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飲料開発職、異世界を醸して帰る  作者: もしものべりすと


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第六章「腐った仕込み桶」

神殿の厨房は現代の食品工場なら一秒で出荷停止になるレベルだった。


 王都ヴェリディアの中央神殿は私の出身地の関東圏のターミナル駅二つ分はあろうかという広大さだった。白い石灰石を組み上げた壁は雨に削られて灰色に変じていたが堂々とした円柱の連なりは今も古代の威厳を残していた。馬車を降りた私は息を呑んでその偉容を見上げた。隣でセレナも口を半開きにしていた。


 しかし私を案内するために門前に並んだ神官たちの足元を見たとき私の頭は別の評価軸に切り替わった。


 石畳の隙間には黒ずんだ汚水の跡が筋状に残っていた。神殿の脇を流れる小さな水路はぬめった緑藻に覆われ生ぬるい腐臭を放っていた。神官たちの足元から漂う匂いには香油と古い羊毛と汗とそれを上書きする薄められた香木の煙が混ざっていた。彼らの白い祭服の裾には灰色のしみがいくつも残っていた。


「ようこそお越しくださいました倉科凛子様」


 最も背の高い神官が一歩進み出て両手を胸の前で組み深々と頭を下げた。襟元には大きな赤い宝石を留めた金の徽章が光っていた。彼は私を貴賓室に案内し王の謁見までのあいだに神殿の調理場と仕込み蔵を見学していただきたいと申し出た。


 私はその提案を喜んで受けた。


 神殿の厨房はすぐ近くの石の階段を降りた地階にあった。


 扉を開けた瞬間私は息を止めた。鼻と喉に直接届く強烈な腐敗臭。発酵ではなく腐敗。糞便混じりの動物性の匂いが古い肉の脂と一緒に空気の中で発酵を続けていた。床の石畳は黒ずみ滑った。隅の溝には小型の昆虫の群れが動いていた。


 神官が誇らしげに言った。


「こちらが王都の中央神殿の仕込み場でございます。ここで毎日王宮へ献上する神酒の準備を行っております」


 私は黙ったまま中央の木桶に近づいた。


 桶は十六基ありどれも蓋を半開きにして並んでいた。蓋の内側には黒い斑が広がっていた。神官たちは桶の縁を素手で撫でながら長い祈りを口にする習慣があるという。素手で。手洗いの後ではなく。祈りそのものが浄化の作用を持つというのが彼らの教義だった。


 私は隣に立つセレナの方を振り返った。


 彼女の頬は青ざめていた。村のマハ翁の神殿でさえ汚染されていた。しかし王都の中央神殿の汚染はその比ではなかった。神官の人数が多ければ多いほど無自覚に持ち込まれる雑菌の量も増える。王都の神殿が機能していないのは菌叢の汚染が完全に勝ってしまっているからだった。


 私は神官に向き直り穏やかな声で尋ねた。


「ここで仕込んだ神酒の最新の一本を、味見させていただけますか」


 神官は誇らしげに頷き別の助手が瓶を運んできた。


 瓶の中身は灰緑色に近い濁った液体だった。


 私は鼻を近づける前から答えを知っていた。


 舌に乗せて二秒で吐き出した。


 神官の顔が初めて曇った。


「お気に召しませぬか」


「気に召すかどうかではなく、これは神酒ではありません。これは細菌培養液です。雑菌が増殖した結果生まれた発酵もどきの汚染物です。これを誰かに飲ませれば、健康な大人でも、半日以内に重い下痢で倒れます。子供や年寄りに飲ませれば、命に関わります」


 神官が後ずさった。


 彼の顔から血の気が引いていく速度を私は記憶した。


「し、しかし、王宮には、毎日、こちらの神酒を献上して」


「献上を、即刻、止めてください。王宮の神酒は別系統の蔵から運ばれているはずです。少なくとも、ここの桶からのものは、絶対に出してはいけません」


 神官は私の言葉の前で立ち尽くした。


 その横でセレナが両手を口に当てていた。


 彼女のような巫女見習いでも分かる程度に状況は深刻だった。私の言葉は彼女には筋が通って聞こえているはずだった。マハ翁の村で過ごした三十日のあいだに私が彼女に教えた基礎が彼女の中で立ち上がっていた。


