【第23話】 眠れない春の部屋
「今日も林まで戻るのか?」
春区画での作業を終えたセナトが、衣服についた葉を払い始めたところで、晴真は声をかけた。
「戻りますよ。寝床は向こうですから」
セナトは植物の通路を指した。葉の屋根の向こうには芽吹き林があり、その近くに彼が使っている野営地がある。
通路ができてから数日。セナトは毎朝そこを歩いて農園へ来て、春性植物の様子を見ては夕方に帰っていた。
働きに来られるようにはなった。だが、帰るための時間まで仕事の一部にする必要はない。
「ここに寝床を作ろう」
「急ですね」
「毎日往復するのを当然にしたくない。春霧が残る場所なら、植物で一部屋育てられるだろ」
セナトは笑ったものの、すぐには頷かなかった。通路脇へ進み、葉の揺れと霧の流れを確かめる。
「林と切り離さないでください。春を濃くしすぎて、花粉が逃げなくなるのも困ります」
「屋根と壁を作るのに、閉じすぎるなと」
「家と箱は違うでしょう?」
「前の仕事でも似たことを言われたな」
「では、今回は最初から聞いてください」
「そのつもりだ。住む本人が眠れない家を完成品とは呼ばない」
晴真が答えると、セナトは少しだけ目を細めた。
「仮住居なら、試してみます。季節が変われば使えなくなるかもしれませんけど」
「先の約束は要らない。まず一晩だ」
候補に選んだのは、通路から春区画へ入る手前だった。春霧が細く流れ込み、冬区画や貯蔵設備からは離れている。
晴真が地面へ印をつけると、フィエルナはその外側を一周した。
「根を通路側へ出さないで。前に持ち上がった場所も避ける。冬区画へ向かう線は、ここで止めるわ」
「春の部屋にまで冬の線ですか」
「部屋の中へ引くとは言っていないでしょう、セナト。周囲を壊さないための境界よ」
「分かっています。少し反応を見ただけです」
「では、見た結果は?」
「前より話は通じそうです」
「評価が早いわね」
セナトの軽口にも、フィエルナは表情を崩さなかった。ただ、氷の線は春霧を遮らない位置に引かれていた。
晴真は既存の蔓から、外周に使う数本だけを選んだ。
「触るのはこれだけだ。根は外側、蔓は上。花は増やしすぎない」
「最後の条件を忘れないでくださいね」
「俺より先に花へ注意してくれ」
「それが僕の仕事です」
蔓へ春の成長を移す。
細い茎が張り、節から若芽が開いた。地面へ潜ろうとした根を、セナトの花粉魔法が外周へ導いていく。蔓は互いに絡みながら立ち上がり、曲線を描いて頭上へ伸びた。
一日で育て切ることはしなかった。勢いが強くなれば晴真は追加を止め、セナトが伸びる方向を整えた。翌日には余計な枝を外し、その次の日には屋根を支える蔓だけを選び直す。
ピィロは作業のたびに花の間を走り回った。
温かな蕾を見つけて羽先を光らせかけたが、晴真が低い声で名を呼ぶと、くちばしを閉じたまま湯気の抜けるような音を鳴らした。
「そこは温めない」
ピィロは晴真を見上げ、次に氷の境界へ視線を向けた。しばらく迷った後、自分から蕾を離れ、日の当たる石の上へ移る。
「ピィロ、よく止まったわね」
「ピロロ」
フィエルナに褒められた途端、綿羽が丸く広がった。勢いのまま次の花へ走りかけ、今度は氷の線の前でぴたりと止まる。
「褒めると仕事を探し始めるんだよな」
「あなたも似たようなものでしょう」
「俺は花を勝手に温めない」
「別のものを勝手に育てるわ」
数日目の午後、最後の蔓が屋根を覆った。
若葉の間から淡い光が差し、壁には小さな花が点々と開いている。床には太い根が平らに組み合わされ、その上へ柔らかな葉が重なって寝床の形を作っていた。
春霧は入口から入り、壁の隙間を抜けていく。閉じ込められてはいない。それでも室内には、林に近い春の匂いが残った。
セナトは中央に立ち、ゆっくり翅を広げた。
「力は落ちません。霧も流れています。外形だけなら、僕が育ててきた中でもかなり贅沢ですよ」
「外形だけなら?」
「慎重な言い方を覚えたんです」
「俺の家に入る前から失敗を予告するな」
「晴真さんが成功扱いを急ぐからでしょう」
晴真は反論しかけたが、部屋を見回して口を閉じた。
花と若葉に包まれた室内は、見た目だけなら申し分ない。ここで眠れれば、セナトは夕方ごとに林へ戻らずに済む。
「今夜、試す?」
「そのために作ったんでしょう。食事の後に入ります」
夕方、農家で食事を済ませたセナトは、植物の部屋へ向かった。
晴真たちは入口まで同行したが、中へ居座ることはしなかった。寝床へ横になったセナトは、葉の感触を手で確かめる。
「柔らかいです。少し動きますけど」
