【第11話】 眠りが育てる甘さ
冬苔の上へ手を伸ばしかけた晴真を、細い氷の壁が遮った。
「春を少しだけ足す。ほんの少しなら、蜜が溜まるのも早くなるんじゃないか?」
「ならない。少なくとも、それは冬の成果ではない」
フィエルナは晴真の指先と冬苔の間へ、さらに一本の氷線を引いた。
農家に隣接する冬区画では、薄雪の下に沈んだ苔が青白くくすんでいた。芽を伸ばすでもなく、葉を開くでもない。春区画や夏区画のような目立つ変化はなく、晴真には眠っているというより、止まっているように見える。
「他の三つは食べられるものが出た。冬だけ境界と保存のためっていうのは、もったいないだろ」
「冬を役立たせたいのか。それとも、他の季節と同じ速さで成果を出させたいのか」
「食える成果が欲しい」
「答えになっていない」
短く返し、フィエルナは冬苔の一株へ指を差し入れた。葉を傷つけないよう慎重に持ち上げると、その裏側に白く曇った小さな膨らみがあった。
「冬苔は眠っている間に、水分と冷気を内部へ集める。外へ伸びないから、何もしていないように見えるだけだ」
「この膨らみが蜜になる?」
「時間をかければ」
「春を入れたら?」
「目覚めて、水分を葉へ使うかもしれない。蜜になる前に」
晴真は冬苔へ向けていた手を引いた。
早く育てる。早く熟させる。目に見える変化を起こす。それは季節替えで何度も選んできた方法だった。
だが、それで冬苔が持つ時間を奪えば、冬をまた他の季節の調整役として使うだけになる。
「分かった。今回は使わない」
晴真は両手を見せるように上げた。
「区画はセルクさんに任せる。いつ採るかも、どれを残すかも」
「急に素直だな」
「疑われると使いたくなるから、その言い方はやめてくれ」
「では、疑う必要がない行動を続けろ」
「数日間、ずっとか」
「冬の収穫を望んだのはクゼだろう」
フィエルナは冬苔の状態を一株ずつ確かめ、区画の半分ほどを低い氷の線で囲った。
「内側は触れない。踏み込まない。熱も加えない。収穫候補は外側だけにする」
その直後、雪の上を転がるようにピィロがやってきた。
「ピィ?」
冷えた冬苔を覗き込み、丸い身体を傾ける。羽先が橙色に灯った。
「元気がないんじゃない。これでいいんだ」
晴真が言っても、ピィロは納得しなかった。氷線へくちばしを近づけ、その向こう側の苔を見つめる。羽先の光が強まり、氷の表面に水滴が浮いた。
「ピィロ」
フィエルナの声が低くなる。
ピィロは顔だけを上げた。
「ここでは熱を使わない」
フィエルナが指先で氷線をなぞる。溶けかけた場所が再び白く固まり、境界がはっきりした。
ピィロは線の端まで歩き、回り込める場所を探した。反対側へ行っても氷は続いている。小さく羽ばたけば越えられる高さだったが、すぐには飛ばない。
「今回は競争じゃないぞ」
「ピィー」
「不満は分かる。でも、温めないのが仕事だ」
ピィロはくちばしを閉じたまま、湯気の抜けるような音を鳴らした。やがて羽先の光を弱め、氷線の外へ座り込む。
フィエルナはそれを見届けても褒めなかった。
「一度止まっただけだ」
「厳しいな」
「冬苔を一株駄目にしてから学ばせる方が優しいと思うか?」
「思わない」
待つ日々が始まった。
農家では保存虹穀を炙り、ラトラ村から受け取った食料と合わせて食べた。飲み水と調理には雨水と井戸の残りを使い分け、冬苔へ余計な水は与えなかった。
二日目の朝、晴真は冬苔の葉が少し厚くなったのを見て、土へだけ春を移す案を思いついた。
口にする直前で、フィエルナがこちらを見た。
「何も言ってないぞ」
「顔が言っている」
「土なら冬苔を直接起こさずに済むかもって、少し考えただけだ」
「土の水分が動けば、根も動く」
「実行はしてない」
「なら、そのままにしろ」
晴真はしゃがんだまま、両手を膝へ置いた。
「待つって、やることが少ないから難しいな」
「何もしないことと、変化を見守ることは違う」
「セルクさんは得意そうだ」
「得意ではない。必要だから選んでいる」
フィエルナはそう言いながら、雪の厚みを整えた。積もりすぎた場所だけを薄くし、冷気が逃げた場所には新しい氷片を置く。眠りを与えたまま、潰さず、凍らせすぎず、蜜が集まる余地を残している。
晴真はそれ以上、早める案を出さなかった。
ピィロも毎朝、冬区画へ現れた。
最初の日は氷線の上へ乗ろうとし、次の日は温かな小石を境界のぎりぎりへ置いた。三日目には、小石を置いた後で冬苔を見つめ、不満そうに背を向けた。
それでも氷線の内側へは入らなかった。
数日後の朝、フィエルナが農家の戸を叩いた。
「クゼ。来い」
「収穫か?」
「見てから決める」
晴真が外へ出ると、冬区画は薄い霧に包まれていた。夜の冷気がまだ地面を這い、雪の表面だけが朝日を受けて淡く光っている。
氷線の外側にある冬苔の葉が、前より深い青へ変わっていた。
フィエルナが一株をそっと開く。
