第二章「最後のひと口」
試飲会の紙コップは、たぶん私の人生で最後に触れた現実の物だった。
午前十時、第三会議室には研究員と企画と営業企画から二十名が集まっていた。長机に並ぶ十六種類の競合製品。すべてのラベルは目隠し用の白いテープで覆われ、底面にA1からD4までの記号だけが書かれていた。匿名性を保つために用意されたブラインドテイスティングだった。
各自に渡される評価シートには、香気、苦味、酸味、甘味、後味のキレ、ボディの厚みなど十二の評価項目が並んでいた。中味開発の研究員は、これを淡々と数値化する訓練を受けている。私もまた、自分の感情を一桁の数字に変換する技術を身につけていた。
午前のセッションは平和に進んだ。
誰もが紙コップを口に含み、しばらく舌を遊ばせ、シートに数字を書き込んだ。会議室の空気には十六種類の香気がうっすらと混ざり合い、酸味と苦味の輪郭が空中を漂っていた。私の隣には同期の藤川が座り、紙コップを掲げてはちいさく唸っていた。
昼前に小休止が入った。
休憩室で藤川がコーヒーを淹れながら、肩越しに声をかけてきた。
「昨日の会議、酷かったな」
私は曖昧に微笑んだ。
「沼田さんはあれが仕事だから。気にしてない」
気にしていないわけがなかった。だが気にしていると認めるのは、私のなかの何かを致命的に折る行為だった。気にしていないと言葉にすることで、私は自分の傷を一枚薄く塗り固めていた。藤川はそれ以上何も訊かなかった。彼は私の流儀を知っていた。私は彼のその沈黙に救われていた。
午後一時、最終セッションが始まった。
残る試料はD1からD4までの四つ。これらが噂のあった高機能茶飲料の新製品群だと事前情報で伝わっていた。市場で大化けする可能性のある製品群らしく、上層部が特に注目していた。沼田が会議室の後方に立って、評価員たちを観察していた。
私はD1の紙コップを口に運んだ。
舌に乗った瞬間、私は息を止めた。
冷えた液体は、最初に微かな甘さを舌の中央に置き、それから後方へ滑り、奥歯の裏で苦味に変わった。鼻に抜ける香りは、緑茶のような澄んだ草の匂いと、もう一段奥に潜む、何か別の発酵的なニュアンスを連れていた。発酵的、と私は心のなかで言い直した。これは茶葉の発酵ではない。もっと別の何か。何かの微生物が関わった、しかし茶飲料には普通使われない種類の代謝産物が、後味の奥に微かに重なっていた。
目を細めた。
私の舌は、それを知っている味だと言っていた。だが頭は、それを知らない味だと言っていた。
舌と頭の食い違いに気を取られている隙に、私は二口目を飲んだ。
その瞬間、世界が、ねじれた。
会議室の蛍光灯が一度ぐらりと傾いた、ように見えた。長机の表面が水のように波打ち、向かいに座っていた藤川の輪郭が二重にぶれた。私は紙コップを取り落としかけ、慌てて反対の手で支えた。耳の奥で、低い唸るような音が遠くから近づいてきていた。
「倉科」
藤川の声が、水のなかで聞こえた。
「倉科、顔色が」
返事をしようとして、私は唇を動かした。動かしたつもりだった。だが私の唇は、もうそこにはなかった。
次の瞬間、私は落ちた。
落ちる、という単語が正確かどうかは分からない。床がなくなり、椅子がなくなり、紙コップを握っていた左手の感触すら遠くなった。視界の全てが灰色に呑まれ、それから黒に変わった。ただ、首にかかった社員証のストラップの感触だけが、最後まで残っていた。私の名前と顔写真が印字された、薄いプラスチックのカード。あれだけが、私という存在を世界に繋ぎ止めている錨だった。
暗闇の底で、誰かの低い唸り声が聞こえた。
それは唸りではなく、何かが発酵する音だった。
糖が酒に変わるときの泡の音。乳酸菌が増えるときの静かな、しかし生命の濃度が増していく音。私の知っている音。私の好きな音。
その音に呑まれながら、私は息を吸い込もうとして、できなかった。
次に意識が戻ったとき、私は雨に打たれていた。
冷たい水滴が顔に当たった。最初の感覚はそれだった。鼻の頭が冷たい。睫毛が濡れて、目を開けると視界が滲んだ。湿った石の匂いが鼻をついた。それからもう一つ、もっと古い匂いが混ざっていた。腐った木と、湿った藁と、何か食べ物が腐敗していくときの酸っぱい匂い。これは知っている匂いだった。雑菌に汚染された仕込み液の匂いだ。
体を起こそうとして、私は呻いた。
背中が冷たい石に張りついていた。頭の上は、円形に切り取られた灰色の空だった。空の縁を、苔の生えた石組みが囲んでいる。井戸だった。私は、井戸の底にいた。
ゆっくりと起き上がり、頭上を見上げた。井戸の口は、たぶん十メートル以上先にあった。覗き込む人影もない。風だけが、円の縁を撫でて低い笛のような音を立てていた。
私は呼吸を整えようとした。
夢だ、と思おうとした。