「少しなら問題ない?」
「眠ってみないと分かりません」
「何かあれば農家へ来い。空いている場所は使える」
「はい。おやすみなさい、晴真さん」
「おやすみ、セナト」
夜が深まった頃、ピィロが農家の戸口で落ち着きをなくした。
寝床へ入るでもなく、植物の部屋がある方角へ顔を向けている。短く鳴いては晴真の足元を回り、また外を見る。
「様子を見に行くか?」
「ピィ」
ピィロは先に走った。
植物の部屋からは、昼には聞こえなかった音が漏れていた。
ぎしり。ぱきり。葉と蔓が擦れ、伸びるたびに壁の形がわずかに変わる。入口から覗くと、花は閉じるどころか次々に開き、淡い花粉が室内を漂っていた。
ピィロが中へ一歩入る。
途端に羽毛がふくらみ、熱が安定しなくなった。右へ左へ身体を向けたあと、低い声で「チチッ」と鳴き、すぐ外へ戻ってしまう。
「セナト」
晴真が呼ぶと、葉の寝床から返事があった。
「起きていますよ」
「問題ないか?」
「春が元気ですね」
「それは答えになってない」
「僕には合っていますから」
声は明るい。だが、起きています、と答えたこと自体が妙だった。
晴真は室内へ入った。足元の根はゆっくり太さを変え、寝床の葉も身体を支えるたびに別の形へ動いている。花粉は吸い込むほど濃くはないが、途切れる気配がない。
もっと春の流れを整えれば、花を一斉に閉じられるかもしれない。
そう考えた瞬間、晴真は手を止めた。
春を足して失敗した部屋へ、さらに春を足そうとしている。
セナトは横になっていたが、翅は休まず微かに震えていた。
「追加はしない」
晴真はその場で決めた。
「何をなくせば眠れる?」
「晴真さん、せっかくここまで――」
「屋根と壁が残るなら、全部無駄にはならない。今夜の成功を守るために、お前の睡眠を削る方が無駄だ」
セナトは天井の花を見上げた。しばらくして、笑みを消す。
「花粉だけではありません。植物が育つ音が続くと、身体が仕事の時間だと判断するんです。春霧の中で寝ることはできます。でも、芽吹き続ける場所では休めない」
「止まる時間が必要なんだな」
「はい。春が弱いのではなく、終わらないのが困ります」
入口に立っていたフィエルナが、壁へ手を触れずに蔓の動きを見た。
「春を消す必要はないわ。夜だけ、一部を眠らせる。朝になったら、必要な場所だけ目覚めさせればいい」
セナトの翅がわずかに閉じた。
「冬を部屋へ入れるんですか」
「全部を凍らせるとは言っていない。屋根、壁、花粉を出す花。眠る範囲を選ぶのよ」
「春が戻らなくなることは?」
「条件を決めずに眠らせれば、その危険はある。だから今夜はしない」
フィエルナは即座に力を使わなかった。
セナトは彼女と壁の蔓を交互に見る。
「春を奪わず、朝に戻せるなら……試してみます」
「次はあなたが、眠らせてよい場所を決めて」
「分かりました、フィエルナさん」
セナトは起き上がり、翅を軽く振った。花粉魔法で室内を漂う花粉を入口へ流し、開きすぎた花を一つずつ閉じていく。
それでも蔓の軋みは止まらない。晴真が追加使用をやめても、すでに与えた成長と、育った植物そのものの活性は残っている。
「今夜はここまでだな」
「立派な部屋なんですけどね」
「眠れないなら、立派な寝床じゃない」
「昨日の晴真さんなら、朝まで試せと言いそうです」
「そこまで信用がない?」
「期待はしています。信用は、これからです」
セナトはいつもの軽さを戻して言った。
晴真は植物の部屋を出る彼を止めなかった。農家には退避に使える空き場所がある。既存の野営地も消えてはいない。
ピィロは戸口で待ち、セナトが出てくると、その周囲を一度だけ回った。だが接触はせず、先に農家の方角へ走り出す。
「案内してくれるんですか?」
「多分、自分が先に休みたいだけだ」
「ピィー」
「違うそうです」
「その訳し方は信用しないで」
フィエルナの言葉に、セナトが笑う。
背後では、花と若葉の部屋が春霧の中に残っていた。屋根も壁も寝床もある。けれど今夜、そこへ眠れる者はいない。
晴真は美しい失敗作を振り返った。
春性の相手へ春を与えるだけでは、暮らしにならない。活動できる季節と、休める時間は別の条件だ。
「次は、夜を作ろう」
「冬に塗り替えるのではなく、眠る時間よ」
「分かってる。決めるのはセナトだ」
セナトは農家へ続く道を歩きながら、肩越しに答えた。
「では明日、どの花を眠らせるか選びます。全部は駄目ですからね」
「最初から聞くよ」
「その言葉、今度は覚えておきます」
植物の部屋は完成した。
寝床としては、まだ完成していなかった。




