第二十章「神を醸す」
朝の八時、王都の三百本の井戸から、本物の神酒が、湧いた。
私は王宮の中庭で、噴水の縁に立っていた。噴水の水面は、すでに、薄く琥珀色に染まっていた。私の指先で、その水面に、小さく波紋を作ると、波紋は柔らかな円を描いて広がり、噴水の縁まで届いた。香りが、立った。澄んだ茶葉の青さ、後ろに微かな柑橘の温度、奥に僅かな発酵的ニュアンス。
私のKX-073の、香りだった。
ヌマト様が二十数年守り続けてきた、本物の神酒の、香りだった。
二つは、同じ場所に、着地していた。
中庭には、王宮の侍従、王宮騎士団、貧民区の母親たち、中央神殿の若手神官たち、効率神殿の中下級兵たち、そして老医師団が、集まっていた。誰もが、噴水を取り囲み、誰もが、水面から立ち上る琥珀色の薄い光を、見つめていた。
老王が、中庭に降りてこられた。
彼は寝衣のうえに簡素な絹のガウンを羽織っただけの姿だった。王冠も持っていなかった。靴も寝室用のままだった。彼は今朝、井戸の水を自分の手で汲み、自分の口で味を確かめてから、急いで中庭に駆けつけたところだった。
老王は私の前に立ち、両手で私の手を握った。
「倉科凛子」
「陛下」
「汝の手は、本日、わが王国を、救った」
彼の指が、震えていた。
その震えは、寒さからのものでも、老いからのものでもなかった。三年間、王国の長として、神酒の腐敗と民の死を、為す術もなく見続けてきた一人の老人の、長く堪えてきた涙の震えだった。
私は深く頭を下げた。
顔を上げると、老王はゆっくり、噴水の方を向いた。
彼の指が、水面に向けて、伸びていった。
乾いた老人の指先が、琥珀色の薄い光のうえに、そっと触れた。
その瞬間、中庭にいた全員が、一斉に、頭を垂れた。
誰かが小さく祈りの言葉を唱え始めた。それは効率神殿の教義ではなく、中央神殿の古い祈祷の一節だった。マハ翁が、村の隠居所で、毎夕の食事の前に、ぼそぼそと呟いていた、あの祈りの言葉だった。セレナがその一節を、地下の仕込み室で、新月の夜中に、唱えていたのと、同じ言葉だった。
祈りの輪は、ゆっくり、広がっていった。
貧民区の母親たちが、若手神官たちが、中下級兵たちが、医師たちが、王宮の侍従たちが、そして老王自身が、低く、揃って、その一節を、唱えた。
私はその輪の中央で、噴水の縁に、立ち尽くしていた。
ふと、私の右側に、人の気配を感じた。
ヌマト様が、静かに、私の隣に立っていた。
彼の頬には、もう涙はなかった。代わりに、長い長い旅の終わりに、ようやく荷物を下ろした、深い安堵の表情があった。
彼の方から、ぽつりと、口を開いた。
「凛子様、本日、私は、お師匠様の墓前で、ご報告いたします。お師匠様の村は、これから、神気の歩留まりが、戻って参ります。私は、お師匠様の最後の仕事を、最後まで、お守りいたしました、と」
彼の声には震えがなかった。
ようやく、肩の力が、抜けた声だった。
私は彼に向かって、深く頷いた。
その後の一週間で、王国は、急速に、回復し始めた。
北部山脈の麓の村々の井戸から、本物の神酒が、順に湧き始めた。痩せていた畑の畝に、緑の芽が、ゆっくり、戻ってきた。子供たちの頬に、血の気が、戻った。老人たちの寝床から、起き上がる人の数が、日ごとに、増えていった。
効率神殿の上層部は、王命により、解散させられた。建物そのものは王国の公共施設として残され、地下三階の仕込み室は、ヌマト様を所長とする「王国神酒仕込み所」へと、生まれ変わった。中央神殿との連携によって、王国全土の神殿の調理場が、煮沸消毒と先入れ先出しの管理法のもとに、順に改修されていく見込みになった。
セレナは、神官試験の制度そのものを変える運動の、若き旗手として、王宮の正式な認可を得た。歩留まりという基準が、本来は「より多くを抱える」という意味を持つことを、彼女は新しい教義書の冒頭に、自分の手で書き込んだ。
ジンは、王宮騎士団に、正式に復帰した。除籍の処分は王命により取り消され、彼の名前は再び騎士団の名簿のうえに刻まれた。
