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飲料開発職、異世界を醸して帰る  作者: もしものべりすと


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第八章「最初の一杯」

完成した神酒を最初に飲んだのは王都でいちばん年若い子供だった。


 中央神殿の工程改革から二十一日目の朝、私の指導下で仕込まれた最初の新しい桶が完成した。私は柄杓で少量を汲んで官能評価を行った。澄んだ淡い金色。香気は穏やかで奥に微かなアルコール感。pHは安定し糖度は規格値の中央に着地していた。


「合格です」


 私は短く宣言した。


 神官たちが歓声を上げた。


 慣例として最初の一杯は王宮へ献上される。だが王は別の選択をした。


「最初の一杯は、王都の貧民区へ運ばれよ」


 老王はそう命じた。


 貧民区は中央神殿から馬車で半時間ほどの距離にあった。崩れかけた長屋が並び、井戸はひとつの区画にひとつあるかないかだった。子供たちは痩せ、母親たちの腕には湿疹が走っていた。私とセレナと数名の神官が、馬車で神酒の樽を運び込んだ。


 路地の一番奥に、三歳ほどの男の子がいた。


 母親に抱かれて、頬は青ざめ、唇は乾いて白く粉を吹いていた。母親の手元には粗末な木の椀しかなかった。


 私は柄杓で神酒をその椀に少量だけ移した。


 母親が、口を開いた。


「これは、本当に、私の子に、飲ませても、よろしいのですか」


 彼女の声には何重もの不信が混ざっていた。神殿の神酒は子供を救うどころか、ここ三年ほど、子供たちを死なせてきたのだ。彼女の声の震えは、十年以上の信仰の崩壊の音だった。


 私は彼女の前にしゃがみ込み、椀のなかから自分の指で少量を掬って、まず自分の舌に乗せた。


 澄んだ甘さ、軽い酸味、後味のかすかなアルコール感。


 それから私は微笑んだ。


「私が、先に、飲みました。大丈夫です」


 母親はそれでもしばらく椀を見つめていたが、やがて意を決した表情で、それを自分の子の唇に当てた。


 子供の喉が、こくり、と動いた。


 一口。二口。


 三口目で、青ざめていた頬に、うっすらと血の気が戻った。


 母親が、椀を取り落としそうになった。


 私はその椀を支えながら、もう一度、半分量を、子供の口に運んだ。子供の唇が、椀の縁を、自分の意思で、追いかけた。生まれてからまだ短い人生のなかで、初めて美味しいものに触れた、その表情だった。


 母親が、両膝を石畳について、泣いた。


 彼女の額が、私の靴のすぐ前で、地面に着いた。


「奥様、頭を、上げてください」


「凛子様、凛子様」


 彼女は私の名前を、何度も繰り返した。私の名は、彼女のなかで、初めて聞いた呪文のように、震えていた。


 路地の奥から、別の母親たちが、子供を連れて出てきた。


 彼女たちもまた、長らく信じることをやめていた何かを、もう一度、信じようとしていた。私は柄杓を握り直し、一人ひとりに、少しずつ、神酒を分けた。神官たちが、横で椀を準備した。セレナが、子供たちの頭を撫でた。


 夕暮れまでに、貧民区の三百人の子供と老人が、私たちの神酒を飲んだ。


 翌日の昼までに、彼らの三分の二の体温が、平熱まで下がった。


 その三日後、王宮では、ヌマト卿が王に進言したという話を、私はセレナから聞いた。


「凛子様の指導は、確かに、王都の民を救った。しかし、その手法は、効率の観点から見て、王国の長期戦略には、合致しない。今後の神酒の量産化は、効率神殿の主導で、別の方法で行うべきである。倉科凛子の役目は、ここまでで、終了にすべきである」


 私は窓辺でその話を聞きながら、自分の指が再び固まっていくのを感じた。


 ヌマト卿は私を排除しようとしていた。


 いや、正確には、私の方法を排除しようとしていた。私が証明してしまった「歩留まりが低くても、本物は届く」という事実そのものを、彼は否定しなければならなかった。彼の教義の根幹を揺るがす事実だったからだ。


