第二十一章「別れ ― 杯を返して」
別れの日の朝は、よく晴れていた。
逆発酵から一月が過ぎた。王国の北部、東部、南部の三方角の村々から、神酒の復活の報告が、続々と王宮に届いていた。私の役目は、ほぼ、終わりに近づいていた。
その朝、王宮の中庭に、私の主要な仲間たちが集まった。
セレナ、ジン、リーノ、ヌマト様。それから、貧民区の母親の代表、中央神殿の若手神官の代表、効率神殿改め王国神酒仕込み所の中下級職員の代表、王都の老医師団の最年長。総勢十名ほど。私を見送るために、彼らは集まっていた。
マハ翁の村への帰路を、私はすでに王宮に申請してあった。
マハ翁の墓に、最後の挨拶をしてから、あの井戸に、もう一度、降りる。
私が井戸の底に落ちて、この世界に辿り着いた朝から、ぴったり八月目の朝に、私は同じ井戸に向かおうとしていた。何かの確信があったわけではなかった。ただ、私が来た道を、もう一度、辿らねばならない、という、職業的な感覚があった。仕込みの工程は、常に、戻りの工程を伴うものだった。
中庭で、ヌマト様が、私に、一つの杯を差し出した。
白い陶器の杯だった。
あの夜、効率神殿の最上階で、彼が私に振る舞った、整いすぎた神酒の、杯と、同じ形だった。
しかし、今朝、その杯のなかに注がれていたのは、彼が二十数年地下で守り続けてきた、本物の神酒、新月の夜の逆発酵を経て、王都の井戸に湧き上がったあの神酒だった。
ヌマト様は深く頭を下げた。
「凛子様、これは、お師匠様の杯でございます。お師匠様が亡くなる前に、私に、いつかこの杯を然るべき人にお渡しなさい、と言い残された杯でございます。本日、私は、この杯を、貴方様にお渡しいたします」
私は両手で杯を受け取った。
杯の重さは、思ったよりも軽かった。長く誰かの手の中で温められ続けてきた、古い陶器の、馴染んだ重さだった。
私は杯を傾け、一口、含んだ。
澄んだ茶葉の青さ、後ろの微かな柑橘の温度、奥の僅かな発酵的ニュアンス。
舌のうえで全ての要素が、奇跡的なほど、ちょうど良い位置に着地していた。
私はその味を、長く、口の中で転がした。
舌のうえで一年分の記憶が一斉に立ち上がってきた。井戸の底で雨に打たれた朝のこと。マハ翁の隠居所で初めて飲んだ薄い穀物のスープのこと。地下室の十二基の桶の前でセレナが泣いた夕方のこと。貧民区の子供の頬に色が戻った日の母親の涙のこと。マハ翁が息を引き取る前に握ってくれた指の温度のこと。神気制御室の地下でヌマト卿が崩れ落ちた瞬間のこと。
全てが、その一口のなかに、納まっていた。
私はゆっくり呑み込んだ。
顔を上げると、仲間たちの目に、薄く涙が滲んでいた。
セレナが私の前に進み出た。
「凛子様」
「セレナさん」
「私は、いつか、また、貴方様にお会いできますでしょうか」
彼女の声には、別れを十分に受け止めたうえでの、子供のような願いが、混じっていた。
私は彼女の頬に、自分の手のひらを当てた。
彼女の頬は温かかった。
「セレナさん、貴方は、私の最初の同僚です。私たちは、一緒に、ひとつの仕込みを、最後までやり通しました。同じ仕込みをやり通した者同士は、たとえ離れていても、舌のうえで、いつでも、お互いを思い出すことができます。貴方が、王国神酒の仕込み所で、本物の発酵を続けているかぎり、私は、貴方の隣に、たぶん、いつもいます」
彼女の頬を、涙が、一筋、伝った。
その涙は、私の手のひらの下を通り、私の指の先まで、温かく流れた。
ジンが、私の前に立った。
彼は剣を腰から外し、両手に持ち、私の前に差し出した。
「倉科様、この剣は、十年前、私が騎士団を除籍されたあと、ずっと私の手元にあった、唯一の私物でございます。本日、私の名誉は、貴方様によって、取り戻されました。お礼として、この剣を、お預けいたします」
「ジン殿、それは、貴方の」
「貴方様が、井戸に降りていかれるなら、井戸の縁に、この剣を、立てかけておいてください。井戸の底に、もしも、もう一度誰かが落ちてくることがあれば、その人を、この剣が、お守りいたします」
私は彼の差し出す剣を、両手で受け取った。
剣は、ずしりと重かった。
ジンの十年が、その重さに、染み込んでいた。
リーノが眼鏡の縁を押し上げ、私に小さな包みを差し出した。
「凛子様、この包みは、効率神殿の旧蔵書のなかから、私が個人的に保管していた一冊でございます。お師匠様の若き日のヌマト様の手書きの仕込み日誌でございます。お持ちかえりください。きっと、貴方様の世界でも、いつか、誰かのお役に立つはずです」
