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飲料開発職、異世界を醸して帰る  作者: もしものべりすと


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第十七章「集う者たち」

仕込みには一人では立ち会えないと業界の先輩から最初に教わったのは入社一年目の春のことだった。


 逆発酵の作戦会議から二十日が過ぎた。新月の夜まで残り十日。私の周りには思いがけない人々が静かに集まり始めていた。


 最初に来たのは王都の貧民区から数人の母親たちだった。


 あの最初の一杯を子供に飲ませた母親が代表だった。彼女は仲間の四人を連れて王宮の門前に立った。手には粗末な布の包みがあった。なかには小さな麦のパンと薬草の束と何枚かの清潔な布巾。彼女たちはどこから話を聞いたのか新月の夜の仕込みを手伝いたいと申し出てきた。


 私は驚いて彼女たちを王宮の作業室に招き入れた。


 代表の母親は娘を抱きしめながら静かに告げた。


「凛子様、私たちは、字も読めず、薬の調合もできず、難しい儀式の作法も存じません。しかし、布を煮沸することは出来ます。鍋を磨くことも出来ます。手を洗うことも、誰よりも丁寧に、出来ます」


 その言葉に私の胸が熱くなった。


 飲料工場の現場で最も大切なのは厳密に温度を管理する高度な機械でも厳密に分析する高価な装置でもなかった。最も大切なのはひとつひとつの工程で手を洗う人の数だった。手を洗える人が多ければ多いほど仕込みは安定した。


 私は深く頭を下げた。


「皆さんに、最も大切な仕事を、お願いしたいのです。仕込みの前夜から翌朝まで、地下の仕込み室の全ての布と全ての桶の縁を、私たちと一緒に、煮沸し、磨いていただきたい」


 母親たちは互いに顔を見合わせて頷いた。


 代表の女性の目に涙が滲んだ。


 翌日には王都の中央神殿の若手神官たちが集まってきた。


 最初に煮沸消毒を覚えた、あの墨で指を汚した若い神官が、五名の同期を引き連れて来た。彼らはこの数月のあいだに、私の指導の下で、温度ログの読み方、菌叢の管理法、ろ過装置の運用、すべてを身につけていた。彼らは効率神殿の手の届かない場所で、地味にしかし確実に、新しい世代の神酒職人として育っていた。


 若い神官の墨で汚れた指が、私の前で深く組み合わされた。


「倉科様、私たちは、貴方様の弟子です。新月の夜の仕込みに、お側におらせてください」


 彼の声には初々しい震えがあった。


 その震えは入社一年目の春の私自身の声と、よく似ていた。


 次に来たのは効率神殿の中下級兵たちだった。


 ジンが事前に通じておいてくれた人々だった。彼らは祭服ではなく簡素な平民の衣服を纏って王宮の裏門から忍び込んできた。総勢十二名。みな効率神殿の地下構造を熟知し、地下三階の鉄扉の前後の警備の隙を、当夜内側から開ける役を引き受けてくれた。


 彼らのうちの最年長の兵士が、私の前で剣を地面に置き、片膝をついた。


「倉科様、私たちは長らく、効率という神に仕えてまいりました。しかし最近、上層部の方針が、私たちの故郷の村を、捨てる方向に向かっていることを、知りました。私の故郷もまた、北部山脈の縁にあります。当夜は、命を賭けて、貴方様の作戦を、内側からお守りいたします」


 私は彼の前にしゃがみ込み、彼の肩に手を置いた。


 その手のひらの下で、彼の鎧の金属が冷たかった。しかしその冷たさの奥に、温かな心臓の鼓動が、確かに脈打っていた。


 最後に来たのは、王都の老医師団だった。


 主任医師が連れてきた、白髪の医師が十名。彼らは長年王宮で診療を行ってきた人々で、効率神殿の教義書を密かに疑問視してきた者たちだった。彼らは新月の夜から翌朝までの四十時間、王都内の病院と診療所の応急体制を、自分たちの手で組み上げる役目を引き受けた。


