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飲料開発職、異世界を醸して帰る  作者: もしものべりすと


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第十六章「逆発酵の作戦」

逆発酵という言葉を私の業界の人間が真顔で使うときそれは大抵失敗した仕込みのリカバリーを意味した。


 ヌマト卿との対面から二日が経った夜、私は王宮の作業室に主要な仲間を集めた。テーブルを囲んだのはセレナ、ジン、リーノ、王宮の主任医師、それから王宮直属の上席書記官二名。そしてもう一人。私の隣にはヌマト卿が腰を下ろしていた。彼は祭服ではなく仕込み職人の麻の作業着のままで参加していた。


 最初に口火を切ったのは私だった。


 大きな羊皮紙を机のうえに広げた。羊皮紙には王都の中心部から効率神殿の地下まで走る水脈の概略図が描かれていた。リーノが効率神殿の図書館の地質図から書き写してくれたものだった。北部山脈から伏流してきた水脈は王都の真下を通り効率神殿の地下三階のあの大規模な仕込み室の床下を流れていた。


 私は水脈の流れを指でなぞった。


「この水脈は、効率神殿の地下の貯水槽に集まっています。そこから王都全体の井戸に分配されています。ヌマト様、これで間違いありませんか」


 ヌマト卿が頷いた。


「その通りでございます。私が二十年前に設計した、王都の地下供給網の核です」


「では、もう一つ確認します。効率神殿の上層部は、現在、神気の歩留まりが低い領域への神気供給を、完全に止めることを、五年計画で進めておられます。具体的な手段は、地下水脈の特定の支流を、人工的に塞ぐこと、で間違いありませんか」


 ヌマト卿は再び頷いた。


「上層部は、来月の新月の夜に、北部山脈の主要支流を、堰によって塞ぐ計画でございます。マハお師匠様の村のあった一帯は、その堰によって、水を完全に断たれることになります」


 席に座る一同のあいだに、息を呑む音が漏れた。


 私は羊皮紙の上の北部山脈の支流に、印をつけた。


「私の作戦は、こうです」


 ペンを置いて、私は全員の顔を順に見渡した。


「来月の新月の夜、上層部が堰の作業を行う、その夜、私たちは、効率神殿の地下の本来の仕込み室で、最後の仕込みを行います。仕込みの内容は、神気を増幅するための、私の世界の処方を、ベースにしたものです」


 リーノが眼鏡の縁を押し上げた。


「凛子様、それは、つまり」


「私が二年がかりで開発した試作品、KX-073、その全量を、地下の貯水槽に投入します。同時に、ヌマト様が地下の仕込み室で守ってこられた本物の神酒、これを大量に、貯水槽の中央に放ちます。地下水脈の伏流の温度と速度を計算したうえで、王都全体の井戸に、本物の神酒成分が、四十時間以内に、均等に行き渡るように設計します」


 ジンが顎を上げた。


「水脈の流れと反対の方向に流すのですか」


「いいえ、流れと同じ方向です。ただし、流れの中央に高濃度の本物を放つことで、王都の井戸という井戸から、一斉に本物の神酒が立ち上がるようにします。地下を逆向きに動かすのではなく、流れの真ん中に、本物を、噛ませる作戦です」


 私はその作戦の名前を、ノートの隅に書いた。


 逆発酵。


 彼らの効率という偽の発酵を、本物の発酵で、内側から、逆向きにねじ伏せる。


 主任医師が、震える指で羊皮紙の縁を撫でた。


「倉科様、その作戦が成功すれば、王都内のすべての井戸から、本物の神酒が、湧き上がる、ということでしょうか」


「成功すれば、そうなります。失敗すれば、貯水槽の中で雑菌が爆発的に増殖し、王都全体に汚染水が、四十時間以内に、流れ出します」


 主任医師の手のなかで羊皮紙が、ぴくり、と動いた。


 私は彼の方に向き直って深く頭を下げた。


「医師長、その四十時間のあいだに、王都の医療態勢を、万全に整えていただきたいのです。仮に万が一の汚染が発生した場合に、住民の被害を最小化するための、応急対応の準備を、明日から始めていただきたい」


