【第1話】 灰色の畑に季節を重ねて
水差しの底で、井戸水が頼りなく揺れた。
久瀬晴真は一口だけ飲み、栓を閉めた。古い農家の中で雨風をしのげそうなのは、掃き出したばかりの一室だけだ。荷物の中には携行食が残っているものの、節約してかじり続けたい味ではない。
「異世界まで来て、最初に覚えるのが空腹の我慢っていうのは違うだろ」
窓の外では、つい先ほどまで屋根を叩いていた春めいた雨が途切れていた。代わりに、濡れた地面から白い湯気が立ち始めている。雲の切れ間から差す日差しは、雨上がりとは思えないほど強い。
成長を促す春の気配と、すべてを活気づける夏の熱。
四季が気候ではなく、実際に触れられる力として巡る異世界――イルセラ。その中でも、晴真がたどり着いたこの土地は、廻季原と呼ばれていた。
一日のうちに季節が入れ替わる、誰も住み着かなかった荒れ地。
だが、晴真には欠点だけには見えなかった。
「抑え込むから手に負えないんじゃないか。使い道を決めてやれば、四種類そろった材料だ」
農家の整理は途中だった。けれど、床板を眺めていても腹は膨れない。
晴真は空になった桶を手に取り、軒下にたまっていた雨水を少しだけ移した。井戸の残水は飲用と調理に残す。畑へ持ち出す水は雨から得た分だけだ。
限りがあるなら、広く使わなければいい。
彼は農家を出て、隣接する荒れ畑へ向かった。
畑には、灰をかぶったような穂がまばらに残っていた。葉は乾き、土は雨を吸ったそばから表面がひび割れている。
晴真は一本を折らないよう指先で起こした。痩せた粒の形と、茎に残る特徴を見て、頭の中に名称が浮かぶ。
灰麦。
この世界では珍しくもない穀物らしい。だが、目の前のものは収穫と呼べる状態ではなかった。
「素材はある。足りない季節も、そこにある」
晴真は畑全体を見回し、農家から最も近い一角を選んだ。歩幅で囲める程度の狭い範囲だ。世話も刈り取りも、自分一人で手が届く。
雨の名残へ意識を向ける。
水滴の冷たさとは別に、土を押し上げ、芽を伸ばそうとする性質があった。それを指先ですくうように捉え、選んだ小区画へ移す。
自分の中に浮かんだ力の名は、季節替え。
雨粒から春の成長だけが薄い光となって離れ、灰色の茎へ染み込んだ。
次の瞬間、萎れていた葉が跳ね起きた。
「おおっ」
細い茎が音を立てて伸びる。葉は次々に開き、晴真の膝を越え、腰へ迫った。乾ききっていた畑の一角だけが、緑の塊へ変わっていく。
晴真は思わず笑った。だが、穂をつまんだ途端、その笑みが止まる。
茎は立派だ。葉も青い。ところが穂の中身は、先ほどとほとんど変わらず痩せていた。
「背丈の競争がしたいわけじゃないんだよな」
春は育てた。だが、育ったのは食べたい部分ではない。
晴真は追加で春を移す手を止めた。勢い任せに範囲を広げれば、葉と茎ばかりが増えるだけだ。
予想とは違った。しかし、失敗というほど悪くもない。少なくとも灰麦は死んでいなかった。足りないものが別にあると分かった。
昼の熱気が頬を撫でる。
雨で濡れた土を乾かし、虫の羽音まで強くする夏の活性。今度はそれを、伸びた灰麦へ重ねる。
「成長したなら、次は実る準備を働かせる」
夏の性質が流れ込むと、緑の茎が一斉に震えた。
穂がゆっくりと持ち上がる。痩せていた粒が内側から押し広げられ、丸みを帯びていった。
同時に、足元で土が盛り上がった。
茎の根元から新しい芽が伸び、晴真が決めた境界の外へ這い出そうとしている。
「そこまで頼んでない」
晴真は夏の追加を止めた。
だが、伸び始めた芽は止まらない。すでに与えた春と夏が、灰麦の内側で働き続けている。引っ込めと念じても、伸びた茎が元の短さへ戻る気配はなかった。
