第十五章「零点三という記憶」
答えは目の前にあった。私たちはただ気づいていなかっただけだった。
神気制御室の内部はマハ翁の村の仕込み室の十倍の規模だった。三十基の白い石造りの巨大な桶が三列に並び、各桶の側面には小さな観察窓と温度を示す金属の指針が取り付けられていた。鉄の管は天井に走り、湯気が一定の間隔で立ち上っていた。床は乾いた石で清潔に保たれ、隅には簡素なろ過装置と煮沸装置が並んでいた。
私はその風景を、しばらく動けずに見つめていた。
ジンが私の隣で低く呟いた。
「倉科様、これは」
「これは、生きた仕込み室です。雑菌は徹底的に排除され、温度は管理され、桶の中の発酵は順調に進んでいます」
私は一基の桶の観察窓に近づいた。
窓の向こう、桶のなかの液体は、澄んだ淡い金色だった。表面には微かな泡が静かに立ち、ゆっくり消えていく。これは健全な発酵の証だった。
雑菌に汚染された王都中央神殿の桶とは、まったく違う風景だった。
私の頭の中で、ようやく、最後の歯車が嚙み合った。
ヌマト卿は、表向き効率神殿の教義として「歩留まりの悪い領域には神気を注がない」と説きながら、その地下では、本当の意味で歩留まりを上げるための、正しい仕込みを、密かに続けていた。
彼は、何を仕込んでいたのか。
誰のために、仕込んでいたのか。
私は最も近い桶の蓋を、ゆっくり手前に引いた。中の液体に鼻を近づけた。
澄んだ茶葉の青さ、後ろに微かな柑橘の温度、そしてその奥に、僅かな発酵的なニュアンス。
私の喉が、ひゅっと、鳴った。
それは、私の知っている香りだった。
KX-073の香りだった。
二年がかりで自分が組み上げ、沼田に「歩留まり零点三、屑」と切り捨てられた、あの試作品の香り。
いま、私の目の前で、別の世界の地下深くで、誰かが、その香りを再現していた。
私は崩れ落ちそうになり、手で桶の縁を掴んだ。
石の縁は冷たかった。
その冷たさに支えられて、私はようやく立ち続けた。
ジンが私の傍で、剣の柄から手を離した。
彼は私の様子から、ここがもう戦場ではないと察したようだった。
私は深く息を整えた。
桶の縁から手を離し、ゆっくり振り返った。
神気制御室の最奥に、もう一つの扉があった。
その扉のうえには、歯車ではなく、桶の意匠だけが、刻まれていた。
私はその扉に向かって歩いた。
扉は鍵がかかっていなかった。
私はそっと押し開けた。
内部は小さな部屋だった。
部屋の中央に古い木の机が一脚あった。机の上には、開かれた一冊のノートと、白いインクの瓶と、骨のような細い羽根ペンが置かれていた。
ノートは、表紙が黒い無地だった。
私の世界の文具とよく似た作りだった。
私はゆっくり机に近づき、開かれた頁を覗き込んだ。
頁には、痩せた長い字で、こう記されていた。
マハ翁、お師匠様。私は、神酒の仕込みを、続けております。地上の効率神殿では、人々に向けて、別の教義を説いております。しかし、地下のこの場所では、毎晩、お師匠様から教わった、本物の仕込みを、続けております。私は、私の手で、神酒の本物を、絶やすことだけは、しないでおります。
私の指が、頁の上で、止まった。
頁の余白には、小さな数字が書かれていた。
0.3
歩留まり、零点三、と読める数字だった。
ヌマト卿の地下の仕込みは、効率神殿の教義に反して、極めて歩留まりの低い方法で続けられていた。彼の地上の言葉と、彼の地下の手は、完全に矛盾していた。
私はノートを閉じた。
涙が、頬を伝っていた。
涙の理由は、私自身にも、もう分からなかった。
悲しみでも、怒りでも、安堵でもなかった。
ただ、ヌマト卿が、二十数年のあいだ、地上で説いてきた言葉と、地下で手を動かしてきた仕事のあいだに、引き裂かれて生きてきたという事実が、私の胸の底に、重く、しかし暖かく、落ちてきた。
彼は、効率という神の祭司を演じながら、心の奥では、本物の神酒の継承者であり続けていた。
彼を支配していたのは、効率の教義ではなかった。
彼を支配していたのは、十二歳のとき自分と家族を一度切り捨てた、あの飢饉の記憶だった。
効率を呪うことでしか、彼は、その記憶と、向き合えなかった。
その隣でしか、本物の神酒を、守れなかった。
私はノートを大切に抱え、部屋を出た。
神気制御室の中央に戻り、ジンとセレナとリーノを振り返った。
「私たちは、ヌマト卿を、敵にしません。私たちは、彼を、もう一度、マハ翁のもとに、戻します」
ジンの目が一度大きく見開かれた。
セレナが私の腕に手を添えた。
