第一章「歩留まり、零点三」
二十六歳の朝、私はまた同じ自販機の前にいた。
同じボタン、同じ百三十円、同じ缶。中の液体すら同じだ。たぶん、私の人生のうちで、もっとも安定して再現性のある工程はこの缶コーヒーの購入だった。職場で私が二年がかりで仕込んだ機能性飲料はどれもこれも歩留まりが安定しなかったが、この朝の儀式だけは違う。
社員証を首から下げ、ガラスの自動ドアを抜け、八階の中味開発フロアまで上がる。前を歩く女性社員のシャンプーの匂いが、エレベーターのなかでむっと立ち昇った。柑橘とミントのブレンド。私はこういうものを嗅ぐと、つい原料の比率を考えてしまう癖がある。たぶんレモン精油が二、ベルガモットが一、メントールが微量。職業病という言葉では足りない、もう少し業の深い何かだった。
九時十二分、定例の試作評価会議。
長机にずらりと並んだ茶色いガラス瓶のなかに、私のKX-073があった。試作番号末尾の0、7、3は、二年前に最初の処方を書いた日の数字だ。あの日、私はラボの隅でひとり、原料瓶のラベルを撫でながら、「いつかこの三桁を、誰かが冷蔵庫から取り出すんだ」と思っていた。
「歩留まり、零点三」
沼田が読み上げた。
歩留まりという言葉を、一般の方のために説明しておこう。投入した原材料に対して、規格を満たす完成品として出荷できる割合のことだ。コーヒー豆百キロから缶詰めとして売れる液が四十キロ取れれば、歩留まりは40%。製造業の利益率に直結する数字で、現場ではこの一%を上げるために徹夜が積み重なる。
零点三という数字は、二桁少ない。百キロ仕込んで三百グラムしか製品にならない、という意味になる。普通の感覚では、屑だ。
「屑だな」
沼田は私の心を読んだのか、ちょうど同じ言葉を口にした。声は穏やかで、刃物のように薄い。長身、糊のきいた白いシャツ、銀縁の眼鏡。営業企画上がりでサプライチェーンの司令塔をやっている男だ。彼の口調にはいつも、丁寧さの皮を被った断罪が混じる。
「倉科さん、君は中味の人間だから数字に弱いのは仕方ない。でもね、歩留まり零点三ということは、工場のラインを止めるということだよ。我々はラインを止めるために飲料を作っているわけじゃない」
私は何か答えようとして、唇を噛んだ。
「最終のサンプルです。香気は十分乗っています。後味の苦味のキレが、競合他社の上位品と並んでも――」
「並ばなくていい」
沼田は手を振った。
「並ばなくていいんだよ、倉科さん。我々は並ぶために作っているわけじゃない。売れるために作っているんだ。歩留まりの悪い試作を抱え込んで、二年も人月を食い潰しておいて、まだそんなことを言うのかね」
会議室の蛍光灯が、ジジ、と小さく鳴った。
窓際で課長が下を向いていた。若手の同期は誰もこちらを見ない。私はテーブルの下で両手を組み合わせ、爪が掌の肉に食い込むまで握りしめた。痛みで、目の奥が乾いていくのを抑えた。
「廃棄処理は今週中に。資材も全部書類を残してくれよ。今期の損金として落とすから」
沼田はそう言って、書類を閉じた。
パタン、と乾いた音。私の二年が、二桁の小数点の右側で終わった。
会議が終わったあと、私は資材室の鍵を借りに行った。
誰も来ない時間を見計らって、廃棄予定のKX-073を一本だけ、白衣のポケットに滑り込ませた。本来なら社外持ち出し違反だ。発覚すれば始末書、最悪は減給。それでも私は持ち出した。捨てるなら、せめてもう一度だけ、自分の舌で味を確かめてからにしたかった。最後の一杯だけは、廃棄記録ではなく、私の喉が引き取る。それくらいの権利はあるはずだった。
夕方、ラボに戻った。
誰もいない開発室で、私は机の引き出しから黒い無地のノートを取り出した。表紙には何も書いていない。三年前に入社して以来、誰にも見せたことのない、私だけの研究記録だ。会社の試作ノートとは別に、私は自分のために裏ノートを書き続けてきた。
今日のページに、私は震える字で書いた。
「KX-073、歩留まり零点三。でも、この零点三には、たぶん、私が伝えたかった味の全部が、乗っている」
書き終わってから、自分の字を見て、私は少し笑った。
馬鹿げている。馬鹿げているけれど、こうとしか書けなかった。沼田が「屑」と呼んだ三百グラムには、二年の私が浸み込んでいる。後味のキレ、香気の立ち上がり、最初の一口で抜ける鼻腔の苦み。すべては失敗の積み重ねの果てに、たまたま乗っかった奇跡だった。
