第十九章「効率の神殿、深部」
明け方の四時、私たちが地下三階の仕込み室から一階の大広間に上がろうとした、まさにそのとき、廊下の奥から複数の足音が響いてきた。
効率神殿の上層部だった。
ヌマト卿が一週間かけて遠ざけていたはずの幹部六名が、なぜか、新月の夜の地下作業の終盤に、戻ってきていた。先頭に立つのは、白い祭服を纏った、第一補佐官と呼ばれる長身の男だった。彼の手には抜身の長剣が握られていた。
その後ろに私兵団の精鋭が三十名、続いていた。
第一補佐官は廊下の中央で立ち止まり、低い声で叫んだ。
「ヌマト卿、貴方様のご裏切りは、すでに、上層部の知るところとなりました。倉科凛子と共に、この場で、お縛りいたします。神気制御室の貯水槽は、ただちに排出し、洗浄いたします」
彼の声が地下の廊下に長く反響した。
私の隣でヌマト卿が一歩前に進み出た。
彼の手にはあの細い羽根ペンしかなかった。武器は何ひとつ持っていなかった。だが彼の背筋は、初めて見るほど真っ直ぐに伸びていた。
「補佐官、効率神殿の上層部は、本日をもって、解散いたします。私は二十数年にわたって、上層部の方針と、自分の手の仕事のあいだで、引き裂かれて参りました。本日、王命に基づき、私は地上の自分を、終わらせます。地下のこの仕込みのほうを、これからの私の唯一の道として、生きます」
補佐官の眉が一度大きく寄った。
「ヌマト卿、貴方様は、ご乱心でございますか」
「乱心ではござりませぬ。長く封印してきた、本来の私自身が、ようやく目を覚ましただけでござる」
ヌマト卿の声には、もはや、迷いがなかった。
補佐官の指が、長剣の柄を強く握り直した。
その瞬間、ジンが私たちの前に進み出た。
彼は剣を抜いた。
長く扱い慣れた愛剣の刃先が、地下の松明の橙色を受けて、低く光った。
「補佐官殿、このお方々に手を出されることは、王命違反でございます。本日は、私が、王命の遵守を、確かにいたします」
ジンの声は、低く揺るぎなかった。
彼の背後で、効率神殿の中下級兵十二名が、それぞれ持ち場の剣を抜いて、私たちを庇うように半円を作った。彼らは長年補佐官の部下として仕えてきた者たちだった。今夜、彼らは命を賭けて、自分たちの故郷を守る側に、立ち位置を変えていた。
補佐官の表情から、初めて、薄い焦りがよぎった。
彼は数秒だけ周囲を見渡し、私兵団の精鋭三十名の方を振り返った。しかし、私兵団の精鋭たちの足取りも、なぜか、揃っていなかった。彼らもまた、自分たちの故郷の村が、効率神殿の地図の上で赤く塗られていることを、いまや知っていた。
補佐官は剣を握り直したまま、しばらく固まっていた。
その時、廊下の入り口の方から、新しい足音が響いてきた。
王宮騎士団四十名。
先頭に立つのは、王宮騎士団の現団長だった。彼の右胸には、王家の紋章を金で縫い取った正式な肩章が、輝いていた。
「補佐官殿、ご静粛に。本日は、王命に基づき、効率神殿の上層部の身柄を、王宮にて確保いたします。剣を、お納めください」
団長の声には、一切の譲歩がなかった。
補佐官は数秒のあいだ、剣を握ったまま動かなかった。
しかしやがて、彼の手のなかで、長剣が、ゆっくり、地面に降りていった。
金属音が、廊下の石に、乾いて響いた。
その音とともに、私たちの逆発酵の作戦の、最も危うい局面は、終わった。
幹部六名と私兵団の精鋭は、王宮騎士団によって、静かに連行されていった。連行されながらも、彼らは抵抗しなかった。長く効率神殿の頂点にあった者たちが、その看板を失った瞬間の、奇妙な脱力が、彼らの背中にあった。