リーノは、王宮の主任書記官として、効率神殿の旧蔵書の整理と、新しい教義書の編纂を、任された。
そして、私は。
ある夕方、王宮の中庭の噴水の前で、私は、ようやく、自分自身の答えに、向き合った。
その夕方の中庭には誰もいなかった。
夕陽が王宮の白い石壁を金色に染めていた。噴水の水音だけが規則正しく響いていた。私は噴水の縁に腰を下ろし水面に映る自分の顔をぼんやり眺めた。日に焼けた頬。少し痩せた頬骨。井戸の底に落ちる前の研究員の顔とは少し違う顔がそこに映っていた。
遠くで誰かが笑っていた。
貧民区から来ていた母親の娘の声だった。三歳の男の子。あの最初の一杯を飲んで頬に色を取り戻した子。彼はいま中庭の向こうの芝生のうえで他の子供たちと駆け回っていた。彼の母親は芝生の端に立って遠くから見守っていた。
その情景を眺めながら私は心の中で静かに自分に問いかけた。
帰るのか帰らないのか。
元の世界には沼田がいる。あの会議室がある。屑と切り捨てられた二年がある。歩留まり零点三の試作品はもう私の手元にはない。最後の一瓶は地下水脈の中央に放った。あの瓶のなかの琥珀色は今や王都の三百本の井戸の水のなかに溶けて世界そのものの一部になった。
ここに残ればセレナと一緒に新しい神酒の歩みを最初から最後まで見届けることができる。ヌマト様の隣で仕込み室の発酵を毎晩温度ログにつけながら静かな職人として暮らすことができる。ジンと並んで石畳の道を歩く朝もある。子供たちが芝生のうえで駆け回る午後もある。
しかし私の脳裏には別の景色が浮かんでいた。
あの飲料工場の制御盤。並ぶ計器のひとつひとつの数字。同期の藤川の何も訊かない沈黙。あの黒い無地のノートに書き続けてきた裏ノートの三年。
私はこの世界に「歩留まりの悪さ」が本当は何を意味するかを伝えにきた。
その仕事はもう終わった。
次に伝えるべき場所が私には残っていた。
元の世界にも歩留まり零点三の言葉に切り捨てられた人たちがいる。沼田のような人たちと私のような人たちの両方がいる。私はそのあいだに立てる人間になれるかもしれなかった。
水面に映る自分の顔が小さく頷いた。
その夜マハ翁の村から伝令が一通届いた。
復活したあの神殿の地下の伏流水脈のなかから琥珀色の薄い帯が湧き上がり続けているという報告だった。マハ翁の墓石のうえに村人たちがその水を毎朝一杯ずつ供えているとも書かれていた。
私はその伝令の文を読み終えて長く目を閉じた。
マハ翁にとって最後の桶の底に残っていた一番大事なものはたぶん神酒の処方そのものではなかった。彼が伝えたかったのは弟子のヌマトを最後まで信じ続けていたという事実そのものだったのかもしれない。歩留まりが悪くてもお前が初めて自分の心を注いだ桶じゃった。あの言葉は神酒についての言葉でもありヌマト自身についての言葉でもあった。マハ翁は弟子の歩留まりの悪さを最後まで愛していた。
私はその夜遅くノートの最後のページにこう書き加えた。
もう一度自分の世界に戻ろう。
あちらにもまだ仕込みの続いている桶がある。
ノートを閉じた私はランプを吹き消した。窓の外で月が再び細く戻り始めていた。新月の夜から数えて二日が経っていた。月の細い銀色の縁が王宮の屋根の向こうに静かに浮かんでいた。
私は寝台に身を横たえた。
目を閉じる前に枕元の小卓に空になったあのKX-073の茶色いガラス瓶を立てかけた。中身は失われていたがガラスのほんのり残った香気が私の鼻の奥にまだ届いていた。
私はその香気をしばらく胸の奥まで吸い込んで眠りに就いた。
夢のなかで私は二十六歳の自分の机の前に座っていた。机のうえには黒い無地のノートが置かれていた。指でその表紙を撫でた瞬間ノートが少しだけ温度を持っていた。
その温度のなかには異世界で過ごした全ての日々が染み込んでいた。私はゆっくり目を覚ました。
目を覚ますと月のない夜が再び戻り始めていた。
窓の外で風が長く吹き抜けた。私は窓辺に立ち遠くの効率神殿のあった丘を見つめた。あの白い建物はもう効率の神殿ではなかった。