歩留まりが低かったのは、雑味を切り捨てて、目的の味だけを残そうとした結果だ。低いほど、残ったものには本質が濃縮されている。研究開発の世界では、それは当たり前の感覚だった。だが量産の世界では、それは罪だった。
ノートを閉じた。
窓の外で、街の灯りが点きはじめていた。私は白衣のポケットの上から、KX-073の瓶の冷たさを確かめた。
明日は試飲会だ。
他社製品のブラインドテイスティング。中味開発の研究員全員が参加する、半年に一度の恒例行事だった。沼田もいる。課長もいる。誰もが他社の新製品を品評し、自社の戦略を立てる。
私は、紙コップを握る自分を想像した。冷たい液体が舌に乗る瞬間を、想像した。
その瞬間に何かが終わって、何かが始まるのではないか、と、根拠もなく思った。
もちろんその予感が、文字通り「世界を変える」ことになるとは、その夜の私は知らなかった。
帰り道の電車のなかで私は文庫本を開いた。ページの上に活字が並んでいたが何も入ってこなかった。代わりに頭のなかには沼田の声がずっと残っていた。「君は中味の人間だから数字に弱いのは仕方ない」。仕方ないという言い回しは便利だった。相手の人格を否定しながら、責任を分散する。だから諦めろという含意が籠もる。私は二年間ずっとその含意を浴び続けてきた。
最寄り駅で降りるとアスファルトに薄く雨の匂いが立っていた。
駅前のロータリーには別の自販機が並んでいた。朝の自販機とは別系列の、競合他社の機種だった。光る液晶。冷たくついた赤い販売ランプ。私は無意識にしゃがみ込みボタンの真下を覗き込んだ。釣銭口の脇にメンテナンス員の連絡先シールが貼られていた。月に二度、商品を入れ替えに来る彼らがどんな仕事をしているか、新人研修で学んだ覚えがある。担当エリアの百台の自販機をひとりで回し、売上を一台ずつ細かく調整する人々の姿を、私は思い出した。彼らもまた歩留まりと闘う人々だった。売れ残った商品は損失、補充の遅れも損失、清掃のひと拭きが翌週の売上に効いてくる。彼らの一日と私の一日のあいだに本当はそれほどの差がないのに、本社の会議室では数字だけが切り取られて並んでいる。
マンションの部屋に戻ると私はまずシャワーを浴びた。
湯を浴びてもまだ体の芯に冷たいものが残っていた。台所で湯を沸かしながら、白衣のポケットからKX-073の瓶を取り出してテーブルに置いた。茶色いガラス越しに、液色は澄んだ琥珀だった。何度見ても綺麗な色だと思った。沼田に屑と呼ばれた三百グラムの濃縮が、私の前で静かに立っていた。
冷蔵庫の隅から、無理を言って同期に貰った市販の機能性飲料を一本取り出し、KX-073と並べてグラスに注いだ。両者は同じ色をしていた。鼻を寄せると、市販品からは整いすぎた香りが立った。整っているということは、雑味も個性も削げ落ちているということだった。私のKX-073からは別の香りが立った。少し青臭くて、少し古い木の匂いがあって、後ろに柑橘の温度があった。完璧ではなかった。完璧ではなかったが、ここには私がいた。
私はノートにもう一行書き足した。
「明日、舌の上で別れる」
書きながら、自分の指が震えていることに気づいた。
私は明日の試飲会で、市販品の紙コップを口に含む瞬間に、何かを決めようとしていた。何を決めるのかは自分でも分からなかった。辞表ではない。沼田を殴ることでもない。ただ、自分のなかに二年ぶんの記憶を一枚の薄い氷のように残しておこう、そう思っていた。
その氷を抱えたまま眠れば、明日、別の私が紙コップを口に運ぶはずだ。
ベッドに横たわると天井のクロスの繊維がぼんやり見えた。私は瞼を閉じた。
歩留まり零点三。
その数字は呪いだった。大学院の指導教官にも同じ言葉で切り捨てられたことがあった。あの日も私は震える指でノートを閉じ、誰にも見せられない裏ノートを書き始めた。あれから何年経ったのだろう。私は同じ場所に立ち止まっていた。
目を閉じたまま、私はもう一度、自分にだけ聞こえる声で呟いた。
「この零点三には、私が伝えたかった味の全部が、乗っている」
誰も聞いていなかった。
窓の外で風が動き、雨の匂いが少し強くなった。
私は眠りに落ちた。明日のことを夢に見るだろうか、と思いながら。




