【第28話】 何も咲かない季節にも
「セナト、道縁の花を増やしてみないか」
春区画の花が閉じ始めた朝、晴真は三つ目の案を口にした。
最初は春性居室の壁に新しい蔓を這わせる案だった。次は共同食事場所まで香りの弱い花を並べる案。そして今度は、連絡路の根張りを花で補強する案だ。
どれもセナトの技術を使える。春の力が弱まっても、仕事を途切れさせずに済む。
「いいですね。花が咲けば、道に迷った人も香りを追えます」
セナトは明るく答えた。だが、閉じた花へ手をかざしても、指先に集まる花粉はわずかだった。翅の光も、数日前より淡い。
「ただ、今から育てるなら、咲く頃には僕の方が先に移っているかもしれません」
「どこへ?」
「渡り人は、仕事がなくなる前に次の土地を探すものですよ。花が閉じてから慌てると、寝床まで閉じますから」
冗談めいた調子だった。
晴真もいつもの軽口として受け取りかけた。だが、春性居室の入口へ目を向けて気づいた。壁際に並んでいた小さな荷が減っている。採集用の袋も、乾かしていた布も見当たらない。
「セナト。荷物は?」
「風通しのいい場所へ移しました」
「どこだ」
「すぐ持ち出せる場所です」
答えだけが短かった。
晴真は閉じた花を見下ろした。春の衰えより先に、セナトは去る準備を始めている。
その日の昼、晴真は春性居室を訪ねた。
扉代わりの蔓を押し分けると、室内は妙に広く見えた。寝床の脇には私物と作業道具がまとめられ、袋の口まで縛られている。朝に使った道具だけが外へ出されていた。
「引っ越しの手際だけはいいな」
「褒められました?」
「褒めてない。いつ出るつもりだ」
「まだ決めていませんよ。明日かもしれませんし、花がもう一度開くまでいるかもしれません」
「だったら、仕事を増やす」
反射的に言葉が出た。
「春区画だけじゃない。道の根もある。植物性住居の手入れも要る。新しく育てる物だって――」
「晴真さん」
セナトの声は柔らかいままだった。それでも、晴真の言葉を止めるには十分だった。
「仕事を作ってもらえば、僕は残らないといけませんか?」
「そういう意味じゃない」
「では、春が戻るまで預けておく荷物みたいなものですか。今は使わないけれど、次に必要になるから置いておく」
笑みは崩れていない。だが、翅は動かなかった。
「役に立てる間だけ歓迎されるのは慣れています。役割がなくなってから、やっぱり必要なかったと言われるより、先に出た方がお互い楽です」
「俺は必要ないなんて言ってない」
「だから、言われる前に出るんです」
晴真は口を閉じた。
セナトを残したい。そのために仕事を用意する。悪い考えではないと思っていた。
だが、晴真が先に決めていたのは、セナトがどう役立つかだけだ。ここで何を望むかではない。
「春を足せば――」
言いかけて、晴真は自分で止めた。
季節替えで春性を補えば、花粉魔法は強まるかもしれない。花も開き、仕事も増える。
けれど、それはセナトが必要だから春を残すのではない。春を維持して、セナトを春の仕事へ縛るだけだ。
「今のはなしだ」
「何がです?」
「春を増やす案。使わない」
晴真は居室を出た。
答えを急いで作る代わりに、フィエルナを探した。彼女は春区画の端で、閉じた植物の茎を一本ずつ確かめていた。ピィロは近くの株へくちばしを寄せ、反応がないことに不満そうな湯気の音を漏らしている。
「フィエルナ。眠ってる植物に、セナトができる仕事はあるか」
「あるわ」
彼女は迷わず答えた。
「目覚める条件を見極めること。休眠中の傷みを見つけること。春に入ったとき、どの株から起こすか選ぶこと」
「花が咲いてなくても?」
「冬は空白ではないもの」
フィエルナは閉じた葉を持ち上げた。表面は静かでも、付け根には次の芽が残っている。
「ただし、それを理由にセナトを残すべきだとは言わない。仕事があることと、本人がここにいたいことは別よ」
「分かってる」
「分かっていなかった顔ね」
「今は分かった」
晴真は頭をかいた。
「俺は、役割を作れば居場所になると思ってた」
「役割を失えば消える場所なら、居場所とは呼びにくいでしょうね」
少し離れたところで、ピィロが羽毛を膨らませた。反応の薄い株へ熱を送ろうとしている。
「ピィロ、待ってください」
