【第2話】 冬は実りを眠らせる
翌朝、晴真は畑へ出るなり足を止めた。
「増えるのは歓迎だけど、勝手に領土を広げるのは違うだろ」
昨日、歩幅で囲ったはずの小区画から、白い根が何本も土を押し上げていた。境界の外では、周囲の灰麦まで引かれるように葉を起こし始めている。残した虹穀の穂も一晩でさらに膨らみ、茎は重みに耐えかねて傾いていた。
食べられるものが増える。最初に浮かんだのは、その期待だった。
だが、根は農家側へも伸びている。このまま放置すれば、収穫量を喜ぶより先に、畑のどこまでが影響を受けたのか分からなくなる。
晴真は区画の縁へしゃがみ、土から覗く根へ手をかざした。春も夏も、追加では与えていない。それでも根の内側には、昨日移した成長と活性が残っている。
「止めたのは追加だけか。始まった分までは止まらない」
試しに根へ意識を向けても、季節替えで元の短さへ戻せる感覚はなかった。無理に別の性質を重ねれば、さらに予想外の変化を増やすだけだ。
成功を失いたくはない。だが、育て続けることだけが守る方法ではない。
晴真が鎌を取りに農家へ戻ろうとしたとき、畑の北側で乾いた音がした。
薄い氷が、地面を一本の線となって走ったのだ。
「そこから先へ触れるな」
声の方を見る。
白い外套をまとった女が立っていた。足元には霜が広がっているが、畑全体を凍らせる様子はない。冷気は細く抑えられ、伸びた根の先だけを囲むように留まっていた。
「いきなり人の畑に線を引くのは、ずいぶんな挨拶だな」
「畑と呼べる範囲で収まっているなら、そうした」
女の視線は晴真ではなく、土の盛り上がりを追っている。
「異質な春と夏が、季節の力の流れへ漏れている。根が広がれば、北の冬まで乱す」
「季節の力の流れ?」
「季脈だ。土地の下を巡り、それぞれの季節を支える。私は冬の季脈を守っている」
晴真は、氷の線の手前で立ち止まった。
根の先が白く曇り、伸びが鈍っている。しかし枯れてはいない。女は最初から焼くことも、砕くことも選ばなかった。
「俺は久瀬晴真。昨日ここへ春と夏を移した」
「フィエルナ・セルク」
フィエルナは短く名乗り、晴真の手元へ目を移した。
「その力を止めろ」
「追加は昨日から止めてる。それでも伸びてるんだ」
「なら、すでに生じた作用を処理する必要がある」
「全部抜けと言うのか?」
「放置するならそうなる」
即答だった。
晴真は虹色の穂を見た。食べられることは確認した。枕元には種候補もある。だが、目の前の株をすべて失えば、次に試す材料も減る。
「何を守りたい?」
フィエルナの眉がわずかに動いた。
「質問を返す場面ではない」
「こっちも、理由を知らずに成果を捨てる場面じゃない。冬そのものか、北の土地か、それとも別の何かか」
しばしの沈黙の後、フィエルナは畑の外へ伸びた根を指した。
「冬の季脈へ、春と夏が逆流している。このまま広がれば、休眠しているものが目覚める。今はまだ、この畑の周辺で止まっている」
「なら、ここから先へ出さなければいい」
「言うだけでは止まらない」
「分かってる。だから刈る」
晴真は農家から鎌を持ち出した。
残すのは、最初に区切った範囲のさらに内側だけ。境界近くの株は惜しくても手放す。根を能力で戻せない以上、地上部を減らし、これ以上養分と活性が回る先を狭めるしかない。
最初の一束へ鎌を入れたとき、虹色の穂が大きく揺れた。
昨日なら収穫と呼べた。今は損失を止めるための刈り取りだ。粒の詰まった穂も混じっている。
「ずいぶん未練がありそうだな」
「あるよ。初めて作ったまともな飯だ」
「なら、なぜ切る」
「残したいからだ。全部欲張って、全部駄目にする方が惜しい」
晴真は区画外の茎を刈り、束ね、根の露出した部分から離して積んだ。土中の根までは消えない。だが、地上を這っていた茎と、周囲へ垂れた穂は確実に減っていく。
フィエルナは口を挟まず、その作業を見ていた。
やがて晴真は、当初の半分ほどまで株を絞った。残した範囲の外周を示し、フィエルナへ振り返る。