 数分の沈黙のあと、神官は震える指で別の従者に何か命じた。私の言葉を上層部に伝えに行ったのだろうと察した。


 私は石壁にもたれて深く息を吐いた。


 異世界に来てから一度も感じたことのなかった怒りが私の腹の底で渦巻いていた。これは仕事を蔑ろにする者への怒りだった。同じ業界の人間として許せない種類の怒りだった。


 セレナが私の腕に手を添えた。


「凛子様」


「ごめんなさい、少し、強く言いすぎたかもしれません」


「いいえ。凛子様の仰った通りです。私たちは、これを、神聖だと思い込んで、ずっと、口にしてきました」


 彼女の声は震えていた。


 その震えは王都の人々の三年分の絶望を代弁しているように私には聞こえた。


 その夜私は王宮の客間に通された。


 高い天井の下に絹のカーテンが垂れ夜の風に微かに揺れていた。寝台の上には白い亜麻のシーツが整えられ部屋の隅には磨かれた銀の燭台が三本立てられていた。これまでの旅で見た風景とはまったく異なる光景だった。私は窓際の長椅子に腰を下ろし旅装の上着を脱いだ。


 扉が叩かれた。


 現れたのは王宮付きの侍女ではなく王宮の主任医師だという中年の男性だった。彼は両手に書類の束を抱えていた。


「倉科様、こちらは過去三年に王都で発生した原因不明の腹痛、嘔吐、下痢、発熱の患者の記録でございます。本日、神殿の調理場でのお言葉を受けまして、急ぎ集計いたしました」


 彼は書類を私の前の机に置いた。


 私はランプを引き寄せて記録の頁をめくった。患者数は三年で増加の一途を辿っていた。最初の年は四百件。二年目は千二百件。三年目は三千件を超えていた。死亡例は子供と老人を中心に積み上がっていた。


 神殿から配給される神酒を多く受け取っている地域ほど被害は多かった。


 主任医師の指が震える筆跡で書かれた地名のリストを示した。


「私どもは、長らく、これを神々が我らに与えられた試練だと、教えられて参りました。しかし、本日、倉科様のお言葉を伺いまして、はじめて、別の説明があり得ることに、気づきました」


 彼の声には屈辱と希望の両方が混ざっていた。


 長年信じてきた仕事の手応えが砂のように崩れていく音と、その崩れの向こうに新しい地平が見えてくる音と、二つの音が同時に彼の中で鳴っていた。私はその表情をよく知っていた。研究所の試作レビューで自分の処方を打ち砕かれたあと別の処方に光を見出した同期の顔がそれだった。


 私は静かに言った。


「先生、明日からの治療に、私のいる世界の知識でお力になれることがあるかもしれません。下痢患者には経口の塩分と糖分を含む水分の補給がいちばん効きます。同時に、王都内の井戸水を煮沸して飲むよう、可能な限り早急に、王命として通達していただきたいのです」


 医師は深く頭を下げた。


 彼は私の言葉を逐一手帳に書き写していった。


 扉が静かに閉じたあと私は長椅子の背もたれに体を預けた。


 窓の外で王都の灯が点々と燈っていた。


 眠りに就く前にセレナが控え室から出てきて私の隣に座った。彼女はもう何も言わずに私の手の上に自分の手を重ねた。その手は温かかった。私は彼女の指の温度に支えられて静かに目を閉じた。


 明日は王の謁見だった。


 窓の外の星々は遠く冷たく、しかし確かに、私を見下ろしていた。私の祈りは何かに届くのだろうかと思いながら私は眠りに落ちた。


 夢のなかで私は紙コップを握っていた。コップの中身は澄んだ琥珀色で表面には小さな泡が立っていた。

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