第四章「灰色の神殿、灰色の神酒」
神酒は、味噌汁の腐ったような匂いがした。
マハ翁が捧げ持ってきた木の杯のなかで、灰色がかった液体が揺れていた。表面には脂のような薄い膜が浮き、覗き込んだ私の顔がぼんやり映った。液面のすぐ上を、小さな羽虫が一匹通り過ぎた。
神殿の地下室は石で組まれた円形の空間だった。中央に大きな仕込み桶が並んでいた。十二基。すべて木製で表面の塗装は剝げかけ、内側の縁には黒ずんだ汚れが層を作っていた。空気は重く、湿った藁と腐った糖の匂いが鼻の奥に直接届いた。
マハ翁が杯を私に差し出した。
「これが、わしらの最後の桶から、今朝汲んだ神酒でございます。お嬢さん、ご自身の舌で、ご判断いただきたい」
私は杯を受け取った。
木は冷たく濡れていた。私はゆっくり鼻を近づけた。
最初に届いたのは予想通りの酢酸臭だった。鋭く目に染みる酸の香り。これは酢酸菌の代謝産物だ。次に届いたのは古い藁の匂いとカビ臭。空気中の浮遊菌が桶に入り込み、増殖した結果生まれる典型的な汚染パターンだった。さらに奥に、本来あるはずの心地よい発酵の香り――乳酸由来のヨーグルト的なニュアンスと、糖の代謝で生まれる微かなアルコール感――その痕跡が、ぎりぎり残っていた。
残っていた、というのが私の判断だった。
完全には死んでいない。汚染されているが、まだ生きている部分がある。
私は杯を傾け、舌の先にほんの少しだけ液を乗せた。
舌の中央で甘さの欠片が一瞬立ち上がり、すぐに鋭い酸味に上書きされた。後味は苦く、口の奥に金属的な渋みが残った。私は呑み込まずに紙の上に静かに吐き出した。慎重に味の構造を脳のなかで分解した。
「マハ翁」
私は顔を上げた。
「この桶は、まだ救えます」
マハ翁の杖を握る手が震えた。
「お嬢さん、本当でございますか」
「ただし、いまのままでは無理です。仕込み桶を完全に煮沸消毒する必要があります。それから、もう一度、純粋な菌種を投入し直さなければなりません。今いる雑菌をすべて殺してから、お嬢さんが守ってこられた本来の菌だけを増やす。それが復活の条件です」
セレナが私の隣で目を見開いていた。
「煮沸消毒、というのは」
「水を完全に沸騰させて、十分以上、桶を熱湯で満たすことです。木材の継ぎ目や桶の内側に潜んでいる雑菌を、熱で殺します」
「熱で、菌を、殺せるのですか」
私は彼女の顔を見て一度頷いた。
「殺せます。私の世界では基礎的な技術です」
マハ翁が深い溜息をついた。
「神殿のしきたりでは、桶は決して熱湯にさらしてはならぬ、と伝わっております。桶は神の宿る器だから、汚してはならぬ、と」
「その伝統が、たぶん、神酒を腐らせた原因です」
私は静かに言った。なるべく刺激しないように、しかし誤魔化さないように。
「桶を清潔に保たないことが、神への敬意になっているのなら、その敬意が逆向きに働いて、神を窒息させているのだと思います」
マハ翁は長いあいだ何も言わなかった。
石の地下室の天井から雫が一滴、桶の縁に落ちた。ぽつ、という小さな音が、私たちの沈黙のなかに響いた。
やがてマハ翁は杖を地面に置き、深く頭を垂れた。
「お嬢さん、わしの寿命は、もうそう長くはござりませぬ。神酒の継承を、わしは孫の代に渡せぬまま死ぬのだと、ここ数年、毎晩寝床で覚悟しておりました。お嬢さん、お嬢さんがわしの覚悟を覆してくださるのなら、わしはどんなしきたりも、捨てて構いませぬ」
私は何も言えなかった。
代わりに、トートバッグから茶色い瓶を取り出した。
マハ翁とセレナが息を呑んだ。
私は瓶の蓋を捻った。指先で力を込めて回すと、ガラスの口から、二年分の私が放った最後の香りが立ち上ってきた。澄んだ茶葉の青さ、後ろにある柑橘の温度、そしてその奥に、私の業界ではあえて狙って作ることの多い、僅かな発酵的なニュアンス。