 彼は数秒だけ私の目を見つめてから、ゆっくり、しかし固く、頷いた。


 次にヌマト卿が口を開いた。


「凛子様、私から一つ提案がございます。効率神殿の上層部の動きを、私が、もう少しだけ、内側から押さえます。新月の夜、堰の作業に上層部の幹部全員を立ち会わせるように、私が、彼らを誘導いたします。地下の仕込み室には、その夜、誰も降りてこられぬように、いたします」


 彼の声は静かだった。


 彼は最後の自分の役割を、自分で選び取っていた。


 長く効率神殿の頂点に立ってきた彼が、最後にその看板を内側から畳む役を、引き受けようとしていた。


 私は彼に向かって深く頭を下げた。


「ヌマト様、ありがとうございます」


 彼は微笑んだ。


 その微笑みは、刃物のような薄さの代わりに、長い長い疲労のあとに訪れる、温かい色を帯びていた。


 会議は深夜まで続いた。


 細かな手順、人員配置、想定される失敗の確率、補完手段、それぞれを、私たちは一つずつ詰めていった。


 窓の外で月のない夜が王宮の屋根を覆っていた。


 会議の最後にセレナが立ち上がり静かに口を開いた。


「凛子様、最後の仕込みの日に、私もお側にいたいのです。私は神官試験に三度落ちた巫女ですが、マハお師匠様から学んだ祈祷の一節だけは、覚えております。仕込みの祈祷を私に任せていただけませんか」


 彼女の声は震えていなかった。


 あの井戸の縁から私を覗き込んでいたときの彼女ではなかった。マハ翁の村で最初の桶の前で目を伏せていた彼女ではなかった。今夜の彼女は自分の役割を自分で選び自分の声で告げていた。


 私は彼女に深く頷いて返した。


「セレナさん、お願いします。仕込みの祈祷は、貴女にしか出来ません」


 彼女の目に薄く涙が滲んだ。


 しかし彼女はそれを拭わなかった。


 ジンが机のうえに地図を引き寄せた。


「倉科様、護衛の手配は私の方で全て整えます。効率神殿の私兵団のうち、上層部から離れた中下級兵の中に、すでに数名、こちら側に意を通じてくれている者がおります。新月の夜には、彼らが地下への侵入経路を、内側から確保いたします」


 私はジンの言葉に頷いた。


 ジンはこの十日のあいだに静かに自分のかつての同僚たちと連絡を取り合っていた。除籍された元騎士の彼の名前は表向き王宮からは消えていたが裏側の信頼の網はまだ生きていた。私はそういう人々の網に支えられて自分の作戦を組み上げていた。


 会議が終わると私は窓辺に立った。


 遠くの効率神殿の白い建物のなかには今夜も灯が点っていた。


 その灯のひとつは間違いなくヌマト卿の私室の灯だった。


 彼は今夜から新月までの三十日のあいだに自分が長年纏ってきた看板を内側から畳む準備に入る。それは外から見れば裏切りに見える行為だった。だが私にはそれが彼にとっての最も誠実な選択であることが分かっていた。


 私はトートバッグの底から茶色いガラス瓶を取り出した。


 残り三分の二をわずかに超えるくらい。あの試飲会の朝にロッカーから持ち出してきた最後のひと瓶。沼田に屑と呼ばれた私の二年。マハ翁の村の最初の桶で五滴。残りはずっと持ち歩いてきた。新月の夜にこれを全量、地下水脈の中央に放つ。


 私は瓶を窓辺の小卓に立てた。


 月のない空のもとで琥珀色の液体は内側からほのかな光を保っていた。私はその光をしばらく見つめた。明日からの三十日は最後の準備の日々になる。本物の発酵を一発で成功させるための綿密な計算と最終調整の日々。


 その夜私は珍しく長く眠れた。


 夢のなかでマハ翁が私の隣に座っていた。彼は何も言わずに私の杯に静かに神酒を注いでくれた。私はその杯を両手で受け取り深く頭を下げた。

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