ならば、これ以上広げない方法へ切り替える。
晴真は区画の縁を踏まないよう回り込み、意識の対象を畑の土から外した。夏を重ねる先を、伸びた灰麦の穂だけへ絞る。
熱気から引き出した活性が、細い筋となって穂へ流れ込んだ。
膨らんだ粒の一つに、赤い色が走った。
隣は橙、その次は淡い黄。緑、青、紫と、灰色だった穂が粒ごとに異なる色を帯びていく。日差しを受けるたび、畑の一角で小さな虹が揺れた。
晴真はしばらく言葉を失った。
狙っていたのは、せいぜい食べられる麦だった。色まで変わるとは思っていない。
穂へ鼻を寄せる。青臭さの奥に、焼いた木の実に似た香ばしい匂いが混じっていた。指で一粒押せば、中身はしっかり詰まっている。
「見た目だけの展示物じゃないよな」
前の仕事なら、色がきれいなら役目を果たした。季節の催しが終われば撤去され、それで終わりだ。
だが、ここで欲しいのは暮らしに残るものだった。
晴真は状態のよい穂を数本だけ刈った。残りは畑へ置き、伸び続ける様子を確かめられるようにする。全部を持ち帰れば、変化がどこまで続くか分からなくなる。
農家へ戻ると、井戸水を少量だけ鍋へ移した。粒を穂から外し、泥や殻を落とす。水をたっぷり使う余裕はない。軽くすすいだ後、鍋底で火を通した。
温められた粒から、甘い香りが立ち始める。
「さて。見つけた本人が逃げるのは格好がつかない」
可食性が保証されているわけではない。誰かに試させる相手もいない。
晴真は赤、青、黄の粒を一つずつ指でつまみ、順に口へ入れた。
表面はわずかに弾け、中は柔らかい。灰麦らしい香ばしさの後から、色ごとに違う風味が広がった。赤い粒は熟した果実のように甘く、青い粒は清涼な香りを残す。黄色い粒には、焼いた芋に似た濃さがあった。
思わず別の粒へ手が伸びる。
「うまい」
今度は声に出た。
派手な色だけではない。携行食を飲み込むための添え物でもない。季節を重ねた結果、味そのものが変わっている。
晴真は鍋の中で輝く穀物を見つめた。
「虹穀。お前はそれでいい」
名をつけると、ばらばらだった色が一つの成果になった気がした。
晴真はすべてを食べきらず、夕食用と翌日へ残す分を分けた。畑から刈ってきた穂の中でも、粒の詰まったものは調理せず束ねる。
種になるかは分からない。播いて芽が出る保証も、同じ方法で再び虹色になる保証もない。今日食べられたからといって、明日から自給できるわけではなかった。
「一食できた。まずはそこまでだな」
夕方の畑では、春と夏を重ねた一角だけがまだ揺れていた。追加の力は送っていない。それでも茎は伸びきった姿のまま、残した穂を重そうに支えている。
晴真は境界の外へ出かけた芽を見て、眉を上げた。
止めたつもりで止まる力ではない。刈り取るか、別の季節を使うか。成長を区切る方法は必要になる。
それでも、荒れ畑の灰色は確かに破られていた。
赤、橙、黄、緑、青、紫。夕日の下で揺れる小さな実りを見れば、空腹を我慢するためだけの土地にはもう思えない。
「春と夏でこれなら、秋を重ねたらどうなる。冬なら――眠らせられるのか?」
答えはない。
だからこそ、試す価値があった。
夜、晴真は使用可能な一室へ戻り、携行食を半分だけ開いた。残した虹穀を添えると、簡素な食事の色と香りが変わった。
壁の隙間から冷気が入り始めていたが、今日だけは不満より先に、次に移す季節のことを考えた。
枕元には、食べずに分けた虹色の穂がある。
まだ種候補にすぎない。
それでも晴真は、その小さな束を見ながら眠りについた。