 もしも私の作戦が失敗し、王都内に汚染水が広がった場合、最初に対応するのは彼らだった。


 最年長の白髭の医師が、私の手を握って言った。


「お嬢さん、私たちは、長らく、効率の名のもとに、自分の良心を、棚に上げてきました。本日からは、お嬢さんの作戦の、最後の防波堤を、私たちが担います。失敗は、しないでください。だが、万が一失敗しても、私たちが、王都の民を、最後まで守ります」


 その言葉の重さを、私はしっかり受け止めた。


 夕方、王宮の庭で、私はジンと並んで歩いていた。


 庭の隅に小さな噴水があり、夕陽が水面を金色に染めていた。


 ジンが珍しく自分から口を開いた。


「倉科様、新月の夜、私は貴方様のお側を片時も離れません」


「ジン殿」


「私は除籍された元騎士です。十年前、私は一つの村を守れず、その責を取って、騎士団を去りました。その村もまた、北部山脈の縁にありました。たぶん、私は、その日からずっと、自分にもう一度の機会を、待っていたのだと思います」


 彼の声には、いつもの低い静けさとは違う、もう少し人間味のある震えがあった。


 私は彼の方を見上げた。


「ジン殿、貴方は、十年前に、すでに、十分よくやられたはずです。新月の夜は、もう一度の機会ではなく、貴方が長く守り続けてきたものの、続きです」


 彼は数秒だけ私の顔を見つめ、それから静かに頷いた。


 その夜、私は王宮の作業室で、最終的な処方書を仕上げた。


 ノートを広げ、KX-073の正確な投入量、温度、攪拌のタイミング、ろ過の段階、ヌマト卿の本物の神酒を放つ位置と量、すべてを数字に落としていった。書きながら、私はふと、自分が研究員だった頃のあの夜のことを思い出していた。誰もいないラボで、廃棄予定のKX-073の前に座り、最後の処方書を書き上げた、あの夜のこと。


 あの夜の処方書は、誰にも届かないつもりで書いたものだった。


 今夜の処方書は、王都全体に届くために書くものだった。


 ペンの先のインクが、最後の一行を引いて、止まった。


 私はノートを閉じて両手を頬に当てた。


 処方書の最後の数字を書き終えた手はまだ熱を持っていた。私は窓辺に立ち月のない空を見上げた。雲の合間から星が二つだけ瞬いていた。あの星も新月の夜には消える。すべての光が遠ざかった暗闇の底でだけ本物の発酵が立ち上がる気がした。


 扉が静かに叩かれた。


 セレナが入ってきた。手には木のカップを二つ持っていた。湯気の立つ温かい香草茶だった。彼女はそのうちの一つを私の前の小卓に置いてから自分も窓辺に立った。


 私たちは長くなにも言わずに茶を飲んだ。


 湯気が二筋並んで窓硝子の表面で薄い結露を作った。私は指先でその結露をなぞり何度か小さな円を描いた。指の下の硝子は冷たかったが指先のすぐ向こうから茶の湯気が立ち上り温度を補ってくれていた。


 やがてセレナが小さく囁いた。


「凛子様、新月の夜が終わったあとに、もしも、凛子様が、元の世界に、帰ることができる、と分かったとしたら、凛子様は、帰られますか」


 私は答えに窮した。


 茶のカップの縁を撫でながら数秒の沈黙を置いた。彼女の問いは私のなかでずっと答えを待っていた問いだった。私はいつかその問いに向き合わねばならないと知っていた。だが今夜はまだその答えを口にする準備ができていなかった。


 代わりに私は静かに言った。


「セレナさん、私は、新月の夜の仕込みに、全てを集中させたいのです。その後のことは、その後で、答えさせてください」


 彼女は素直に頷いた。


 その頷きの中に小さな受け入れがあった。


 夜が深まる頃にようやく私たちは別れて自分の部屋に戻った。私はベッドに横たわり目を閉じた。明日からは最終調整の日々が始まる。眠りに落ちる直前あの飲料工場の制御盤の懐かしい数字が目蓋の裏に立ち上がってきた。

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