「凛子様、それは、つまり」
「効率神殿の上層部は、解体します。教義書は、書き直します。しかし、ヌマト卿、本当の名前で言えば、マハ翁の最後の弟子は、私たちは、王宮の保護下に置きます」
私はそう告げた。
神気制御室の天井から、湯気が一筋、立ち上っていた。
その湯気のなかに、マハ翁の村で見た夕焼けの色が、ふと、滲んで見えた、ような気がした。
私たちが神気制御室を出ようとしたとき廊下の奥から足音が一つ近づいてきた。
ヌマト卿だった。
彼は祭服ではなく簡素な麻の作業着を纏っていた。袖は捲られ手のひらには木の柄杓が一本握られていた。あの威厳のあった大神官の姿はそこにはなかった。代わりにそこに立っていたのは三十年以上同じ仕事を続けてきた一人の職人の姿だった。
彼は私たちの前で立ち止まりノートを手に抱えた私を見つめた。
長い長い沈黙のあとに彼はようやく口を開いた。
「お読みになられたのですね」
「お読みしました」
「お笑いになられても結構です。私は地上で言うことと地下で行うことが、ずっと、矛盾しておりました。私は、卑怯者でございます」
彼の声には決して怒りはなかった。代わりにそこにあるのは長い間自分の中の二つの真実のあいだで引き裂かれてきた人間の静かな疲労だった。
私はノートを胸に抱えたまま静かに答えた。
「ヌマト卿、貴方は卑怯者ではありません。貴方は、二つの真実を、両方とも抱えながら、自分の手で、神酒を絶やさないでこられた人です。お師匠様の遺志を、貴方は、誰よりも長く、守ってこられました」
ヌマト卿の眉が一度震えた。
「マハお師匠様は、お亡くなりになられたと、伺いました」
「はい」
「私は、お師匠様の村を、守れませんでした」
「守ろうとされた、と、私には、見えます」
ヌマト卿の手のなかで柄杓が小さく揺れた。
彼は柄杓を腰の帯に挿し、それから両手で顔を覆った。
骨ばった指のあいだから、私には見えない涙が、たぶん、長い時間をかけて、地下の石の床に、落ちていった。
私は彼の前にゆっくりとしゃがみ込んだ。
地下の石の床は冷たかった。私はノートを膝のうえに置き両手で彼の手の甲に自分の手を重ねた。彼の手は荒れていた。長年仕込みを続けてきた職人の手だった。あちこちに小さな火傷の痕があり爪のあいだには木屑が入り込んでいた。私はその手の感触をしばらく自分の手のひらに記憶した。
マハ翁の手によく似ていた。
弟子の手は師の手によく似てゆく。私はそのことを職業の道のなかで何度も見てきた。
しばらくのち私は静かに告げた。
「ヌマト卿、いえ、ヌマト様。これから三日後、私たちは効率神殿の地下のこの仕込み室で、最後の仕込みを行いたいのです。お力をお貸しください」
彼の手のあいだから一瞬目が見えた。
その目のなかに長く失われていた光が一筋戻ってきていた。
私はその光に向かって深く頭を下げた。
地下の冷たい石の床のうえで彼の手は少しずつ温かくなっていった。私はその温度を自分の手のひらで受け止めながら長く同じ姿勢を保ち続けた。誰もが何も言わなかった。誰もが何も言わない時間が必要だった。長い苦しみの末にようやく緩んでいく結び目を急いて引きちぎってはならないと私の業界の頭は知っていた。発酵もまた急いてはならない仕事だった。時間と温度と沈黙のなかでしか変わらない何かが世界には確かに存在していた。私は彼の手の甲の皺のうえに自分の親指を静かに添えながらその沈黙を共に守った。
しばらくして私は手を離し立ち上がった。
ヌマト卿もゆっくり立ち上がった。背筋は曲がっていたが瞳の奥には別人のような澄んだ光が宿っていた。
彼の作業着の袖口には小さな染みがいくつも残っていた。それは長年の仕込みの跡だった。私はその染みを職人の勲章のように見つめた。職人の手はいつも何かに染まっている。きれいに洗ったつもりでも肌の奥には作業の名残が刻まれている。私は自分の白衣の袖口にも同じ染みを抱えていた研究員の頃のことを思い出した。
ヌマト卿は深く頷いて私の前に立った。
彼の唇がやがて動いた。
お力添えをいたします。
その一言だけだった。
しかしその一言で十分だった。
その夜地下から地上に戻る階段を私たちは無言のまま並んで登った。私の手のなかには黒い無地のノートがあった。ヌマト卿の二十数年が記された薄い紙の束が私の胸の前で静かに呼吸を続けていた。地上に出るとちょうど夕焼けが王都の屋根のうえに広がっていた。茜色の空のなかにはあの神殿の崩れた屋根の向こうに沈んでいったマハ翁の最後の景色とよく似た色が滲んでいた。




