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飲料開発職、異世界を醸して帰る  作者: もしものべりすと


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第七章「煮沸という名の魔法」

煮沸とは水を沸騰させてから十分間待つそれだけのことだ。それが魔法だと言われた日のことを私はたぶん死ぬまで忘れない。


 王の謁見は意外にも穏やかに終わった。


 白髭の老王は私の話を遮らずに最後まで聞いた。聞き終わったあと玉座のうえで深く頷きこう告げた。


「中央神殿の調理場の改修と、王都内の井戸水の煮沸命令を、即刻発布する。倉科凛子、汝の指示は、本日より、宮廷の決定と同じ重みを持つ。必要な人手と物資は、すべて、王命にて手配する」


 短く、しかし重みのある言葉だった。


 老王の声はやや嗄れていたが瞳には濁りがなかった。何百年ものあいだ王家を支えてきた何かが彼の背筋を真っ直ぐに保っていた。


 私は深く頭を下げた。


 顔を上げたとき玉座の右隣に立っていた一人の男と目が合った。


 私はその瞬間に呼吸を忘れた。


 玉座の右側に立っていたのは、私の上司、沼田、だった。


 いや、正確には、沼田の顔をした、私の知らない人物だった。長身、糊のきいた白い祭服、銀縁の眼鏡に似た形の銀の鎖、薄い唇、刃物のように薄い目。声まで聞いていないのにすでに私は彼の声の質を耳の奥で再生していた。穏やかで丁寧で同時に断罪を含んだ声。


 彼の胸元には複雑な紋章が刺繍されていた。歯車と天秤と細い鎖が組み合わされた紋章だった。


「お目にかかれて光栄でございます、倉科凛子様」


 彼は一歩前へ進み出た。声まで沼田と同じだった。違うのは王宮言葉の格式だけだった。


「私はヌマト卿、効率神殿の大神官を務めております。本日は王命により、貴女様のご活動の支援を担当することになりました。今後、よろしくお願い申し上げます」


 効率神殿。


 その単語が私の耳のなかで奇妙な反響を起こした。


 謁見の間を出たあと、私は廊下の隅で立ち止まった。セレナが心配そうに私の腕を支えた。


「凛子様、お顔の色が」


「セレナさん、今の、ヌマト卿という方、貴方は、お知り合いですか」


「お名前は存じております。十年ほど前に、北方の小国から渡って参られた、新進の神官です。最近は、効率神殿という新しい教団を起こし、王のご寵愛も厚いと伺っております。とても優秀な方だと、もっぱらの評判です」


 私は壁にもたれかかって深呼吸した。


 偶然の似姿、ということはあり得る、と自分に言い聞かせた。だが私の業界の感覚として偶然の偶然が二桁重なるのは確率的に怪しい。声、姿勢、口調、視線の動かし方、断定の仕方、その全てが私の知っている沼田と一致していた。一致しすぎていた。


「凛子様、お部屋に戻られますか」


「いえ、まずは中央神殿に戻りましょう。仕事を続けます」


 私は背筋を伸ばした。動揺を顔に出すわけにはいかなかった。


 中央神殿の調理場で、私は王命の権威を背景に、三十名の神官と職人を集めた。


 最初に教えたのは煮沸消毒だった。


 水を完全に沸騰させ、その状態を十分以上、維持する。これだけで木桶の内側と外側、調理器具、すべての金属の部品から、雑菌の九十九パーセントを殺せる。神官たちは目を見開いていた。彼らの祈祷の三百倍の威力で、しかも私の言葉には祈りがひとつも入っていなかった。


 二日目に教えたのは先入れ先出しの管理法だった。


 飲料業界では基礎中の基礎の概念だ。古い在庫から先に消費し、新しい在庫を後ろに送る。これにより賞味期限切れの製品が市場に出るのを防ぎ、廃棄ロスを最小化する。神殿の倉庫にはこの考え方が完全に欠けていた。古い瓶の上に新しい瓶が積まれ、奥の瓶は年単位で取り残されていた。


「先入れ先出し、と仰るのは、つまり、古いものから順番に、使うということでしょうか」


 最も若い神官が手帳を構えて私に尋ねた。


 彼の指は墨で汚れ、眼鏡には小さなひびが入っていた。


「その通りです。仕込んだ順に番号と日付を桶につけ、必ず古い番号から消費する。新しく仕込んだものは奥に。これを徹底するだけで、古いものが腐敗するリスクが激減します」