葉の重なりの奥に、透明な雫が浮かんでいた。
冷気の中にあるのに凍っていない。丸い雫は青白い光を抱え、冬苔が息をするたび、かすかに震えた。
「これが、冬苔の冷たい蜜か」
晴真は思わず声を落とした。
動かず、伸びず、静かなまま、冬苔は時間を溜め込んでいた。雪の下に、小さな灯りを隠すように。
「採れる株は三つだけだ」
フィエルナは迷いなく分けた。
「こちらは次の休眠へ残す。葉を開かない。根にも触れない」
「全部採った方が量は増えるけど」
「次がなくなる」
「分かってる。言ってみただけだ」
「その言葉は便利だな」
「試す前に止めたんだから、少しくらい評価してくれ」
「収穫を終えてからだ」
晴真は小さな器を雪の上へ置き、フィエルナが傾けた冬苔から雫を受けた。
一滴。二滴。
透明な雫は器の底で寄り集まり、凍らないまま淡く揺れた。量はわずかだったが、鼻を近づけると、雪解け水の清さに蜜の甘い香りが重なっている。
「冬蜜」
晴真の口から、その名が自然に出た。
「冬が眠っている間に作る蜜だ。冬蜜でいいだろ」
フィエルナは器の中を見つめた。
「軽い名だな」
「気に入らない?」
「分かりやすいとは思う」
「それ、かなり褒めてるよな」
「採取を続けろ」
甘い匂いを嗅ぎつけ、ピィロが雪を蹴って近づいてきた。
「ピロロ!」
器へ一直線に進みかけたピィロの前へ、フィエルナが細い氷線を引く。
「ピィロ」
短い呼びかけだった。
ピィロは線の手前で止まった。身体を伸ばし、器を覗き込む。羽先は明るくなったが、熱は放たない。
一歩右へ動く。氷線も右へ続いている。
一歩左へ動く。そちらも同じだ。
ピィロは晴真を見た。
「俺に抜け道を聞いてもないぞ」
「ピィー」
「待てたら、外で少しだけだ」
ピィロはその場で羽毛を膨らませた。だが飛び越えず、氷線の外へ座る。甘い匂いへくちばしを向けたまま、身体の熱を抑えている。
収穫を終えると、三人は農家へ戻った。
晴真は木匙の先へ冬蜜を少量だけ取り、舌へ乗せた。
冷たい。
だが、氷を舐めたときの刺す冷たさではない。口の中に残っていた炙り虹穀の熱を静かに鎮め、その後から澄んだ甘さが広がった。強くはないのに、息をするたび喉の奥で香りが戻る。
「うまい」
晴真はもう一度、器を覗き込んだ。
「甘いのに、食べた後の方が静かになる。冬にしか作れない味だ」
「成長も、活性も、実りだけが恵みではない」
フィエルナは自分の分を口にし、ゆっくり目を閉じた。
「眠っている間にも、残せるものはある。冬は命を止めるためだけの季節ではない。次へ渡すために、急がず集める季節だ」
いつもより言葉が長かった。
晴真が黙って見ていると、フィエルナは目を開いた。
「何だ」
「いや。セルクさん、かなり嬉しそうだなって」
「成果を確認しているだけだ」
「そのわりに、さっきから器を離してない」
フィエルナは器を卓上へ戻した。
「ピィロの分を残している」
氷線の代わりに、卓上へ小さな氷片が置かれた。その外側へ、フィエルナは冬蜜を一滴落とす。
「ピィロ。ここならいい」
ピィロはすぐには飛びつかなかった。
フィエルナの顔と氷片を見比べ、外側から一歩だけ近づく。羽先の光は弱いままだ。くちばしで冬蜜をすくい、温めずに飲み込んだ。
身体が固まった。
「冷たすぎたか?」
晴真が手を伸ばしかけると、ピィロは首を振った。次いで、くちばしを小さく開き、驚いたように「ピィ」と鳴く。
羽毛がじわじわと広がった。
熱ではない。胸を張るように、淡い金色の綿羽が太陽の輪の形へ膨らんでいく。
「よく待った」
フィエルナがはっきりと言った。
「熱を使わなかったから、冬蜜を残せた。今回は、それが正しい」
「ピロロ!」
ピィロは卓上で小さく跳ねた。勢い余って氷片へ触れたが、溶かそうとはせず、隣へ並んで胸を張る。
フィエルナの口元がわずかに緩んだ。
晴真は残った冬蜜を三つに分け、採らなかった冬苔の株を思い浮かべた。量は少ない。次も同じように集まるかは、また休眠を経て確かめなければならない。
それでも、冬区画には食べられる成果が生まれた。
しかも春を足さず、夏で温めず、秋で熟させてもいない。冬が冬の時間だけで作った甘さだった。
「次は、残した株がどうなるかを見る」
「急がないならな」
「今回は実績がある」
「一度待てただけだ」
「ピィロと同じ評価か?」
フィエルナは冬蜜の器を抱え直した。
「ピィロは境界を守った。クゼは途中で何度か余計な案を考えた」
「考えるだけなら自由だろ」
「実行しなかったことは評価する」
晴真は笑った。
窓の外では、冬区画の薄雪が朝日に光っている。その下には、収穫せず残した冬苔が再び眠りへ入っていた。
冬の水と時間が植物に蜜を作るなら、別のものへ実りと冬を重ねたとき、何が生まれるのか。
新しい考えが浮かんだが、晴真はすぐには口にしなかった。
今はただ、舌に残る冷たい甘さを、もう少し味わっていたかった。