夢ならば、覚めるはずだった。だが、頬を伝う雨は冷たく、井戸の底の石は私の手のひらの下で硬かった。靴のなかは濡れて、白衣の裾は水を吸って重くなっていた。胸元の社員証のストラップは、首に絡まったまま、私の鎖骨に小さく食い込んでいた。
ふと、右手のすぐ脇に、見慣れた革のトートバッグが転がっていることに気づいた。
通勤に使っているバッグだった。試飲会のあいだ、ロッカーに置いていたはずのバッグが、なぜか、井戸の底に一緒に落ちていた。私は手を伸ばし、バッグの口を開けた。中身を確かめる動作は、震える指で、何度もボタンを取り落としながら行われた。
財布。スマートフォン。会社支給のICカード。文庫本。そして――。
いちばん奥に、茶色いガラス瓶が一本。
KX-073。
昨日、規則違反を承知で持ち出し、自宅まで連れて帰り、今朝もまた一緒に出勤した、私の最後のひと瓶。私はそれを取り出して、井戸の底でゆっくりとラベルを撫でた。指のすぐ下で、ガラスは雨に濡れて冷たく、しかしどこか温かい気配を残していた。
頭上から、声が降ってきた。
「だれかぁ、いる、のですかぁ」
女性の声だった。ただし、私の知らない言語の発音だった。それなのに、なぜか意味が分かった。私の脳の奥で、その音が日本語の音に翻訳されて届いた。
声の主は、井戸の縁から私を覗き込んでいた。
逆光のなかで、ふわりとした金髪が井戸の口に揺れていた。
私は紙コップを握ったまま――握っていたつもりだったが、紙コップはもう手の中にはなく、代わりにあの茶色いガラス瓶を握っていた――上を見上げた。
そして、なぜか、こう答えていた。
「います。倉科凛子です。中味開発の」
女性の影が、ぴょこんと跳ねた。
「お、おみょうじが、ながぁい」
次の瞬間、私はもう一度、目眩を覚えた。だが今度は、暗闇に呑まれることはなかった。
代わりに、井戸の底の雨が、少しだけ弱まった。
井戸の縁から、もう一つ別の声が降ってきた。
「セレナ、何を覗いているのです」
少し低く、年配の男のもののようだった。やはり日本語ではない発音だった。それなのに耳の奥で意味が立ち上がる。私はその不思議さに目を見開いていたが、不思議さに浸っている余裕はもう残っていなかった。
縄が一本投げ込まれてきた。
太い麻の縄だった。端には大きな結び目がいくつも作られ、足を掛けやすいようになっていた。井戸の縁から、声の主が叫んだ。
「上がってきてください、おじょうさん、ゆっくりでよろしいから」
縄を握る私の指は冷えて感覚を失っていた。ガラス瓶をいったんトートバッグに戻し、肩から斜めにかけて、私は縄を掴んだ。一段目の結び目に足を置き、体を引き上げた。
二段目、三段目、四段目。
筋肉が悲鳴を上げた。デスクワークの二十六歳に十メートルの井戸は十分な試練だった。途中で何度も止まり、呼吸を整え、それからまた登った。湿った石壁の苔が指の腹に張りつき、井戸の内側の冷気が頬を撫でた。
ようやく井戸の口に手をかけた。
誰かの手が、横から私の腕を掴んだ。
その手の温度に、私はもう一度、現実というものを思い知らされた。
体が縁を越えた。
私は地面の上に転がり出るようにして肩を打ち、しばらく息を整えた。背中の下の石畳から湿った匂いが立ち上ってきた。雨はすでに止んでいた。灰色の空の下に石組みの古い広場が広がり、その向こうに半壊した神殿らしき建物の輪郭が霧に透けていた。広場の端にはやせた山羊が一頭繋がれていて私を見つめていた。
誰かが私の肩に布を掛けた。
厚手の毛織物だった。羊毛の匂いがした。少し湿っていてしかし暖かかった。私は四つん這いのまま顔を上げ目の前に立つ二つの人影を見上げた。
手前に立つ少女は十九ほどに見えた。亜麻色の頭巾の下から金色の髪が肩に垂れ青みがかった灰色の瞳が大きく見開かれていた。頬には乾いた泥が斜めに走っていた。少女の隣には腰の曲がった老人が立っていた。長い白髭と褪せた藍の僧服。骨ばった手に節くれだった木の杖を握っていた。
二人の背後には村の家並みが続いていた。石造りの低い家が肩を寄せ合うようにして並びその屋根は古い藁葺きでひどく傷んでいた。煙突のいくつかは崩れ落ち煙の出ているものはひとつもなかった。私はその情景を見ながら無意識に職業の頭で観察を始めていた。煙が出ていないということは火を炊いていないということだ。火を炊いていないということは煮炊きをしていないということだ。煮炊きをしていないということはこの村はおそらく深刻な状態にある。
「お嬢さん、立てますかな」
老人が静かに尋ねた。私は頷き布で身を包みながら立ち上がった。膝が震えた。少女が脇から手を差し伸べてくれた。その手のひらの温度を借りて私はようやく自分の足で地面に立った。
ここがどこなのか、私の人生がどこへ向かおうとしているのか、私はまだ何も知らなかった。
ただ井戸の底で握っていた茶色い瓶の冷たさだけが、私のなかに残っていた。