 彼は私の言葉を一語ずつ書き取った。


 その筆記の音が、なぜか私の胸を温かくした。


 三日目には温度ログをつけ始めた。仕込み桶の温度を朝晩二回、すべての桶で記録する。温度の異常な上昇は雑菌の増殖の予兆だった。記録は神殿の壁に貼り出され、誰もが見られるようにした。


 四日目には水質のろ過装置を作った。布と砂と砕いた炭を重ねた簡易のろ過器だ。これでも井戸水の濁度と微生物量はかなり下がる。


 神官たちは、初めの数日は戸惑い、次の数日は混乱し、その次の数日からは熱中した。


 一週間後、中央神殿の最初の桶から、ようやくまっとうな発酵の香りが立ち上り始めた。


 私はその匂いを嗅ぎながら、深く息を吐いた。


 ここから三十日、王都の神酒は確実に変わる、と私は確信した。


 その夕方、ヌマト卿が私の作業場に現れた。


「倉科様、貴女様のご指導の進捗、まことに見事でございます。ですが、ひとつだけ、僭越ながら申し上げたいことが」


 彼の声は、刃物のように薄く、丁寧だった。


 私は布で手を拭いながら、彼の方に向き直った。


「何でしょうか」


「貴女様の方法は、いかにも、歩留まりが、悪うございます」


 私は息を呑んだ。


「歩留まりが、悪い、と仰いますと」


 私はカウンターに置いた手のひらを意識的に開いた。指の震えを隠すためだった。


「貴女様が中央神殿で実施しておられる工程では、原料の三割以上が、煮沸と洗浄の過程で失われております。ろ過の段階でも、さらに損失が出ております。最終的な完成品の歩留まりは、わが効率神殿の理想とする水準を、大きく下回っております」


「神酒の品質を担保するためには、これくらいの損失は必要です。雑菌が残った神酒を量産するくらいなら、量を犠牲にしてでも、安全なものを少量出す方が、長期的には王国のためです」


 ヌマト卿は微笑んだ。


 その微笑みもまた、沼田のそれと同じだった。


「ええ、ええ、お言葉は、ごもっともでございます。ですが、わが効率神殿の教義におきましては、世界の歩留まりこそが、神々のご加護の本質である、と考えております。歩留まりの低い工程は、神々の力を浪費する罪、なのでございます」


 世界の歩留まり。


 その言葉が、私の業界の用語と、この異世界の宗教用語のあいだの、最後の橋を渡らせた。神気が世界に注がれて実際に大地と人に定着する割合のことを、彼らもまた「歩留まり」と呼んでいた。同じ綴り、同じ意味。私が知っている言葉が、ここでは、神学の中心概念だった。


 私は彼の言葉を頭のなかで咀嚼した。


「ヌマト卿、お話の意味は、よく分かりました。ですが、神酒の歩留まりを上げる前に、現在の汚染を取り除く必要があります。汚れた水を効率よく流しても、それはただ、汚れを早く広げるだけです。私は、まず、清掃と消毒の段階を、優先したいのです」


 ヌマト卿は数秒だけ私を見つめた。


 それから一礼してその場を去った。


 彼の祭服の裾が石の床を撫でる音が、私の耳のなかで、いやに長く残った。


 その夜、私はセレナと並んで部屋の窓辺に立った。


 月のない夜だった。中庭の池には水面に星が滲んでいた。


「セレナさん、効率神殿、について、もっと、教えてくれませんか」


 彼女は私の隣で長く息を吐いた。


「凛子様、効率神殿は、近年急速に勢力を伸ばしている、新興の教団です。教義の中心は、世界の歩留まりを上げること。無駄なものを切り捨て、効率的な土地と効率的な民にのみ、神々の力を注ぐべきだ、というものです」


「無駄なもの、というのは、具体的に、何を指すのですか」


「痩せた農地、病んだ家畜、それから……老いた者、病の者、生まれつき体の弱い者、そういう者たちです。教義書には、彼らを神々の浄化のために自然に淘汰されるべき存在として位置づけている節がございます」


 私の指が窓枠の上で固まった。


 効率の名のもとに弱者を切り捨てる教義。それは私の知る世界では何度も歴史の中で繰り返されてきた発想だった。


 その発想を体現する男が、私の上司、沼田と、寸分違わぬ顔を持っている。


 偶然ではない、と私は確信した。


 二人は同じ何かの、別の表れ方なのだ。


 私はトートバッグから茶色いガラス瓶を取り出した。残り三分の二。


 その夜、私は液体のうえに、自分の意思を込めるように、瓶を握った。

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