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飲料開発職、異世界を醸して帰る  作者: もしものべりすと


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第三章「井戸の底の女」

助けて、と日本語で叫んだら誰も振り返らなかった。当然だった。私は井戸のなかで、誰の井戸でもなかったのだから。


 立ち上がった私を支えながら少女が口を開いた。


「お名前を、もう一度うかがってもよろしいですか」


 彼女の言葉は耳に入ると意味へほどけた。私は数秒の間を置いて自分の名を繰り返した。


「倉科凛子といいます。中味開発の研究員です。日本から来ました」


 ニホン、という単語に少女と老人は同時に首を傾けた。二人にとってその発音は意味を結ばなかった。私はそれを見ながら新しい確信に近づいていた。私の言葉は彼らに届いているが、私の世界の固有名詞は通じない。何かが間で翻訳している。何かが翻訳しているということは私と彼らのあいだに翻訳の装置が介在しているということだ。


 少女は気を取り直して胸に手を当てた。


「私はセレナと申します。神酒巫女の見習いです」


 神酒、という言葉が私の耳で別の意味に翻訳された。神々のための酒。聖なる飲料。私の耳の翻訳装置は、その語を私の業界用語の近くに置いた。発酵という言葉の親戚に並べて置いた。私は職業病の小さな喜びを覚えながら頷いた。


 老人が一歩前へ進み出た。背は曲がっていたが立ち姿には静かな威厳があった。


「ワシはマハと申します。神酒醸造の継承者でしたが、今はもう継ぐ者のおらぬ最後の老いぼれでござる。お嬢さんがここに落ちて参られたのは、運命のお導きかも知れませぬ」


 継承者、という言葉に私は耳を疑った。


「醸造の継承者、というのは、神酒の作り手ということですか」


 マハ翁は深く頷いた。それから杖の先で広場の向こうの神殿を指した。


「あの神殿は、かつて四方の村に神酒を送り出していた工房でござる。今は仕込み桶が腐り、瓶が腐り、神酒の味が変わり、しまいには味が消えました。ワシらは神酒のない年を、もう三年も生きておる」


 私はもう一度神殿の方向を見た。


 半壊した屋根からは雨水が伝ったあとの黒い染みが垂れていた。窓は破れ、入口の扉は半ば外れていた。壁の一面は青みがかった黴で覆われ、私の鼻には五メートル離れたところからでも酢酸臭が届いた。


 酢酸臭。


 業界の人間にとってそれは特別な意味を持つ匂いだった。発酵が制御を失い腐敗に転んだときに立つ匂いだ。乳酸菌でも酵母でもない、酢酸菌が増殖した結果生まれる、鋭く目に染みる酸の匂い。一度この匂いがついた桶は徹底的に洗浄し直すか、最悪は廃棄するしかない。


 私はその匂いを嗅ぎながら、自然と職業の頭に戻っていた。


 いま自分が見ているのは、雑菌に汚染された仕込み環境の典型だった。


 マハ翁は私の表情の変化を見逃さなかった。


「お嬢さん、何かわかるのですかな」


 私は躊躇った。


 数秒の沈黙のあと、自分でも驚くほど落ち着いた声で答えていた。


「酢酸菌が増殖しています。発酵ではなく、腐敗です。桶を煮沸消毒しないと、いくら新しい液を仕込んでも同じことの繰り返しになります」


 マハ翁の目が、ふと潤んだように見えた。


 杖を握る指の節が、白くなるほど強く握られていた。


「お嬢さん、お嬢さんはどなたで……どこから……」


 言葉が続かない様子だった。


 代わりに口を開いたのはセレナだった。私の腕を握る彼女の指に、ぎゅっと力が籠もった。


「あなたは、神酒のことが、本当に分かるのですね」


 その声には、子供が大人に確かめるときのような震えがあった。


「私は神官試験に三度、落ちました。歩留まりの悪い巫女です。ですから、あなたのような方が落ちてこられたことが、奇跡のように感じられます」


 歩留まり、という言葉が彼女の口から流れ出た瞬間、私は心臓が一度大きく跳ねるのを感じた。


 異世界で初めて耳にする業界用語だった。


 私はその単語をもう一度反芻した。歩留まり。同じ綴り、同じ意味。投入したものに対して、規格として残るものの割合。彼女が自分自身に貼ったそのレッテルは、昨日の私に沼田が貼ったレッテルと、寸分違わぬ言葉だった。


