【第29話】 次の春へ残す枝
「ピィロ、それは起きないぞ」
朝の春区画で、晴真はしゃがみ込んだ。
ピィロが灰色がかった蔓の前で胸を膨らませている。短く「ピィ」と呼びかけ、くちばしで葉をつつき、それでも反応がないと羽先を橙色に光らせた。
ぬるい熱が蔓を包む。
閉じた葉は開かなかった。縁が乾き、ぱり、と小さな音を立てただけだった。
「ピィー……」
ピィロは納得できないらしく、蔓の周囲を回った。
「遊び相手に振られましたね」
セナトが隣へ腰を下ろした。笑ってはいるが、指先からこぼれる花粉は薄い。数日前なら葉を揺らした光も、今は土へ届く前に消えていた。
春はさらに弱まっている。
晴真は乾いた葉を摘まみ、指の間で崩した。
「休眠株をまとめて整備しよう。傷んだ葉を落として、道へ伸びた根を切って、居室の壁も――」
「それを僕に任せるんですか?」
「ああ。見回りだけじゃなく、朝から夕方まで任せられる仕事になる」
セナトの笑みが消えた。
「晴真さんは、僕が暇だと困りますか?」
「暇が問題なんじゃない。せっかく残ると決めたんだ。春が弱くてもできることを――」
「用意してもらった作業をこなせば、置いてもらえる?」
柔らかな声だった。だからこそ、晴真の言葉は止まった。
セナトは乾いた蔓を持ち上げた。
「前と同じですよ。花が咲いている間は花を育てる。咲かなくなったら、今度は枯れ枝を片づける。働ける内容が変わっただけで、働けなければ出ていく客のままです」
「そんなつもりじゃない」
「分かっています。晴真さんは善意で仕事を作るから、断りにくいんです」
痛いところを、冗談で包まず突かれた。
晴真は蔓へ手を伸ばしかけた。
小さな範囲だけ春を足せば、葉は開くかもしれない。セナトの花粉魔法も戻り、枯れかけた株を救える可能性はある。
季節替えを使う光景が、頭の中ではもう組み上がっていた。
だが、それでは春の弱い今を消してしまう。セナトが何を選べるのか確かめる前に、晴真が働きやすい季節へ戻すだけだ。
「春は足さない」
晴真は伸ばした手を引いた。
「今、考えていたでしょう」
「考えた。けど使わない。お前の力を戻して、問題がなくなった顔をするのは違う」
「では、この蔓はどうします?」
「俺が決める前に、見られる奴を呼ぶ」
フィエルナは、冬性居室へ続く道の手前で休眠株を確かめていた。
晴真が事情を話すと、彼女は反論も慰めもせず、二本の枝をセナトの前へ差し出した。
「こちらは眠っているだけ。皮の内側に緑が残っているわ」
爪先で表面をわずかに削ると、薄い緑が現れた。
「こちらは?」
セナトがもう一方を受け取る。
「内部まで力を失っている。冬を重ねても戻らない」
「なら、眠らせる意味はないですね」
「ええ。すべてを保存するのは、守ることではないわ。力を失った枝まで残せば、根が次の芽へ渡す分を奪う」
フィエルナはそこで手を引いた。
「どれを残すかは、あなたが決めなさい」
「フィエルナさんが選んだ方が確実では?」
「私は眠れるかを見られる。次の春に、どこへ伸びるべきかまでは決めない」
セナトは二本の枝を見比べた。
「ずいぶん面倒な部分だけ渡しますね」
「残りたいのでしょう。なら、自分が残したい物を言葉にしなさい」
セナトの眉がわずかに上がる。
「春を遅らせる人は、もっと何でも止めたがると思っていました」
「春を起こす側は、何でも残したがるのね」
「今日は否定できません」
言葉を交わしたあと、セナトは休眠株の区画へ入った。
花粉魔法を無理に集めようとはしなかった。枝を曲げ、芽の位置を確かめ、根が住居へ向いているか、道へ張り出しているかを一株ずつ見る。
「これは残します。壁の隙間へ伸びれば、次の春に補強へ使える」
一本目には細い布を結ぶ。
「こっちは切ってください。芽はありますが、道の下へ潜っています。このまま起こすと、近道をまた持ち上げる」
「根元からか?」
「枝分かれの下です。根まで抜くと、隣の株を傷めます」
「了解」
晴真は刃を入れた。自分なら別の使い道を考えたくなる枝もあったが、口を挟まなかった。
次の株では、セナトが首を振った。
「これは自然に終わらせます。切ると残った水分が隣へ回る。今は触らない方がいい」
「片づけなくていいのか」