セナトの声が飛んだ。
いつの間にか居室から出てきていたらしい。ピィロは振り返ったが、素直には離れない。くちばしを株へ向けたまま、不満そうに身体を揺らした。
「その株は起こさない方がいいです。今は休んでいますから」
「ピィー」
「温めれば喜ぶとは限りませんよ」
ピィロは納得していない顔で背を向けた。命令に従ったわけではない。そのまま隣の休眠株へ移り、周囲を一周してから土を覗き込む。
「止められたのに、別の仕事を探したな」
「仕事か遊びかは、まだ半分ずつですね」
「それでも、眠ってる間に見る物はある」
セナトは返事をしなかった。
晴真は共同食事場所まで歩き、空いている卓へ四つの小石を並べた。セナトとフィエルナも向かいへ座る。ピィロは卓の端へ飛び乗ったが、小石には触れず、首を傾げた。
「セナト。選んでくれ」
「石をですか?」
「一つ目。休眠している植物を見回る。起こす時期はフィエルナと相談する」
晴真は最初の小石を指した。
「二つ目。新しくここへ来る奴がいたら、春区画の使い方を伝える」
二つ目へ指を移す。
「三つ目。何も引き受けず、次の季節変化まで暮らしてみる」
三つ目。
「四つ目。今、出ていく」
最後の小石を指した。
セナトの笑みがわずかに固まった。
「最後だけ、ずいぶん冷たいですね」
「去る選択を隠したら、残る方も選択じゃなくなる」
「どれを選んでも、途中で変えていい?」
「いい。仕事はやめてもいいし、暮らしてみて無理なら出てもいい。役に立たない日があっても、食事場所へ来ていい」
「条件が緩すぎませんか?」
「俺が決める条件を減らしてる」
晴真はそれ以上言わなかった。
説得する言葉ならいくらでも思いつく。ここで必要なのは、言葉を足すことではない。
セナトは四つの小石を順番に見た。冗談を探すように口を開き、閉じる。
長い沈黙のあと、翅が小さく震えた。
「僕は、春がある場所を探してきました」
いつもの比喩ではなかった。
「歓迎されるのは、花が咲いている間だけでした。だから、花が閉じる前に出ればいいと思っていたんです」
セナトは一つ目の小石へ指を置いた。
「でも、本当は……何も咲いていない時期にも戻れる場所が欲しい」
晴真はすぐに答えなかった。
聞き流してはいけない言葉だと思った。
「なら、ここを試せ」
「残れ、ではなく?」
「次の季節変化までだ。その先は、そのとき決めろ」
セナトはようやく笑った。今度の笑みには、逃げ道を作る軽さがなかった。
「休眠している植物を見ます。目覚めさせる時期は、フィエルナさんと相談します」
「私の判断へ従うだけなら不要よ」
フィエルナが即座に返す。
「植物を見たあなたの意見を出しなさい。春を起こすのは、冬を終わらせることでもあるから」
「では、毎回譲りませんよ」
「望むところよ」
帰り道で、ピィロが再び休眠株へ近づいた。
「ピィロ、そこも温めませんよ」
セナトが指を差すと、ピィロは胸を膨らませたまま顔を背けた。従う代わりに株の周囲を回り、土の匂いを確かめる。やがて小さく「ピィ」と鳴き、次の株へ移った。
「見回り仲間ができたな」
「僕より先に飽きそうですけどね」
「お前も途中でやめていい」
「それを言われると、少し続けたくなるから困ります」
夕食前、セナトは植物性住居へ戻った。
縛っていた袋の口を解き、私物を寝床の脇へ戻す。作業道具も壁際へ並べ直した。ただし、すべてではない。すぐ持ち出せる袋を一つだけ残している。
永住の約束ではない。春が弱い間に何ができるかも、まだ試していない。
それでも翌朝使う道具だけは、荷の中ではなく入口のそばに置かれた。
共同食事場所へ戻ってきたセナトは、いつもの席へ座った。
「明日の朝、休眠株を見ます。晴真さんは来ますか?」
「呼ばれたら行く」
「呼ばなかったら?」
「朝飯を食って待ってる」
「ずいぶん任せますね」
「残るって決めた奴の仕事だからな」
セナトは温かな器を手に取り、閉じかけた花のように細めていた目を、少しだけ開いた。
「では、戻って報告します」
晴真は頷いた。
花が咲いているから迎えるのではない。何も咲かない季節にも、戻ってくる席がある。
空いていたはずの場所で湯気が立ち、その向こうでセナトが食事を始めた。




