【第10話】 風を食べる茸
風が吹くたび、茸の匂いが変わった。
「今のは木の実だ。いや、次は焼いた麦みたいな香りがする」
晴真は黄金色の草をかき分け、低く身を屈めた。草陰に並ぶ褐色の茸は、傘の縁を風へ向けるたび、甘さと香ばしさを交互に漂わせている。
隣ではピィロが鼻先を上げ、風向きに合わせて身体ごと右へ左へ揺れていた。
「全部追いかけても、匂いは捕まらないぞ」
「ピィー」
「俺も捕まえたいけどな」
採取へ持ってきた水と保存虹穀には限りがある。手近な範囲を越えて探し回るつもりはなかった。晴真は群れの端から小さな茸を二株だけ掘り、根元の土ごと籠へ収めた。
茸を見つけたことより、風を受けるたびに香りが変わることが面白かった。
春は育てる。夏は勢いを与える。なら秋は、ただ枯れる前の終点ではない。
「待つほど、味が増える季節にできるかもしれない」
晴真が呟くと、ピィロは籠の茸へ顔を寄せた。
「食うなよ。まだ持って帰るところだ」
帰路でも茸は風を受けるたびに香りを変えた。夕方までに農家へ戻ると、晴真は秋区画の一角へ二株を移した。井戸の残りと雨水を少量だけ使い、あとは土が乾ききらないよう見守る。
すぐに結果を出そうとはしなかった。
数日を置き、茸が新しい土へ根づくのを待った。
後日、傘が一回り大きくなった朝。晴真は秋区画へしゃがみ込み、二株の周囲へ浅い溝を切った。
「今日は土地じゃない。茸だけに秋を入れる」
「範囲は、その二株か」
フィエルナが溝の外から確認する。
「まず片方だけだ。香りが増えるなら、どこで止めるか比べたい」
「止める、ではなく、追加をやめるだけだろう」
「分かってる。熟した分まで巻き戻せるとは思ってない」
晴真は傘と軸、土に隠れた根元までを意識して区切った。周囲の土や隣の株ではなく、茸そのものへ秋の実りを移す。
季節替えに応じ、淡い褐色だった傘が深い飴色へ沈んだ。縁には赤金の筋が走り、ひだの奥から乾いた風が漏れる。
香りが立った。
見えないはずの匂いが、揺れる草の筋となって区画を巡る。熟した木の実、乾いた葉、温めた乳、炙った麦。風向きが変わるたび、別の香りが重なっていく。
「これは、風の中で熟す茸だ」
晴真は思わず笑った。
「秋風茸。そう呼びたい」
「名前より先に、食べられる状態を見なさい」
フィエルナの声は冷静だったが、視線は傘の色から離れていない。
「保存候補は、変化の弱い方だ。強く熟した方を眠らせても、香りが保てるか分からない」
「じゃあ、片方はこのまま。今の株だけ、もう少し試す」
晴真が再び秋を重ねると、香りの筋が一段濃くなった。
「ピロロ!」
ピィロが飛び込んできた。最も匂いの強い傘へ近づき、その周囲を忙しく回る。
「ピィロ、待て。今日は温めない」
晴真が地面を二度たたく。
ピィロは一度止まったものの、隣から別の香りが立つと、そちらへ跳ねた。待機場所へ戻る気はないらしい。
「役割を欲しがっているな」
「今回は香りを追う役しかしてない」
「それを役割とは呼ばない」
フィエルナの返答に、ピィロが不満そうな音を漏らした。
次の風が区画を抜けた瞬間、傘の下から細かな粉が噴き出した。
赤褐色の霞が光を受け、溝の外へ流れていく。
「晴真、能力を止めろ!」
畑へ来ていたマルタの声が飛んだ。
晴真はすぐに追加移植をやめた。だが、舞い始めた粉は止まらない。風へ乗った一部が境界を越え、湿った土と吸水後の冬苔へ薄く積もっていく。
マルタは冬苔の表面を指でなぞった。指先に赤い粉が付く。
「胞子だ。もう区画の中だけじゃない」
「中央の一株だけ残して、周りを――」
「何で囲う?」
マルタが遮った。
「風を止められるのか。土へ落ちた胞子を全部見分けられるのか。村の畑へ入ってから、珍しい茸でしたで済ませる気かい」
晴真は口を閉じた。
