【第16話】 箱から伸びる春
荷箱は一つで済ませたい。
朝の農家へ荷車を乗り入れたネロイは、空箱を二つ並べるなり、そう告げた。
「中身より箱の方が場所を取ることもあります。試験のたびに荷数を増やせば、売れる前から運賃に食われますよ」
「春露葉と夏石芋は包みを分ける。箱まで分けなくても、直接触れなければいけるはずだ」
「前回は同じ籠で失敗しています」
「だから今度は包む。農園の中では離しておいたんだ。どこまで近づけると駄目なのか、運ばないと分からない」
晴真が葉を包んだ布を箱の片側へ収めると、反対側へ夏石芋を詰めた籠を置いた。生活分と種芋は畑側へ残してある。運ぶのは、失っても農家の食卓と次作を損なわない量だけだ。
フィエルナは冬区画へ戻る前に、春露葉の包みへ指を当てた。
「休眠は浅くするな。街道の途中で目覚めても、私は止めに行けない」
「分かってる。包みだけを眠らせた。箱全体じゃない」
「分かっている顔で失敗するから言っている」
「留守は任せた」
「畑の話をしている」
マルタは試験畑の縁から声を飛ばした。
「失敗するなら、何が悪かったか持ち帰りな。箱ごと捨てて終わりにはするんじゃないよ」
「縁起でもない送り出しだな」
「成功を祈るより役に立つ」
荷車の下では、ピィロが夏石芋の匂いを追って首を伸ばしていた。羽先が淡く橙色に光り、今にも箱へ飛び乗りそうだ。
「ピィロ。これは食べないし、温めない」
「ピィー」
返事だけは立派だった。
ネロイはピィロを抱き上げようとはせず、荷車から少し離れた地面へ温かな小石を置いた。ピィロは箱と小石を見比べ、しぶしぶ石の方へ降りる。
「商品へ近づけない方法としては、安上がりでしょう」
「果実を出さないところが商人だな、ヴァンさん」
「何もしていない相手へ先払いはしません」
ピィロがくちばしを閉じたまま、湯気の抜けるような音を鳴らした。
荷車が街道へ出ると、農家の屋根はほどなく丘の向こうへ消えた。晴真たちは携行した水と保存食を途中で分け、日が高くなる前に先を急いだ。
最初の異変は、車輪が浅い窪みを越えたときだった。
背後で、ぱき、と乾いた音がした。
「今のは箱ですか?」
「箱なら嫌な音だな」
晴真が荷台を振り返る。蓋は閉じたままだったが、合わせ目から細い緑が覗いていた。
次の瞬間、それはするりと伸びた。
「葉?」
荷車を止めるより早く、もう一枚が隙間を押し広げる。折り畳まれていた春露葉が、暗い箱の中から光を求めるように茎を伸ばしていた。
「ずいぶん元気な商品ですね」
「褒めてる場合か」
蓋を開けると、包みの一部が膨れ上がっていた。夏石芋に近い側の葉だけが休眠を解き、布の内側で茎を伸ばしている。狭い箱の中で押し合った葉は、柔らかな縁を芋籠へ絡ませていた。
ネロイは一本を持ち上げ、潰れた先を見せた。
「このまま進めば葉は折れます。芋も圧迫される。箱数を守って、両方の品質を落としますか?」
言い方は穏やかだが、選択肢は一つしかなかった。
晴真は箱の内側へ手を入れた。夏石芋は日を浴びていないのに、籠の中へじわりと熱を溜めている。その熱が布越しに春露葉へ伝わり、冬の眠りを破ったのだ。
「同じ箱なら、包みを分けても駄目だ」
「では戻しますか?」
「成長した葉を?」
「クゼさんの力なら、と期待する客はいずれ現れます」
「期待されても無理なものは無理だ。伸びた分は縮まらない」
晴真は絡んだ葉を切らず、傷つけないよう一本ずつ外した。目覚めた葉は別の布へ移す。若葉より茎が太く、すでに元の包みへは収まらない。
「これは試食用にする。残りを救う」
「箱は増えます」
「増やす。俺の案でこうなったんだ。葉を潰して荷数だけ守る気はない」
ネロイは短く息を吐くと、荷台の空箱を引き寄せた。
「なら損失は記録します。箱一つ分の場所と、成長した葉の売値は未定。こちらだけが負う話ではありません」
「俺も逃げない。だから今は分けるぞ」
晴真は包みを開き、まだ冷たく縮んだままの春露葉だけを選んだ。目覚めた葉も、夏石芋も対象に含めない。未覚醒の葉を包む布、その内側だけを意識して、冬の休眠を移す。
冷気は箱へ広げず、葉脈を静かに沈める程度に留めた。包みの中で、わずかに動きかけていた縁が止まる。
