第二十二章「終章 ― 月曜日、八時十二分」
目が覚めると、私は試飲会の長机の前で、紙コップを握っていた。
午後一時十二分。会議室の蛍光灯は、いつも通り、頭上で薄く鳴っていた。
長机の向かいに座っていた藤川が、心配そうな顔で私を覗き込んでいた。
「倉科、大丈夫か。今、急に、顔色が」
私は瞬きを繰り返した。
手のなかの紙コップ。冷たい液体。鼻に届くのは、整いすぎた香気と、奥に潜む発酵的なニュアンス。D1のサンプル。私が二口目を飲んだ、あの瞬間。あの瞬間に、私は、世界をひとつ跨いだ、はずだった。
しかし、長机のうえの液体は、まだ、紙コップのなかにあった。
会議室の壁の時計の秒針が、規則正しく、進んでいた。
私は震える指で、紙コップを、長机の隅に置いた。
「ごめん、藤川。少し、目眩が」
「無理するな。休んでていいよ。サンプルは、俺がメモを取っておく」
藤川は気を遣って、私の前から、評価シートを引き寄せた。
私はゆっくり、椅子から立ち上がった。
立ち上がりながら、自分の足が、自分のものではないように、頼りなく揺れているのを感じた。会議室の出口に向かって、ゆっくり歩いた。同期たちが、心配そうに私を見送った。
廊下に出てから、私は壁にもたれて、しばらく目を閉じた。
夢だったのか。
マハ翁の村も、セレナも、ジンも、ヌマト様も、新月の夜の地下の仕込み室も、全てが夢だったのか。
目を開けた私は、自分の白衣のポケットに、ゆっくり手を入れた。
指先が、何かに触れた。
冷たいガラス。
空になった、茶色いガラス瓶。
ラベルには、私の手書きで、KX-073、と記されていた。
その瓶を、私は、今朝、規則違反を承知で、ロッカーから持ち出していた。中身は確かに入っていた。最後の一瓶。試飲会の最中に、自分の舌で確かめるつもりでは、なかったかもしれない。だが、瓶は、私のポケットのなかに、あった。
そして、瓶の中身は、もう、空だった。
最後の一滴まで、誰かが、飲み干していた。
あるいは、誰かに、注いでいた。
私は震える指で、瓶を取り出し、廊下の窓辺の光に、かざした。
ガラスの底に、ほんの僅か、琥珀色の薄い染みが、残っていた。
その染みから、立ち上る香りは、私の知っている、KX-073の最終調合の、あの香りだった。
しかしその奥に、もう一つの、別の香りが、僅かに、混じっていた。
澄んだ茶葉の青さ、後ろに微かな柑橘の温度、奥に僅かな発酵的ニュアンス、そして、その更に奥に、何か古い祈祷の言葉に、よく似た、温かい余韻。
私は瓶を、額にそっと当てた。
ガラスは冷たかったが、額の皮膚を通して、奥のほうから、確かに、温度を伝えてきた。
翌週の月曜日、午前八時十二分。
私は会社の最寄り駅から、いつもの道を歩いていた。
駅前のロータリーには、いつもの自販機が並んでいた。同じ機種、同じボタン、同じ百三十円。私はその前で、しばらく立ち止まり、それから、いつもの缶コーヒーを買った。釣銭口から落ちる小銭の音が、いつもの音だった。
会社の自動ドアを抜けた。
守衛室の脇で、私は社員証を首から下げ直した。薄いプラスチックのカードに印字された私の名前と顔写真。あの日、井戸の底で、私を世界に繋ぎ止めていた、錨。
エレベーターで八階まで上がった。
中味開発フロアの自分の席に、いつも通り、白衣を掛けた。
九時の朝礼が始まる前に、沼田部長が、自分の席に着いた。
糊のきいた白いシャツ、銀縁の眼鏡、薄い唇、刃物のように薄い目。
彼は私の方を見て、いつもの薄い微笑みを浮かべた。
「倉科さん、先週の試飲会、お疲れさま。D系列の評価、藤川くんから聞いたよ。君の意見、面白かったね」
私は深く頭を下げた。
「ありがとうございます」
「ただね、君の評価軸は、相変わらず、歩留まりが、悪いね」
沼田はそう告げて、デスクの書類に視線を戻した。
私は彼の薄い後頭部を、しばらく、見つめていた。
彼の白いシャツの襟元に、ふと、見覚えのある皺が、走っているのに気づいた。
長く一つの仕事を続けてきた職人の、襟元の皺。
あの日、王宮の中庭で、ヌマト様の作業着の襟元に寄っていた、あの皺と、よく似た形だった。
私は、初めて気づいた。
沼田もまた、長く、何かを続けてきた人だったのだ。
