【第37話】 選んだ季節の一日
朝の受付を開ける前に、フィエルナは冬区画の境界を一周した。
前回の模擬運用で厚くした氷の線へ指先を当て、内側の冷気と休息場所の温度を確かめる。晴真は入口板を持ったまま、彼女の判断を待った。
「休息場所に異常はない。境界も戻っている」
「なら、今日は開けられるか?」
「限定人数なら。ただし、私が止めると言った時点で受入れを終える。再開はその場で決めない」
「分かった。冬区画の判断は任せる」
フィエルナは入口の氷を細く引き直した。
「開けていい」
そこで初めて、晴真は冬区画の入口板を外した。
ほどなく、四辻宿やラトラ村から来た人々が受付前へ集まった。
「道は途中で変えて構いません。疲れたら休む。買わずに帰るのも自由です」
晴真が伝えたのは、それだけだった。
春の道では近づく者へ反応して葉が開き、夏側からは乾いた暖気が流れてくる。冬区画の手前には休息場所が見え、秋の飲食場所からは熟した香りが届いていた。
「それでは、気になる方へどうぞ」
晴真はどの道も指ささなかった。
最初に動いたのは、夏を選ぶ者ではなかった。
「静かな方は、あちらですか?」
一人が冬側を指す。後ろから、長く歩いて疲れたという者も続いた。
植物住居へ目を向けた者たちは春へ進み、食を目当てに来たらしい一団は秋の飲食場所と販売区へ迷いなく向かった。夏側へ入った人数は、晴真が予想していた半分にも満たない。
「外れましたね」
春の入口に立ったセナトが笑う。
「大外れだな。もっと派手な方へ集まると思ってた」
「能力実演を残していたら、当たったかもしれませんよ」
「それは当てたんじゃなくて、寄せただけだ」
晴真は冬へ向かう背中と、植物住居を見上げる来訪者を交互に見た。
「好きに選んでこれなら、悪くない」
冬区画では、フィエルナが保存食を小さく分けていた。一切れ口へ入れた者が、意外そうに目を見開く。
「冷たいのに、味が薄くならないんですね」
「眠らせていたから。冬は何もなくなる季節ではない」
フィエルナは次の一切れを差し出した。
「今使わないものを、次へ渡すために休ませる。あなたも疲れているなら、無理に全区画を回る必要はない」
「祭なのに、休んでいてもいいんですか?」
「休む場所も含めて選ぶ催しでしょう」
来訪者は少し考えた末、敷かれた布へ腰を下ろした。後から来た者まで足を止め、保存食より先に静かな冷気を味わうように息を吐く。
春側でも、質問の向きが晴真の予想から外れていた。
「この壁は、毎日伸びるんですか?」
「伸び続けたら眠れませんよ」
セナトは植物住居の蔓を軽く押し戻した。
「夜は休ませます。朝も全部を起こすわけじゃありません。必要な窓と通路だけです」
「手入れは難しい?」
「簡単だと言ったら、住んでいる僕が嘘つきになりますね。花粉が多い日は掃除が要るし、枝の機嫌が悪ければ入口が狭くなる。でも、朝は壁が光を通すし、春が弱い日でもここへ戻れば仕事を続けられます」
来訪者は能力の仕組みより、寝床の広さや雨の日の過ごし方を尋ねた。
晴真は少し離れた場所で、そのやり取りを聞いていた。季節替えを見たいという声はない。代わりに、自分ならどの部屋を使うか、何を食べ、どこで休むかという話が増えている。
作った変化より、その中で続いている暮らしが見られていた。
「晴真さん、顔が緩んでます」
「成功してるんだからいいだろ」
「自分が注目されてないのに?」
「そこが一番いい」
昼を過ぎる頃、販売区の近くで低い警戒音が弾けた。
「チチッ!」
ピィロが羽毛を縮め、差し出された手から飛び退く。来訪者の一人が、さらに一歩近づいた。
「少し触るだけだよ」
ピィロは身体を熱くし、頭上に薄い陽炎を立てた。
「追わないでください」
晴真は二人の間へ入った。
「でも、他の人の近くにはいたでしょう?」
「近づいたのはピィロが選んだからです。触れるかどうかも同じです」
「呼べば戻ってくるんじゃないんですか?」
「戻るかは本人次第です」
晴真はピィロへ手を伸ばさなかった。逃げ道を空け、来訪者へ下がるよう促す。
ピィロは人の少ない連絡路へ走り、夏側の温かな石の陰へ姿を隠した。
「祭の仲間ではある。でも、客寄せの道具じゃありません」
来訪者は気まずそうに手を引いた。
しばらく後、晴真が様子を見に行くと、ピィロは石の陰から顔だけを出していた。少し離れた場所には、別の来訪者が座っている。追わず、呼ばず、ただ温かな石を眺めていた。
ピィロは何度か首を傾げたあと、自分から近づいた。
「ピィ」
「ここにいてもいいよ」
差し出す手はなかった。
ピィロはその足元へ座り、ふわりと羽毛を広げた。
晴真の隣に来たフィエルナが、声を落とす。
