかも、来年へ残るかも分からない。水にも余裕はなかった。
だからこそ、最初から全部は育てない。
晴真は一つの包みを指で押さえた。
「まずは、春を試す区画からだな」
「今夜は植えるな、クゼ」
「選ぶだけだ」
「昨日も似た言葉を聞いた」
晴真は笑いながら手を引いた。
机の上には、奇跡の代わりに条件つきの挑戦権が残った。少量の種と、失敗まで持ち帰る約束。それは派手ではないが、次の畑を一度きりで終わらせないための、確かな入口だった。