だが、すでに伸びた葉は伸びたままだ。荷台の上で揺れ、瑞々しい茎を光へ向けている。
「今度こそ寝ていてくれ」
「客へもそう頼むおつもりですか?」
「起こし方まで売り方に含めればいい」
「その前に、宿まで起きないことを証明してください」
夏石芋は別箱へ移し、二つの箱を荷台の前後へ離して固定した。
作業の間、ピィロは夏石芋箱の縁を狙って何度も首を伸ばしていた。ネロイは今度も追い払わず、荷台の端へ小石を置き、その隣へ果実の欠片を一つ置く。さらに小石の位置を指し、夏石芋箱の外側だけを軽く叩いた。
「ここだけです、小さな熱源殿」
ピィロは果実へ向かいかけ、途中で止まった。胸を膨らませ、先に寄越せと言わんばかりに「ピィー」と鳴く。
ネロイは果実を指で押さえたまま、箱の外側をもう一度示した。
「仕事の後です」
言葉を理解したというより、配置と動作を読んだのだろう。ピィロは不満げに羽毛を逆立てた後、指された位置へ跳び移った。箱へ触れず、外側から短く熱を送る。
夏石芋の香りが一段だけ甘くなったところで、ネロイが手を引いた。ピィロも加温を止める。
「ピロロ」
「契約成立です」
果実の欠片が置かれると、ピィロは胸を太陽の輪のように広げてから、ようやくそれをついばんだ。
「俺より商談が早いな」
「条件を守れば報酬が出る。単純な契約ほど履行されやすいものです」
日が傾く頃、荷車は四辻宿へ着いた。
ネロイは荷を室内へ運び込むと、二箱を卓の両端へ離して置いた。先に春露葉の包みを開く。葉は縮んだまま冷たく、街道の途中から新たに伸びたものはなかった。
浅い器へ水を張り、葉を一枚ずつ浸す。しばらくすると縁がほどけ、葉脈に張りが戻った。
晴真が噛むと、しゃくりと小さな音がする。採れたてには及ばないが、青い香りと水気は残っていた。
「運んだ後でも食べられる」
ネロイも一枚を確かめ、頷いた。
「春露葉は夏石芋から離し、休眠させた包みで運ぶ。少なくとも、この行程では品質を保てる」
次に夏石芋を切り、宿の設備で加熱する。熱が通るにつれて甘い香りが広がり、ピィロが卓の上で落ち着きをなくした。
晴真が割った一片を口へ入れると、ほくりと崩れた。甘味も香りも、農家を出た朝と大きく変わらない。
ピィロには冷ました欠片を置く。雛鳥はすぐに飛びつかず、ネロイの指と品物の位置を見てからついばんだ。
街道で伸びた春露葉も、捨てずに卓へ並べた。若い葉より茎は硬かったが、噛めば青い味が濃く、夏石芋の甘さの後には悪くない。
「売り物としては形が揃いません」
「失敗した日の賄いには十分だ」
「失敗を食べて済ませるのは、クゼさんらしいですね」
「代金の代わりにはしないぞ」
「そこは安心しました」
二箱になれば運べる量は減る。容器も固定具も余計に要る。正式な価格も、誰が損失を負うかも決まっていない。
それでも、同じ箱で両方を傷めるよりはよかった。
「品質を失う一箱より、売れる二箱を選びます」
ネロイは春露葉の包みと夏石芋箱を見比べた。
「次も同じ条件で運び、試食した結果を持ち帰りましょう。ただし定期便でも、確定価格でもありません」
「分かってる。専用の箱も棚も、これからだ」
「供給量と取り分もです」
「そこまで今日決めたことにはしない」
晴真は手を差し出した。
「それでも、次も運ぶところまでは頼めるか。ネロイさん」
ネロイは一瞬だけ呼び方の変化へ目を留めた。それから手を取り、短く握り返す。
「試験結果を次の条件へ返すところまでなら。クゼさんが、また箱数だけを減らそうとしなければ」
「今度は最初から二箱だ」
「三品目を入れたくなっても?」
「そのときは三箱を覚悟する」
卓の端では、ピィロが食べ終えた果実の欠片の隣へ、温かな小石を一つ置いていた。
追い払われず、境界を守れば、交換が成立する。
春露葉は眠ったまま街道を越え、夏石芋は熱を抱えたまま甘さを残した。同じ箱には入れられない。費用も手間も増える。
だが、二つの季節は、別々の箱なら同じ食卓まで届けられる。
その夜、晴真たちは四辻宿へ泊まった。
帰る荷車へ積むのは、売上ではない。同梱できないという失敗と、分ければ運べるという確かな条件だった。