効率という名の神に仕えるかたちで、しかし、心の奥には、たぶん、本人にしか分からない、別の桶を、抱え続けてきたのだ。
私はゆっくり、自分の席に戻った。
引き出しを開け、黒い無地のノートを取り出した。
最後のページに、私は、新しい行を、書き加えた。
「歩留まり零点三には、伝えたかった味の全部が、乗っている。そしてたぶん、沼田部長の零点三には、私が、まだ気づいていない、別の何かが、乗っている。私は、その何かを、これから、少しずつ、知っていこうと思う」
ペンを置いた。
窓の外で、月曜日の朝の光が、街路樹の葉先を、金色に染めていた。
その金色のなかに、ほんの僅か、あの王宮の中庭で見た、噴水の水面の琥珀色が、滲んでいるような気がした。
私はノートを閉じ、机のうえの空の茶色いガラス瓶を、両手で握った。
ガラスは、もう冷たくなかった。
私の手のひらの温度で、ようやく、室温に、馴染んでいた。
仕事は、これから、始まる。
あちらの世界でも。
こちらの世界でも。
桶の底に残っているものを、私は、一つずつ、引き上げていく。
時計の秒針が、規則正しく、進んでいた。
月曜日、午前八時十二分。
私の二回目の人生の、一日目の、朝だった。
私は缶コーヒーを口に運んだ。
いつも通りの温度のいつも通りの味だった。しかし舌の奥のごく薄い領域に異世界の井戸の水脈の余韻のような何かがほんの一瞬だけ立ち上った気がした。私はその余韻を慎重に追いかけ缶を再び机のうえに置いた。
午前中の業務はいつも通りに進んだ。
メールの返信を片付け試作品の評価データを整理し午後の会議の資料を準備した。机の右隅にはあの空の茶色いガラス瓶を文鎮代わりに置いていた。同期の藤川がふと通りかかり瓶を覗き込んだ。
「倉科、それ、KX-073じゃないか。廃棄したんじゃ」
「廃棄したよ。これは形見みたいなものさ」
「形見って」
藤川は笑った。それから少しだけ真面目な顔になった。
「あの試作品さ、俺は好きだったよ。歩留まり零点三だったけど、香りの組み立ては美しかった。あれくらいの密度のものを、いつかまた、君が作れるといいなと、俺はずっと思っている」
私は彼の顔をしばらく見つめた。
二年間並んで仕事をしてきた同期の口から聞こえてきた言葉は私の知らないところで密かに蓄えられていたものだった。誰かが私の仕事の密度を見ていてくれた。それを口に出してくれる瞬間が今朝ようやく訪れた。
「ありがとう」
短く返したその一言の中に私の世界の一年分の重さがあった。
藤川は満足げに頷いて自分のデスクに戻っていった。
昼休みに私は社員食堂の隅の窓際の席に座った。
日替わり定食の味噌汁を一口啜った。発酵食品の塩気と旨味が舌のうえに広がった。私はその味のなかに地下水脈と神酒醸造と本物の発酵の全てを感じ取った。発酵という現象はあちらの世界もこちらの世界も同じ営みだった。同じ営みが世界の境を越えて私の舌のうえで繋がっていた。
午後三時。
私は沼田部長のデスクの前に立った。
彼は書類から顔を上げ眼鏡の縁を指で押し上げた。
「倉科さん、何かね」
「お時間を、十分ほど、いただけますか。KX-073の処方について、新しい提案があります」
沼田の眉が一度わずかに上がった。それから彼はゆっくり椅子の背を立て直し私の方に向き直った。
「聞こうじゃないか」
私は鞄から黒い無地のノートを取り出した。
最後のページの一行手前まで開きあちらの世界の地下の仕込み室で書いてきた数字の幾つかを彼の前の机に並べた。煮沸の手順。先入れ先出しの管理法。温度ログ。簡易ろ過装置の作り方。それらを応用したKX-073の改良処方の素案だった。
沼田はしばらく黙って数字を眺めていた。
長い沈黙だった。
その沈黙の奥に何かが薄く揺れているのを私は感じ取った。彼の襟元の皺の奥に長く封印されていた何かが微かにこちらに気配を送っていた。
やがて彼は静かに言った。
「倉科さん、これは、再検証要、だな」
あの言葉だった。
あちらの世界のヌマト卿のノートの余白に書かれていたのと同じ言葉だった。
「数値要修正、もある。実証実験計画は別冊にしてくれ。来週の月曜の朝、もう一度、私の席まで持ってきてくれ。十分ではなく、三十分、時間を取る」