「片づけることが仕事なら切ります。でも、次の春へ残すのが仕事なら、切らない」
晴真は思わず笑った。
「ようやく仕事の名前が決まったな」
「名前は要りませんよ。名前を付けると、辞めづらくなりますから」
「そこまで警戒するか」
「晴真さん相手なら」
昼を過ぎる頃には、残す枝、切る枝、自然に枯らす枝が見分けられるようになっていた。
フィエルナは残すと決まった枝だけへ、薄い霜を沿わせる。セナトは芽を指し、どこまで眠らせるかを伝えた。
「ここより先は止めてください。付け根まで眠ると、次に起こすとき遅れます」
「外側だけでは乾燥が入るわ」
「では、この節まで。朝露が戻った日に、先端から起こします」
「朝露だけでは足りない株もある」
「その株は二番目です。最初に壁側を起こして、葉が開いてから根元へ花粉を回します」
フィエルナは枝を見つめ、霜の線を一節だけずらした。
「それなら残せる」
判断を奪わず、危険だけで止めもしない。二人の間で、冬の終わりと春の始まりが具体的な位置へ落ち着いた。
そのとき、ピィロが区画の外で低く鳴いた。
「チチッ」
小さな身体の前には、選別から外した株があった。葉はほとんど落ち、枝も細い。ピィロは温めず、根元へ温かな小石を置いている。
「それは残しませんよ」
セナトが言うと、ピィロは背を向けた。それでも離れず、片目だけを戻す。
「褒めてほしい顔だな」
「何もしていませんけどね」
セナトはしゃがみ、根元へ指を差し込んだ。表土を崩さないよう、慎重に周囲をなぞる。
やがて細い芽が、枯れ枝の陰から現れた。
「これは……上が弱っていただけですね」
ピィロが「ピロロ」と鳴き、太陽の輪のように膨らんだ。
「見つけたのは認めます。でも、全部温めていたら乾いていましたよ」
「ピィ」
「胸を張るところだけ聞くんですね」
セナトは枝を三分の一まで減らし、芽のある側だけを残した。
「予定を変えます。この株は残します。ただし最初には起こさない。根が持ち直してからです」
ピィロは小石をくちばしで押し、残した枝の側へ寄せた。
「次の見回りでは、どちらが先に芽を見つけるか勝負ですね」
セナトが指を差すと、ピィロは返事の代わりに次の株へ駆けた。
「もう始めてるぞ」
「待ってください、まだ今日の分が終わっていません!」
数日後、四人は同じ区画へ戻った。
切り分けた株に傷みの広がりはなく、残した枝は静かに眠っている。自然に終わらせた枝は乾いていたが、隣の芽から力を奪ってはいなかった。
セナトは布の目印を順に確かめ、フィエルナへ向き直る。
「最初に起こすのは住居側の三株です。葉が二枚開いたら、道側の株を起こす。あの小さい株は最後まで待ちます」
「冷え込みが強ければ?」
「住居側も起こしません。根元に張りが戻るまで待つ」
「花粉が足りなければ?」
「晴真さんに春を足してもらう前に、起こす数を減らします」
フィエルナは短く頷いた。
「その条件なら、私も休眠を解ける」
「反対しないんですか?」
「反対する理由がないもの。条件が変われば、そのとき反対するわ」
「安心できない言い方ですね」
「安心して任せられる返事でしょう」
セナトは少し考え、笑った。
「確かに」
夕方、共同食事場所の卓には温かな料理が並んだ。
「今日は仕事を与えたつもりだった」
晴真が言うと、セナトは器を持ったまま眉を上げた。
「反省会ですか?」
「違う。訂正だ。俺が渡したのは枝を片づける作業だった。残す物を決めたのはお前だ」
「枯らす物も決めましたけどね」
「そこが一番助かった。俺なら全部に使い道をつけたくなる」
「知っています」
フィエルナが即答した。
「少しは否定してくれ」
「次の春までに考えるわ」
卓の端では、ピィロが温かな小石をセナトの前へ置いた。
「これは報酬ですか?」
「ピロロ」
「では、明日は北側の株を見ます。先に見つけても、勝手に温めないでくださいね」
ピィロは背を向けた。承知したのか、聞かなかったことにしたのかは分からない。
セナトはその小石を、すぐ持ち出せる袋ではなく、見回り道具の脇へ置いた。
春は戻っていない。花粉魔法も弱いままだ。すべての枝を救えたわけでもない。
それでも、次の春に何を残すかは決まった。
セナトは食事を終えると、翌朝見る株を自分から晴真たちへ告げた。