私はその包みを胸に抱えた。
最後にヌマト様が、もう一度、私の前に立った。
彼の手には、もう、杯はなかった。代わりに、彼の作業着の襟元の小さな桶の刺繍を、彼は指で、そっと撫でた。
「凛子様、ありがとうございました」
彼はそう告げて、深く頭を下げた。
私は彼の頭の真ん中の白髪の渦を、しばらく見つめていた。
長い長い旅を経て、ようやく、本来の自分の場所に戻った人の頭の渦。
二十六年間私が同じ会社で見続けてきた、上司の頭の渦と、よく似ていて、しかし、すっかり違う、新しい渦だった。
私は彼に向かって、深く頭を下げ返した。
中庭の鳥が、一羽、空に飛び立った。
空は、よく晴れていた。
私は王宮の馬車に乗り込み、北部街道へと向かった。
馬車のなかで私は窓辺に頬を寄せた。
風景は秋の入りの色を帯び始めていた。街道沿いの並木の葉先が黄色に染まりかけ畑の畝には収穫直前の麦の穂が金色に揺れていた。八月前にこの道を北上したときには地面は乾いていて畝は痩せていた。たったの八月で世界はすっかり別の色に染め直されていた。
道中の宿場町ではどこでも井戸の水面が薄く琥珀色に色づいていた。井戸端で水を汲む女性たちは皆穏やかな表情だった。子供たちは町の路地で駆け回り老人たちは家の戸口に椅子を出して日向ぼっこをしていた。私は馬車の窓越しにその景色をひとつひとつ目に焼きつけながら北へ向かった。
マハ翁の村に着いた日は雲ひとつない朝だった。
村は再建の途中だった。神殿の屋根は新しい藁葺きに葺き替えられ崩れていた壁は石を積み直されていた。広場の中央にはマハ翁の墓石が静かに立っていた。墓石のうえには毎朝井戸から汲んだ新しい琥珀色の水が一杯供えられていた。
私は墓石の前に立ち長く頭を垂れた。
マハ翁が私に最後に残してくれた言葉が胸の奥に蘇った。
桶の底に残っている。一番大事なものはいつも底に残っている。
私はその言葉を声に出さずに繰り返した。
墓石のうえの杯のなかの琥珀色は朝日を浴びてうっすら金色に光っていた。
村人たちが私の到着に気づき静かに集まってきた。皆何も言わずに私の周りに半円を作りそれぞれの胸の前で手を組んだ。私もまた何も言わずに彼らの方に向かって深く頭を下げた。
言葉はいらなかった。
仕込みの工程を最後まで一緒にやり通した者同士のあいだに必要な言葉はもうほとんど残っていなかった。
その日の昼下がりに私はようやく神殿の裏手の井戸の前に立った。
あの井戸だった。
八月前に私が落ちてきたあの井戸。
縁の石は当時のまま少し苔むしていた。井戸の口を覗き込むと底のほうから今もなお微かな水音が聞こえてきた。地下の伏流水脈の音だった。あの音はマハ翁の村の地下と王都の地下と最終的に世界の地下のすべてを繋いでいる音だった。
私は井戸の縁にジンから預かった剣を立てかけた。
錆の浮きはじめた古い剣の柄が朝の光のなかで深い色を帯びていた。私の世界には剣は持ち帰れない気がしていた。そもそも私が向こうの世界に戻れるかどうかさえまだ私には分からなかった。それでも剣をここに残すと決めていた。万が一いつか誰かがもう一度この井戸の底に落ちてきたときその人を守る剣がそこにあるはずだった。
私はトートバッグを肩から下ろし開いた。
空になったあのKX-073の茶色いガラス瓶。マハ翁から託された古い手帳。リーノから渡された包み。ヌマト様から贈られた白い陶器の杯。そして私の黒い無地のノート。
全てがそこにあった。
私はバッグを胸に抱え井戸の縁に腰かけた。
石の縁は朝のうちはまだ冷たかった。
地下から立ち上ってくる僅かな湿気が頬を撫でた。
遠くで秋の鳥が一羽鳴いた。
私はバッグを胸に抱えたまま井戸の縁から身を乗り出した。井戸の底はもう見えなかった。暗がりだけが私を待っていた。八月前のあの日にも同じ暗がりが私を呑み込んだ。あのときの私は何も知らずに落ちた。今の私は自分の意思で降りていく。
目を閉じた。
地下水脈の音が次第に大きくなった。
私は身を屈め井戸の暗がりに向かって深く息を吸い込んだ。地下水脈の冷たい気配が頬に届いた。誰かの足音が遠くで響いた気がした。村の方向からセレナの祈祷の一節がうっすら耳に届いたような気がした。
私はトートバッグの紐をしっかり肩に掛け直しゆっくり身を傾けた。井戸の縁から足を浮かせた。
暗闇のなかへ私はゆっくり落ちていった。
地下水脈の音が大きくなった。秋の鳥の声が遠くなった。
胸の前のバッグからガラス瓶の冷たさが伝わってきた。私の手のひらに最後の支えのように染み込んでいった。