私は深く頭を下げた。
彼の眼鏡の奥で目が一瞬だけ私を捉えそしてまた書類の方に戻った。
沼田の沈黙の奥にあったものの正体を私はまだ知らない。だがそれを知るためには彼の隣にもう一度立つしかない。立ち続けるしかない。
席に戻った私はノートの本当に最後の一行に静かにこう書き加えた。
もう一度仕込みが始まった。
夕方になり退社時間が近づいた。
私はデスクのうえに置いた茶色いガラス瓶を丁寧に鞄の奥に仕舞った。あちらの世界からこちらに持ち帰った唯一の物だった。空のはずの瓶の底には今もうっすらと琥珀色の薄い染みが残り続けていた。
窓の外で街路樹の葉先が夕陽に染まっていた。
あの王宮の中庭で見送った仲間たちの姿が私の脳裏に静かに浮かんできた。セレナの祈祷の声。ジンの背中の沈黙。ヌマト様の作業着の襟元の皺。マハ翁の墓石のうえの琥珀色の杯。
私はそれらを全て胸の奥に納め直しエレベーターに向かった。
午後六時十二分。
会社の自動ドアを抜けると秋の夕暮れの空気が顔に当たった。
駅前のロータリーには朝と同じ自販機が並んでいた。私はその前を通り過ぎながら一度だけ立ち止まりガラス越しに自分の影を見つめた。影は朝より少しだけ背筋が伸びていた。
私は再び歩き始めた。
明日もまた月曜日の朝と同じ時刻にここを通る。三百六十五日の繰り返しのなかで私の二回目の人生はゆっくり仕込まれていく。歩留まり零点三の試作はもう私の机のうえになかったが私のなかには確かに残っていた。
駅に向かう道のずっと先で街灯がひとつ橙色に点いた。
その橙色の灯のなかに私はあのマハ翁の隠居所の暖炉の火と同じ温度を見つけた。
私は鞄を肩に掛け直し歩き続けた。
駅の改札を抜け電車のなかで吊革を握り窓の外を流れる秋の街並みを眺めた。電車のなかは退勤時間でやや混んでいた。誰もが疲れた顔で携帯端末の画面を覗き込んでいた。私はその誰もの顔のなかに何かしら歩留まりの低い試作の物語が眠っているはずだと思った。
最寄り駅で降りるとアスファルトに薄く秋の夕の匂いが立っていた。
マンションの部屋に戻ると私はまずシャワーを浴びた。湯を浴びながら一年分の遠い距離をようやく自分の皮膚から流し落とした。タオルで体を拭きながら鏡に映る自分の顔を再び見た。日に焼けた頬骨の上にあちらの世界の風がまだうっすら残っているような気がした。
台所で湯を沸かしながら私は鞄の奥からあの空の茶色いガラス瓶を取り出してテーブルに置いた。マハ翁の杯はもう私の手元にはない。あれは井戸の縁に剣と一緒に残してきた。リーノから預かった包みも井戸に降りる前に村の神殿の祭壇に納めてきた。あちらに残せるものは全て残してきた。私の手元にはこの空の瓶と黒い無地のノートだけが残っていた。
それで十分だった。
二つあれば二回目の仕込みは始められた。
私はノートを開きまだ書きかけの最終ページを撫でた。指の腹にインクの僅かな盛り上がりが残っていた。それは異世界の地下の仕込み室で私が書いたあの数字の名残だった。
窓の外で月が細く戻ってきていた。
新月から数えて八日目の月だった。
あの新月の夜に私たちは王都の地下水脈の中央に琥珀色を放った。今夜の細い月の銀色の縁にもまたあの琥珀色の余韻が滲んでいるような気がした。
私はノートを閉じテーブルの隅に置いた。
その上にそっと空の瓶を立てかけた。
二つの物体は私の二回目の人生の最初の道具だった。
明朝もまた同じ時刻に同じ自販機の前に立つだろう。同じボタンを押して同じ缶を手にするだろう。同じ会社の同じ自動ドアを抜けるだろう。しかし朝の私はもう昨日までの私ではない。
仕込みは止まらない。
発酵は止まらない。
私の歩留まり零点三の物語は地下水脈のなかでこれからも静かに続いていく。
私はテーブルの脇に立ったまま長く瓶を見つめた。瓶の底の琥珀色の薄い染みは月の光のなかで静かに発酵し続けていた。
遠くの夜空でひとつの星が深く澄んだ青さで瞬いた。
その瞬きはあちらの世界の井戸の上の朝の星空とよく似た瞬きだった。
私はその星を見上げながらようやく長い長い一日の終わりを胸の奥に納めた。
明日からの仕込みのために。
完




