【第6話】 二度目の虹穀
土を押し上げた芽は、数えるほどしかなかった。
「……少ないな」
播種から数日。細い試験区画には、虹穀の若芽がまばらに並んでいる。緑の葉を伸ばした場所がある一方で、土のまま沈黙している場所の方が多い。
晴真は膝をつき、指先で土を崩した。種は残っている。腐ってはいないように見えるが、割れ目も根も出ていない。
「春を足せば起きるか」
「すべてへ与えるつもりか」
背後からフィエルナの声が落ちた。
「起きてないなら、起こすしかないだろ。ここを一度きりの畑で終わらせたくない」
「起きる準備ができていない種へ春を重ねても、水を奪うだけだ」
「やってみなければ分からない」
「だから、狭く試せと言っている」
止められたのではない。範囲を選べと言われた。
晴真は発芽していない一粒だけを掘り出し、その周囲の土ごと対象に定めた。移すのは春の成長。芽吹こうとする力を、ほんのわずかだけ重ねる。
土の匂いが濃くなった。種の表面が湿り、微かに膨らむ。
だが、それだけだった。
しばらく待っても、殻は割れない。
「もう一度なら――」
「クゼ」
フィエルナが短く名を呼ぶ。
試験区画の脇には、雨水を溜めた器と、井戸から汲んだ水が分けて置かれている。どちらも余裕がある量ではない。
晴真は種から手を離した。
「分かった。春を増やしても、今すぐ芽になるわけじゃない」
「休眠の深さが違う。こちらは浅い」
フィエルナは種候補を一粒ずつ指で転がし、冷気への反応を確かめていた。幾つかを発芽した列の近くへ置き、反応の鈍いものを別へ分ける。
「起こせる種だけを残す」
「全部を救う案は却下か」
「水が無限なら好きにしろ」
「無限じゃないから困ってる」
晴真が立ち上がったとき、軽い足音が畑の縁を走った。
「ピィロ?」
金色の身体が播種区画へ飛び込み、胸を膨らませる。二人が種を見ているのを、仕事の合図だと思ったらしい。
「待て、まだ――」
「ピロロ」
羽先が橙色に輝いた。
熱が広がったのは、芽のない側だった。土の表面から細かな湯気が立ち、残っていた湿り気がみるみる消えていく。
「ピィロ!」
晴真が低く呼ぶと、熱が途切れた。
しかし乾いた土は元へ戻らない。細いひびが走り、育っている芽の側からも水分が引かれ始めている。
フィエルナがすぐに手を伸ばした。冷気が乾いた側と発芽列の間を白くなぞり、細い境界を作る。
「水をやるな。乾いた側へ吸われる」
「分かってる」
晴真は雨水を芽のある列だけへ少しずつ注いだ。土が黒く変わる範囲を見ながら、乾いた場所には流さない。
ピィロは畑の外で小さく縮んでいた。羽毛から光が消え、熱を失った団子のようになっている。
「叱られたから終わり、じゃないぞ」
晴真は芽のある列を指した。
「温めるなら、こっちだ。出てない種じゃない。もう出てる芽」
ピィロは動かない。
フィエルナが冷気の境界をさらに伸ばし、乾いた側を区切った。
「こちらへ熱を入れるな。芽の列だけだ」
「二人で言っても、分かったかは怪しいけどな」
「少なくとも、お前よりは土を見ている」
「今の失敗は俺じゃないだろ」
「全粒へ春を与えようとしていた」
「……同じ方向の失敗ではある」
その日は、ピィロは畑へ戻らなかった。
夕方、農家の戸口に温かな小石が一つ置かれていた。晴真が拾い上げると、草むらの陰から金色の頭だけが覗いている。
「片づけに来たつもりか?」
ピィロは答えず、晴真の手にある石を見た。
翌朝、晴真が試験区画へ出ると、ピィロは先にいた。
乾いた側には近づかず、芽のある列の端で身体を伏せている。橙色の光が弱く灯り、一株だけを穏やかに温めていた。
葉がゆっくりと持ち上がる。
「そこだ」
晴真が声を上げると、ピィロは驚いて光を消した。それから胸を膨らませ、もう一度だけ同じ株へ熱を送る。
「ピィロ。今のは合ってる」
「ピロロ」
得意げな声が朝の畑へ弾んだ。
晴真は、芽の出なかった場所を見た。
春を足せば全部が育つと思っていた。だが、限られた水も時間も、反応しない種へ分ければ、育つ株まで失う。
「セルクさん。残す株を決めてくれ」
「お前が決めないのか」
「決めるために見分けてもらう。育てるのは、反応したやつだけだ」