 その夜、私は王宮の客間で、ノートを開いた。


 日本から持ってきた黒い無地のノート。


 最後のページに、私は、こう書き加えた。


「ヌマト卿は、たぶん、沼田と同じ傷を抱えている。彼を倒す前に、彼が、どこから来たのかを、知る必要がある」


 ペンを置いた私は、長く窓の外を見た。


 月のない夜空に、星が点々と冷たく光っていた。


 翌朝早く私は中央神殿の屋根のうえに登っていた。


 神官の若手の一人がそこから王都全体を見渡せると教えてくれたのだ。私は石造りの梯子を慎重に登り屋根の縁に腰を下ろした。冷たい朝の風が頬を撫でた。眼下に広がる王都は紅葉した銅板の屋根と灰色の石の壁とが幾何学的に組み合わさった景色だった。中央通りの石畳は朝日のなかで濡れたように光っていた。


 遠くの丘の上にもう一つの建物の影が見えた。


 効率神殿だった。


 白い大理石の正面ファサードと黒い瓦の屋根。中央神殿の倍ほどの規模を持つ建築だ。窓のひとつひとつが大きく整然と並びどこにも装飾の遊びがない。すべての線が直線で構成されていた。建物の四方には小さな鐘楼があり朝の祈祷の鐘が一定の間隔で響いた。


 私はその風景を見ながら自分の中で組み立て直していた。


 異世界に来てから三十日と数日が過ぎていた。


 マハ翁の村で神酒を復活させ王都の中央神殿の汚染を取り除き貧民区の子供たちに本物の一杯を届けた。だがそれだけでは足りなかった。ヌマト卿という存在がいるかぎり私の仕事は一時的な救済に留まる。彼の教義が王国の中枢に食い込んでいる以上根本的な反転を起こさなければまた同じ状況が繰り返される。


 屋根の下から声が聞こえた。


 セレナが下から私を呼んでいた。


「凛子様、お茶の用意ができました」


 私は微笑んでゆっくり梯子を降りた。


 彼女の差し出した木のカップを受け取り両手で温度を確かめた。中身は熱い香草茶だった。彼女の手は朝の作業の名残でわずかに濡れていた。


「セレナさん」


「はい」


「効率神殿の図書館に、入る方法は、ありますか」


 彼女は私の言葉に一瞬目を見開いた。


「凛子様、それは、危険でございます」


「危険なのは承知です。ヌマト卿の教義書を、もう少し詳しく、読みたいのです」


 セレナは長く沈黙した。


 それから決意を込めた表情で頷いた。


「私の従兄に、効率神殿の下級書記官として勤める者がおります。彼を通せば、夜間の閲覧室に、短時間なら、入れるかもしれません」


 私はカップの縁を撫でた。


 香草の蒸気が頬に当たった。


 その夜、私たちは行動を起こすことになる、と私は心の中で決めた。


 その日の昼下がりに私は中央神殿の若手神官たちに新しい指示を出した。北部山脈から運ばれてくる清浄な水を貯めるための予備のタンクを準備すること。仕込み桶の一基を完全に予備として保管しておくこと。万が一の汚染や破壊に備えるためのバックアップ体制を整えるためだった。神官たちは私の指示の真意を完全には理解しなかったが王命の権威を背景に粛々と従ってくれた。


 夕方の打ち合わせのあとに私は中央神殿の長老に挨拶に行った。


 長老は白い顎髭の老人で目はほとんど見えていなかった。彼は私の手を取りしばらくただ握っていた。やがて低くしゃがれた声で私にこう告げた。


「お嬢さん、ここ数日、わしは久しぶりに、神々のお声を聞いた気がしておる。お嬢さんの仕事は、わしらの祈りに、神々が直接お応えになった結果じゃ。お嬢さんは、神々の御使いに違いない」


 私はゆっくり首を振った。


「いいえ長老様。私は、ただの、飲料メーカーの研究員です」


 長老は微笑んだ。


「同じことじゃよ、お嬢さん」


 私はその言葉の意味を反芻しながら長老の部屋を辞した。


 廊下を歩く私の靴音が石の床に長く尾を引いた。

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