「ここだけ残す。枯らさず、伸ばさずに置く方法はあるか」
「冬を、止めるための寒さだと思っているのか」
「昨日までは、少しな」
フィエルナは残した株の前へ進んだ。
「冬は終わらせるだけではない。次へ渡せる時まで、眠らせる」
彼女が片手を上げると、淡い冷気が根元へ沈んだ。
霜は土の表面を覆ったが、葉を白く焼かなかった。冷気は細い筋となって根から茎へ昇り、虹穀の穂先へ届く。
揺れていた葉が、少しずつ静まる。
青さは失われない。茎も折れない。張りを保ったまま、伸び続けていた先端だけが動きを止めた。
畑の一角から、音が消えたようだった。
昨日から絶えず聞こえていた葉擦れも、土を押す根の軋みも収まっている。
「枯れてない」
「眠らせた。目覚める条件を決めずに重ねれば、今度は起きなくなる。だから範囲はここまでだ」
晴真は葉へ触れた。冷たいが、脆くはない。生きたまま、先へ進むことだけを止められている。
「成長の反対じゃないんだな」
「反対にする必要がない。区切りがなければ、次の成長も残らない」
晴真は眠った虹穀を見回した。
育てることばかり考えていた。だが、実りを次へ残すには、育たない時間も必要になる。
「セルクさん。この刈った分にも使えるか?」
「用途を分けろ。すべて同じ眠りへ入れれば、今日食べる分まで扱いにくくなる」
「それは困る。朝飯が減る」
「危険を広げた直後に、食事の心配か」
「食べるために始めた実験だからな」
フィエルナは小さく息を吐いたが、拒まなかった。
二人は刈り取った虹穀を、状態ごとに分けた。粒の形がそろった穂は種候補として束ねる。傷の少ない収穫物の一部には、フィエルナがごく薄い休眠を施した。冷気は穂の内側へ留まり、香りも色も失わせず静かに沈んだ。
その場で食べる分だけは眠らせない。
農家へ戻ると、晴真は井戸水を少量だけ鍋へ移した。洗浄に使う量も抑え、残っていた虹穀と今朝刈った分を合わせて火へかける。携行食も添えたが、まだ食料に余裕ができたわけではない。
温まった粒から、果実と木の実が混じる香りが立った。
晴真は先に一粒食べ、問題がないことを確かめてから木皿をフィエルナの前へ置く。
「季節を混ぜた物は食べない主義だったりするか?」
「確かめずに否定するつもりはない」
フィエルナは赤い粒を一つ選び、口へ運んだ。
表情はほとんど変わらない。だが、次に青い粒へ手を伸ばした。
「どうだ?」
「食べられる」
「感想が冬みたいに短いな」
「警戒が解けたとは言っていない、クゼ」
晴真は笑いかけて、彼女の真剣な目に気づき、肩をすくめた。
「分かってる。俺も監視されるのが好きになったわけじゃない」
「次にその力を使うなら、範囲と残る作用を先に考えろ」
「止めろ、じゃないんだな」
「止めるべきなら止める。だが、今日残したものまで否定する理由はない」
食事を終えた後、晴真は保存分と種候補を一室の涼しい側へ分けて置いた。休眠がどれほど保つかも、種が発芽するかも分からない。保存食が完成したわけではなく、次の収穫が約束されたわけでもない。
それでも、昨日は手探りで残した虹穀を、今日は未来へ残す形に分けられた。
窓から畑を見る。
刈り取った外周は低くなり、残した株は色を保ったまま静止している。地上の伸長は収まった。しかし、地下の根がどこまで届いたか、季脈への影響が消えたかは確認できない。
「まだ終わりじゃないな」
「当然だ。私は冬の季脈を調べる。異常が続くなら、次は範囲をさらに狭めてもらう」
「そのときは、何を残せるか先に相談する」
「相談したから許可されるとは限らない」
「そこは期待してない」
フィエルナは返事をせず、畑へ向けていた視線をわずかに細めた。
晴真も窓辺へ立つ。
春は伸ばし、夏は働かせた。そして冬は、成果を奪わずに止めた。
成長の敵ではない。次へ渡すための工程だ。
眠った虹穀の向こうで、刈り残した畑の一部だけが、陽だまりのような熱を微かに揺らしていた。