 私はセレナの手を握り返した。


 握り返した自分の指が震えていることに、私は気づいた。


「歩留まりの悪い、ことは、別に、悪いことではないですよ」


 言葉は途切れがちだった。


 セレナは目を瞬かせて私を見上げた。彼女の青みがかった灰色の瞳のなかに、雨上がりの空が反射していた。私はその瞳から目を逸らせなかった。逸らしてはいけない気がした。


 マハ翁は二人の様子を黙って見守っていたが、やがて杖でこつりと地面を打った。


「とにかく、お嬢さんは濡れていなさる。家で温まっていただきましょう。話はそれからで」


 彼の家は神殿の脇に建つ小さな石造りの隠居所だった。


 暖炉には小さな火が灯っていて湿った薪が爆ぜていた。私は出された木のカップに口をつけた。中身は薄い穀物のスープで塩気は控えめだったが体の芯まで温まった。スープを啜りながら私は窓の外を眺めた。霧のなかに見える畑の畝は痩せ細り、農作物らしいものはほとんど見えなかった。


 マハ翁は私の向かいに腰掛けて静かに語り始めた。


 神酒は単なる飲み物ではなく、この世界の生命力そのものを循環させる聖なる液体であるということ。神酒を通じて神々の力――彼らはそれを神気と呼んでいた――が大地と人々に注がれているということ。三年前から神酒の発酵が乱れ、各地の神殿で液が腐るようになったこと。同じ頃から作物が痩せ、井戸が涸れ始め、子供たちが熱を出して回復しなくなっていること。


 話を聞きながら、私はゆっくりとカップを置いた。


「医療は」


「お嬢さん、医療というのは」


「怪我や病気を治す技術です」


 マハ翁は首を振った。


「神酒の力が失われてから、回復魔法も力を失いつつあります。薬草の知識はありますが、症状を抑える程度のことしかできません」


 私はもう一度窓の外を見た。


 痩せた山羊が痩せた畑の脇に繋がれていた。


 頭のなかで何かが組み上がっていく音がした。気のせいではなかった。私の業務知識という地味な工具箱が、この世界の崩壊に対して、何か役に立てるかもしれないという小さな手応えが立ち上がっていた。


 私はマハ翁の方に向き直った。


「神殿の仕込み桶を、見せていただけますか」


 マハ翁の目が、もう一度潤んだ。


 杖の柄を握りなおして、彼はゆっくりと頷いた。


「お嬢さん、お嬢さんがおいでくださったのは、たぶん、ワシらの祈りに、神が応えてくださった結果でござる」


 私は何も応えなかった。応えようがなかった。


 代わりに自分のトートバッグから、茶色いガラス瓶を取り出した。


 琥珀色の液体は、暖炉の火を映して、内側からほのかに光を放っていた。


 マハ翁とセレナは同時に息を呑んだ。


「これは、お嬢さんがお持ちの……」


「私の世界の飲料です。発酵に近い工程を経て作られています。本当はこれを一本、最後に自分で飲もうと思って持ち出してきたのですが」


 私は瓶を傾けて液面を確かめた。落下のあいだも内容物は守られたようだった。蓋はしっかり閉まっていた。


「お役に立てるなら、これをこちらの仕込みに使ってみたいのです」


 マハ翁の喉が一度大きく動いた。彼は自分が信じている神に向かって短い祈りの言葉を呟いた。それからカップを持ち上げて私に差し出した。


「お嬢さん、わしらは神酒の継承者として、長く封を解かれていない秘伝の桶をひとつだけ守っております。今宵、お嬢さんを、その桶のところへお連れいたしましょう」


 セレナが横で目を丸くした。


「マハ様、それは」


「セレナ、お前も来なさい。最後の継承者として、お前にも見届けてもらわねばならぬ」


 外では風が立ち、煙突のない屋根を撫でて鳴いた。


 私はもう一度、瓶を握り直した。


 その瞬間、自分が井戸に落ちる前まで握っていた紙コップの感触が、不思議なほど遠くに感じられた。

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