「戻るよう命じなかったのね」
「俺のそばへ戻すのが正解じゃないからな」
「分かっているならいい」
「褒めるところじゃないのか?」
「当然のことをしただけでしょう」
そう言いながら、フィエルナの視線はピィロが落ち着くまで離れなかった。
異変は、午後の人の流れが入れ替わった頃に起きた。
夏側の境界で土が湿り、隣の植物が不自然に葉を持ち上げていた。乾いた暖気の中へ春の匂いが混じり、境界を示す低い草が片側だけ伸び始めている。
「クゼ」
フィエルナの声と同時に、冬区画の入口へ氷の線が走った。
「冬区画の受入れを止める。中にいる者は休息場所から外へ戻す」
「分かった。隣の経路も閉じる」
晴真は後続を止め、入口板の向きを変えた。フィエルナは補正を待たず、冬区画の来訪者を外へ誘導する。
晴真は異変の中心へ膝をついた。
人と商品が何度も境界を越えたことで、残っていた季節性が刺激されている。派手さを保とうと夏を重ねれば、混ざる範囲が広がるだけだ。
「一点だけ補う」
晴真は湿りが染み込む境界土の一角を手で区切った。
季節替えで選んだ直接の対象は、その土だけだった。夏区画全体を強めず、弱まった乾燥の性質を小さく移す。
掌の下で土の表面が乾き、伸びかけた草の勢いが鈍る。だが、すでに湿った周囲も、持ち上がった葉も元には戻らない。
「ここから先は閉じる!」
晴真は分岐の板を切り替えた。
「夏側と冬区画は今日は再開しません。春の住居か休息場所へ回ってください。退出する方はこちらです」
「祭は中止ですか?」
「閉じるのは一部だけです。選べる道は残します」
セナトは春側の通路を広げ、滞在者を住居前へ招いた。フィエルナは閉じた入口を再び開けず、休息場所へ戻った者の様子を見ている。
ピィロも閉鎖区画へ戻ろうとはしなかった。晴真を一度見上げると、自分から春側へ回り、植物の少ない場所を選んで進む。
昼食を終えた者は住居を見学し、疲れた者は休息場所で水を飲んだ。一部の区画を閉じても、祭そのものは止まらなかった。
夕方、販売棚の前でネロイが差し出された追加の代価を押し戻した。
「本日の販売分はここまでです」
「倍払うと言っているんですよ」
「倍の代金で、次の取引まで失うつもりはありません」
ネロイは空いた棚と、奥の札が異なる籠を示した。
「残っているのは生活分か、次へ残す分です。欲しい方には次回条件をお話ししますが、今日は売りません」
「ネロイ、珍しく自分から儲けを逃したな」
「クゼさん。明日の商品を今日売るのは、儲けではなく食いつぶしです」
隣ではマルタが種畑の入口を塞いでいた。
「見るだけでも駄目ですか?」
「見る場所は外からで足りる。踏まない保証より、踏めない境界の方が来年には役立つ」
マルタは販売品の実と、畑に残した穂を順に示した。
「食べる分と、次に育てる分は別だ。祭が賑わったからといって、種まで今日の客へ渡しはしないよ」
予約品は約束どおり渡され、代価も精算された。当日分を買った者、飲食だけを楽しんだ者、途中で退出した者が、それぞれ出口を通っていく。
日が傾く頃には、最後の来訪者もラトラ村と四辻宿へ続く道へ戻っていた。
晴真は入口を閉じ、誰も残っていないことを確認した。
「全員退出。予約分の受渡しも、当日販売も終わった」
「生活分と種も残ってる」
マルタが答える。
「販売上限も守りました。追加注文はありますが、今日の売上には含めません」
ネロイが受け取った代価をまとめる。
セナトは植物住居の壁を撫で、笑った。
「住みたいかもしれない、と言われました。見世物としては、ずいぶん地味な感想ですけど」
「最高の感想だろ」
晴真は閉じた区画と、最後まで使えた別の道を見渡した。
来訪者は四季を順番に見なかった。買わない者もいた。途中で帰った者もいた。それでも、自分で選び、食べ、休み、必要な物だけを持ち帰った。
廻季原は初めて、外から来た者を自分たちの暮らしの中へ迎え、無事に送り出した。
「季節祭の一日目は成功だ」
晴真の言葉に、ピィロが胸を膨らませる。
「ピロロッ!」
だが、フィエルナは閉鎖した境界へ目を向けたままだった。
補正した一点の周囲では、日が落ち始めても土の熱が下がらない。乾いたはずの場所の脇に湿りが残り、閉じた葉が再びわずかに持ち上がっている。
「晴真。これは、今日中には戻らない」
「ああ」
晴真は手を触れず、境界の外から変化を見た。
追加で季節を動かせば、何が広がるか分からない。閉じた区画を再開する理由もない。
「今夜は触らない。入口も閉じたままにする。明日、どこまで残っているか見る」
祭は成功した。
その成功で動いた季節まで、夕方とともに眠ってくれるとは限らなかった。




