【第30話】 温度の違う夜
「今夜は、春を足した方が早いな」
連絡路の板を踏んだ晴真は、白くなった息を払いながら春性居室を見た。蔓の壁は眠りを保っているが、夕方から入り始めた冷気が、出入口の隙間を細く鳴らしている。
共用空間まで冷えきる前に、居室へ春を戻し、中央へ穏やかな夏を置く。頭の中では、もう配置ができていた。
「早いだけね」
冬性居室から出てきたフィエルナが、閉じた扉へ手を当てた。
「中の温度は、まだ保たれているわ。崩れているのはここよ」
彼女が示したのは、居室ではなく二つの扉の間だった。
セナトが春側から出る。続いて晴真が扉を開けたまま荷を運び、少し遅れてフィエルナが冬側へ戻る。そのたび、暖気と冷気が共用空間へ引き出されていた。
「部屋を補強しても、出入りのたびに抜けるか」
「足せば足すほど、境でぶつかる。春側は育ちすぎ、冬側は休めなくなるわ」
「では、今夜の冬側は任せる」
フィエルナが晴真を見る。
「決める範囲を確認したいわ」
「冬性居室と共用部の冷所。夜の見回り時刻もだ。俺は勝手に全体を暖めない」
「珍しく早い判断ね」
「褒めるなら、もう少し素直に頼む」
「結果を見てからにするわ」
共同食事場所へ料理を運び始めると、冷えた共用空間でピィロが震えるセナトを見つけた。
「ピィ!」
羽先が橙色に輝き、丸い身体から暖気が広がった。
「助かります。指が動かなくなるところでした」
セナトが両手をかざす。褒められたピィロは胸を膨らませ、さらに熱を強めた。
暖気は床を這い、春側の扉へ押し込まれた。眠っていた蔓の先がわずかにほどけ、乾いた葉が擦れ合う。
反対側から戻ってきたフィエルナは、足を止めた。
「ピィロ。そこでは使わないで」
「ピィ?」
「冬側へ熱が入る」
フィエルナが一歩退くと、ピィロの羽毛がしぼんだ。くちばしを閉じたまま、湯気の抜けるような音を鳴らす。
「僕は助かったんですけどね」
「あなたに必要でも、私には負担になる」
「両方にちょうどいい温度は?」
「今夜は作らない」
フィエルナは即答した。
晴真は共用空間を見回した。全員を同じ温度へ揃えるのではなく、必要な場所だけを分ける。前世なら空間全体を快適に見せることを優先しただろう。だが、ここでは見た目の統一より、誰がどこで休めるかの方が重要だった。
「暖所は春側の壁際。冷所は冬側の扉前。中央は通過だけにする」
「中央で立ち話は禁止ですか?」
「今夜だけだ。セナト、お前は暖所で待ってから食事場所へ移る。フィエルナが冬側へ戻るときは、春側の扉を閉める」
「自由な往来とは言いにくいですね」
「同時に扉を開けて全部混ぜる自由なら、今夜は諦める」
セナトは肩をすくめた。
「そういう不便を認めるようになったんですね、晴真さん」
「選べる不便ならな」
セナトは春性居室へ戻り、蔓の隙間を確かめた。花粉魔法で壁全体を育て直そうとはせず、風が直接入る場所だけへ細い枝を絡ませていく。
「ここは塞ぎます。でも上は残す。全部閉じると、朝に湿気がこもります」
「冷えるぞ」
「冷気が入らない部屋より、呼吸できる部屋の方がいいです。僕が寝る位置を壁から離します」
フィエルナは冬側の床へ薄い霜の線を引いた。扉の前に立ち止まってよい位置と、冷気を乱さず休める場所を分ける。
「夜の確認は三度。最初は私が見る。二度目は――」
「俺が共用部を見る」
「冬側の判断は私がするわ」
「任せる。異常があれば呼べ。俺が決め直すんじゃなく、役を増やす」
フィエルナは少し黙り、霜の線を伸ばした。
「それならいいわ」
夕食は温かな煮込みと、冷たい保存食を別々の器へ分けた。セナトは暖所で手を温めてから入り、フィエルナは冷所で呼吸を整えてから席へ着く。ピィロは中央で熱を出そうとして晴真に名前を呼ばれ、しばらく不満そうに背を向けたあと、自分から春側の壁際へ移った。