フィエルナは一瞬だけ晴真を見た後、浅く頷いた。
発芽した株と、休眠の浅い種だけを残す。反応しなかった種は掘り返さず、給水の対象から外した。
晴真は選んだ株の根元だけへ春の成長を移した。若い葉が伸び、細い茎が立ち上がる。続けて夏の活性を重ねると、緑の色が濃くなり、葉の先が光を含んだ。
区画全体には広げない。
一株ずつ、芽のある場所だけを選ぶ。
ピィロは列の脇を歩き、時折立ち止まって熱を送った。勢いが増せばフィエルナの冷気が境界を白く染め、ピィロは不満そうに羽毛を逆立てる。それでも、芽のない土へ移ることはなかった。
その後の数日は、新しい実験を始めなかった。
晴真たちは農家の一室で夜を越し、保存していた虹穀と携行食を減らした。持ち帰った夏石芋も切り分けて食べた。雨が降れば器へ集め、井戸水は飲用と調理へ優先して回した。
途中、晴真は日帰りで四辻宿への補給路を往復した。持ち帰った食料は豊富ではなかったが、虹穀が育つまでをつなぐには足りた。
畑では、選ばれた株だけが伸び続けた。
春の成長は追加を止めても茎の内側に残り、夏の活性を受けた葉が日ごとに厚くなる。晴真は増えた芽へ手を広げず、最初に残した列だけへ水を配った。
やがて穂が出た。
薄い色だった粒は、朝日を受けるたび、赤、青、金、緑へと染まっていく。
試験区画を埋め尽くすほどではない。それでも、まばらだった芽は、確かな虹色の列になった。
「二度目だ」
晴真は穂を指で撫でた。最初の収穫とは違う。偶然生まれた一食ではなく、自分たちが種を選び、育て、待って得た実りだ。
「まだ刈るな。粒の内側が揃っていない」
「分かってる。ここまで待ったんだ。半日くらい我慢する」
「お前にしては長い我慢だな」
「褒めてる?」
「事実を述べた」
その日の夕方、三人で収穫した。
晴真が穂を刈り、フィエルナが過成長しそうな株を冷気で落ち着かせる。ピィロは刈り取った食用分へ近づき、羽先を明るくした。
「種には熱を入れるなよ」
晴真が言うより早く、フィエルナが種用の束との間へ氷の線を引いた。
ピィロは食用の穂と種の束を見比べる。
やがて食用分の前へ移り、短く熱を送った。香ばしい匂いが広がる。一方で種の側へは近づかず、氷線の手前へ温かな小石を置いた。
「選べたな、ピィロ」
「ピロロ」
胸を張る姿に、フィエルナがごく小さく息を吐いた。
「次も同じとは限らない」
「今は今ので褒めていいだろ」
収穫した虹穀は三つに分けた。今夜食べる分。乾かして保存する分。そして、次の作付けに残す粒。
フィエルナが種へ掌をかざすと、淡い霜が粒の表面を包んだ。凍らせるのではなく、芽吹く時まで眠らせる冬の力だ。
「目覚めさせる条件を決めるまでは、このまま保つ」
「次も育てられる種が、ちゃんと残ったわけだ」
「使い方を誤らなければな」
「そこは三人で間違えないようにする」
ピィロは自分も数えられたと分かったのか、保存用の籠の周りを一度だけ回った。
農家の一室で、二度目の虹穀を煮た。
温めた粒はふっくらと開き、最初に食べたときと同じ、穀物の甘さと香ばしさを返した。晴真が匙を口へ運ぶ隣で、フィエルナは味を確かめるようにゆっくり噛んでいる。ピィロは冷めるのを待てず、自分の分だけ軽く温め直した。
「同じ味だ」
「同じではない」
フィエルナが言った。
「今回は、次へ残る」
壁際には保存用の虹穀があり、その隣には冬の眠りに包まれた種がある。雨水と井戸水は使い分け、足りない食料は補給路でつなげる。使える部屋はまだ一つだけで、井戸も満ちてはいない。
それでも、ここで眠り、育て、収穫を待ち、次の種を残せる。
晴真は匙を置き、窓の外の細い季節畑を見た。
「一つの畑でこれなら、季節ごとに役割を分けたらもっと面白くなる」
「食べ終える前に次を始めるな、クゼ」
「今日は始めない。考えるだけだ」
「その言葉も信用しきれない」
ピィロが食卓の上で「ピィ」と鳴き、空になった器をくちばしで押した。
「お前は次の畑より、おかわりか」
晴真が笑うと、ピィロは胸を膨らませた。
農家の外には、二度目の収穫を終えた畑がある。室内には食料と、眠る種が残っている。
一度きりだった虹色の実りは、ようやく暮らしの続きになった。