一株だけなら残せる。そう考えたのは、次も同じ香りを作りたかったからだ。だが、残した株がまた胞子を飛ばさない根拠はない。今ここで秋を重ねなくても、すでに成熟した傘は元へ戻らない。
「全部回収する」
答えると、マルタはすぐに籠を寄せた。
「傘だけじゃない。根元までだ」
「分かってる。次作は残さない」
口にすると惜しさがはっきりした。それでも晴真は、最も香りの強い株から掘り始めた。
ピィロが傘へ近づこうとする。
「ピィロ、今回は待て」
「ピィー」
「熱を入れたら、もっと胞子が飛ぶかもしれない。仕事はなしだ」
ピィロは羽毛をしぼませ、くちばしを閉じたまま湯気の抜けるような音を鳴らした。それでも茸へ触れず、溝の外へ離れた。納得はしていないが、拒まれた意味は分かったらしい。
フィエルナは回収した茸を二つに分けた。
「保存するのは、胞子を落とす前に採った少量だけにする」
「区画ごと凍らせないのかい」
マルタが問う。
「飛んだ胞子まで眠らせれば、土や冬苔も巻き込む。しかも、目覚める条件を管理できない。保存する対象だけでいい」
フィエルナの指先から薄い冷気が伸び、選び分けた茸だけを包んだ。傘の色は保ったまま、香りが静かに閉じ込められる。
晴真とマルタは湿った冬苔を持ち上げ、胞子が付いた面を内側へ折った。境界土にも水を少量含ませ、乾いた粉をそこへ吸着させる。
「能力で集め直せないのか」
「区画外の胞子へ秋を足したら、成熟を進めるだけだ。やらない」
「なら手を動かしな」
「そのつもりだよ、マルタさん」
土、冬苔、茸の根元を順に回収し、最後に溝の外まで見て回った。完全に無かったことにはできない。それでも、見える胞子と付着面は残さず集めた。
日が傾く頃、秋区画に茸は一本も残っていなかった。
農家へ戻ると、晴真は回収した茸を薄く裂き、火へかけた。熱が入るにつれ、風へ逃げていた香りが鍋の中へ沈んでいく。
木の実の甘さ。乾いた葉のほろ苦さ。炙った麦に似た香ばしさ。
汁気は少ないのに、噛むほど濃い味が滲んだ。
「風を食べてたんじゃない。風へ香りを逃がしてたのか」
晴真は焼けた一片を口へ運んだ。舌の上で、幾つもの秋が順番にほどける。
「うまい。普通の茸より、味が長く残る」
マルタも一片を噛み、すぐには何も言わなかった。二口目を食べてから、保存分を包むフィエルナへ視線を向ける。
「眠らせた分は、次に食べるためだけだね」
「栽培には使わない。胞子も残さない」
フィエルナが答えた。
「ならいい」
マルタは晴真へ向き直った。
「味だけなら、残せと言うところだった」
「俺も残したかった」
「だろうね。だから、全部掘ったことを見てる」
マルタは鍋の中身をもう一度確かめた。
「次に小さな試験をするなら、持ち込む前に条件を決める。どこまで広がったら捨てるか。何を残さないか。あたしも最初から見る」
「審査は終わったのか?」
「長期栽培の合格じゃない。失敗できる範囲を一緒に決めてもいいと言ってる」
「十分だ」
「十分かどうかは、次の結果で決める」
言葉は厳しいままだった。それでも、成果を見せて判定を待つだけの距離ではなくなっている。
食卓の端では、役目をもらえなかったピィロが背を向けていた。晴真が焼いた茸を近づけると、一度だけ振り返る。
「今日は温めなかったから、これで正解だ」
ピィロは匂いを嗅ぎ、慎重に一口ついばんだ。次の瞬間、綿羽が丸く広がる。
「ピロロ」
「仕事がない日もある」
晴真は残った秋風茸を皿へ分けた。食べる分と、フィエルナが眠らせた保存分。それだけだ。
秋区画へ戻す胞子も、次の栽培へ残す株もない。
欲しかった未来を一つ捨てた代わりに、香りの濃い一皿と、どこで試験を終えるべきかという基準が残った。
窓の外を秋風が抜けた。
今度は何の香りも運ばず、空になった区画の草だけを静かに揺らしていた。