残された地下の廊下には、私たちと、味方となった中下級兵たち、そして、ヌマト卿が、立っていた。
ヌマト卿は補佐官の去った方向を、長く見つめていた。
やがて彼は私の方に振り向き、深く頭を下げた。
「倉科様、お見苦しいところを、お見せいたしました」
「いいえ。お見事でした」
私は彼の前で頭を下げ返した。
彼の作業着の襟元に、ようやく、肩の力が抜けた、緩やかな皺が寄った。
地上に出ると王都の空はすでに薄く白んでいた。
明け方の冷たい空気のなかに微かな霧が立っていた。私はその霧の向こうに王都の屋根の輪郭を見つめながら大きく息を吸い込んだ。空気のなかには地下から立ち上ってきたあの微かな発酵的ニュアンスがすでに混じり始めていた。鼻の奥にうっすらと届くその香りは私の業界の人間にしか分からない程度の薄さだったがしかし確かに存在していた。
王都の地下水脈は二時間にわたって本物の神酒の母液を呑み込み続けていた。
水脈の流れの中央に琥珀色の帯が伸びていく光景を私は地下の観察窓越しに目に焼きつけてきた。あの帯がいま王都の三百本の井戸に向かって静かに進んでいる。井戸の底に届くまであと数時間。井戸の底に届いた瞬間井戸の水面は薄く色づき始めるはずだった。
ヌマト卿が私の隣に並んだ。
彼は祭服を完全に脱ぎ捨てた状態で麻の作業着のままだった。襟元には王宮の紋章ではなく小さな桶の刺繍が縫い付けられていた。私のものと同じ意匠だった。
彼が静かに口を開いた。
「凛子様、私は本日から、ヌマト卿ではなく、ヌマトとして、生きてまいります。マハお師匠様の最後の弟子として、王都に残った仕込み室を、守って参ります」
「ヌマト様、お願いいたします」
彼は深く頷いた。
その背筋は二十数年ぶりに本当に真っ直ぐな線を描いていた。
私たちは王宮へ続く石畳の道を並んで歩いた。
道沿いの家々の窓には少しずつ朝の灯が点り始めていた。井戸のそばに立つ早起きの女性たちが釣瓶を引き上げる音が時折響いた。誰かが小さな悲鳴のような声を上げた。続けてもう一人の声が上がった。井戸の底から汲んだばかりの水を見て驚く声だった。
水面が琥珀色に変じ始めていた。
逆発酵は王都の地下から地上へと立ち上り始めていた。
私は歩を止めて空を見上げた。
白む空のなかに最後の星がひとつだけ残っていた。
その星のすぐ脇にうっすらと月のない夜の余韻がまだ漂っていた。
地下水脈の流れは止まらない。
井戸の数は三百を超える。
王都の朝が今日ようやく長い空白を抜けて本物の光のなかへと向かって動き始めていた。
私は深く息を吸い込み再び歩き始めた。隣を歩くヌマト様の作業着の袖の小さな染みが朝の光のなかで温かく見えた。後ろからはセレナとジンとリーノの三人が並んで続いていた。私たちは王宮の南門に向かう道を粛々と歩いていった。空気のなかの琥珀色の薄い香りはどんどん濃くなっていた。
すれ違う早起きの市民たちが私たちに気づき足を止めた。彼らはまだ何が起きたのかを正確には理解していなかったが空気のなかの香りと自分たちの井戸の水の色の変化からすでに何かが大きく動いたことを察していた。誰かが胸の前で手を組んで頭を垂れた。誰かが目尻の涙を拭った。誰かが微笑んだ。
私は彼らに向かって短く頷きを返しながら歩いた。
その頷きはお礼でもなく挨拶でもなかった。
ただの確認だった。
仕事は届きました。皆さんのところまで届きました。確認のための無言の頷きだった。
南門が見えてきた。番兵たちが私たちを認めて深く頭を下げた。私はその頭の連なりの上をゆっくりと通り抜けて王宮の中庭に足を踏み入れた。中庭の噴水の縁にはすでに王宮の侍従たちが集まっていた。