地下室の重い空気に、その香りがすうっと差し込んだ。
セレナの肩が震えた。
彼女の目から、最初の涙が落ちた。
「これは……これは、わたしが、子供の頃、お祭りで一度だけ飲ませてもらった、本物の神酒の、香りです」
マハ翁がよろめいた。
杖に体を預けながら、彼は両手で顔を覆った。骨ばった指のあいだから、涙が、薄い灯火の光を受けて、銀色に光った。
私は瓶を桶のひとつに近づけた。
最も状態の良さそうな、十二番の桶を選んだ。蓋を開けると、なかには二割ほどの古い液が残っていた。完全に汚染されていたが、まだ生きている菌が潜んでいる気配があった。
「種菌として、ほんの数滴だけ垂らします。残りの瓶は、もっと重要な使い方のために、取っておきます」
私は瓶を傾け、五滴。
琥珀色の液が、灰色の桶の液面に落ちた。
最初は何の変化もないように見えた。ただ滴が広がっていくだけだった。マハ翁とセレナが息を詰めて見守っていた。
数十秒が経った。
桶の表面から、ふっと、一筋の蒸気のような揺らぎが立ち昇った。匂いが変わっていた。酢酸の鋭さの後ろに、ほんの僅か、果実のような甘さが顔を覗かせた。それは予感だった。これから戻ってくる本来の神酒の予感。一晩でどこまで進むかは分からない。だが何かが動き始めた。
私はゆっくりと息を吐いた。
「明日の朝、この桶だけ、もう一度、味を見せてください」
マハ翁が頭を垂れたまま頷いた。
その夜、私はマハ翁の隠居所で粗末な藁布団に横になりながら、何度も瞬きを繰り返した。
眠れなかった。
頭上の梁に、雨水のあとが斑に残っていた。
目を閉じれば、沼田の声がまだ耳の奥に残っていた。歩留まり零点三、屑だな。
その同じ言葉が、なぜか、別の世界の少女の口から、別の意味で発せられていた。私は神官試験に三度落ちました、歩留まりの悪い巫女です。
言葉は同じだった。意味も同じだった。だがセレナはその言葉を、自分のなかから絞り出すように発音していた。沼田の口から出るときと、まったく違う温度を持っていた。
私は寝返りを打ち、目を開けて天井を見た。
窓の外で風が止んでいた。
遠くで一匹の山羊が低く鳴いた。
私の人生は、確かに、井戸の底で何かを跨いだようだった。
藁布団のうえで私は身を起こした。
壁に立てかけた自分のトートバッグを暗がりのなかに探した。マハ翁が貸してくれた獣脂のランプを近くに寄せると橙色の明かりがバッグの表面に小さな影を作った。指先でファスナーを開け中身を順に確かめた。スマートフォンの画面はとうに真っ黒で電源を入れても何の反応もなかった。財布のなかの紙幣も小銭もこの世界では紙切れと金属片に過ぎなかった。ICカードは無用の長物だった。
しかし黒い無地のノートがあった。
私はそれを取り出して膝の上に開いた。最新のページに昨日の私が書いた文字が残っていた。「この零点三には私が伝えたかった味の全部が乗っている」。乾いた指でその一行を撫でた。
ノートの後ろの方には三年分の処方記録が走り書きで残っていた。煮沸の手順、ろ過の条件、菌種の管理表、官能評価の評点。書かれているのは現代の業務知識ばかりだったが、この藁布団の世界においては、ひとつひとつが地下水脈の地図のようなものだった。私はノートを閉じ、胸に抱いた。
遠くで雨が降り始めた。
古い藁屋根を打つ細い音が長く続いた。
私は瞼を閉じた。明日の朝までに桶のなかの私の五滴が、どこまで仕事をしてくれるのか、それだけを考えながら、ようやく眠りに落ちた。
窓の外の風が一度長く吹き抜けた。世界が静かに息を吸い込み静かに吐き出していた。