夜半、晴真が共用空間へ出ると、冬側の扉の隙間から淡い光が漏れていた。
フィエルナは冷所に膝をつき、床と扉へ何度も手を当てている。霜の線は保たれていたが、彼女の指先は白く、呼吸も浅い。
「まだ続けるのか」
「次の確認まで見ておくわ。冷え込みがさらに――」
「ピィッ」
低い声とともに、ピィロが二人の間へ割り込んだ。
羽毛の光は弱い。それでもフィエルナの手へ身体を押しつけ、作業対象との間から動かない。
「ピィロ、ここは熱を使う場所では――」
「使ってない」
晴真はしゃがみ、ピィロの様子を見る。温めようとしているのではない。止めようとしていた。
「お前が冷えすぎてると言ってるんじゃないか」
「判断できるほど理解しているとは限らないわ」
ピィロはフィエルナの袖をくちばしで引いた。離されると、今度は霜の線の上へ座り込む。
「少なくとも、続けてほしくはなさそうだ」
晴真は扉へ手を当てた。冷所は保たれている。今すぐフィエルナが見張り続けなければ崩れる状態ではない。
「確認役を分ける。次は俺が起きる。冬側で変化を感じたら、お前を呼ぶ」
「あなたに冬の判断はできない」
「だから起こす。抱えるなとは言わない。抱える量を決めろ」
フィエルナは反論しかけ、足元のピィロを見た。
小さな身体は光を失いかけていた。それでも逃げず、彼女と扉の間に居座っている。
「……分かったわ」
フィエルナが立ち上がると、ピィロもよろめきながらついていった。
冬性居室の脇には、溶けない氷台が置かれている。ピィロは一度だけ晴真を振り返ったあと、自分からそこへ乗った。冷たさを嫌がって飛び退くこともなく、身体の片側をフィエルナへ寄せる。
「熱は使わなくていいわ」
「ピィ」
「休みなさい。私も休む」
フィエルナの手が近づく。ピィロが拒まなかったため、彼女は羽毛の乱れを一度だけ整えた。
晴真は扉の外へ出た。二人を残しても大丈夫だと思えたのは、初めてだった。
次に起きたとき、冷所の霜は薄くなっていたが、境界は破れていなかった。晴真は扉を開けず、廊下側からフィエルナを呼ぶ。返事を待ってから確認を引き継ぎ、春側の扉が閉じていることを確かめた。
夜は静かに過ぎた。
翌朝、セナトは植物性居室から自分の足で出てきた。眠っていた蔓は無理に芽吹かず、風を通すため残した隙間にも凍結はない。
「寒かったですが、出ていくほどではありませんでした」
「褒め方が厳しいな」
「住居の感想は正確に伝えないと、晴真さんが次に何を足すか分かりませんから」
冬性居室からはフィエルナが現れた。顔色は戻っている。腕には乗せず、隣の氷台には丸くなったピィロがいた。
「冬側も問題ないわ。共用部の冷所は少し狭い。次は待つ位置をずらす必要がある」
「次もお前が決めてくれ」
晴真が言うと、フィエルナは足を止めた。
「今夜だけではなく?」
「冬側の判断は、これからも任せる。俺の案へ意見を出す役じゃない。お前の領分として扱う」
フィエルナはすぐには答えなかった。ピィロが氷台の上で頭を上げる。
「では、勝手に温度を足したら止めるわ」
「頼む」
「後悔しても知らないわよ、晴真」
名前を呼ばれ、晴真は一瞬だけ返事が遅れた。
「……朝から効くな、それ」
「何の話?」
「こっちの話だ」
セナトが笑い、ピィロが「ピロロ」と鳴いた。
同じ温度にはならなかった。自由に扉を開けることもできなかった。
それでも春を必要とする者は春側で眠り、冬を必要とする者は冬側で休み、小さな夏は自分で熱を使う場所と休む場所を選んだ。
四人はそれぞれの寝床から、同じ朝の共用空間へ集まっていた。




