第十四章「完全なる空白」
翌朝目を覚ますと私の中には何もなかった。
マハ翁の埋葬の三日後、私は王宮の客間の寝台のうえで、自分が完全に空っぽになっていることに気づいた。怒りも、悲しみも、決意も、希望も、何もなかった。あるのは、ただ、シーツの上に投げ出された自分の手のひらと、その指先の、ぼんやりとした冷たさだけだった。
起き上がるのに、長い時間がかかった。
ようやく身体を起こし、寝台の縁に座った。鏡台の鏡に映る自分の顔は、青白く、目の下に薄い隈を作っていた。私はその顔をしばらく見つめた。これが、二十六歳の私の顔なのか、と、奇妙な距離で考えた。
マハ翁の死。
効率神殿との対峙。
ヌマト卿の沈黙。
リーノの解放は予定通り行われた。彼は王宮の医師の手当てを受けて、ようやく一日前に意識を取り戻した。セレナは付きっきりで看病していた。私の役目は、王命に基づいて、効率神殿への正式な調査を率いることだった。
しかし、私は、動けなかった。
動けない、というのは、身体の問題ではなかった。
私の中の、いちばん深いところにあった、何か燃えるものが、ふっと消えていた。
午前中、王宮の宰相が私の客間を訪ねてきた。私は寝衣のまま、扉のうえに掛けた絹のカーテンの隙間から、彼の声を聞いた。
「倉科殿、本日午後、効率神殿への王命による立ち入り調査が予定されております。御加減が、よろしければ、御参加を、お願いいたしたく」
私は答えなかった。
宰相は、しばらく待ってから、静かにそう告げて、立ち去った。
扉の向こうの足音が、廊下の遠くに消えていった。
私はそのままの姿勢で、長い時間、座っていた。
昼前、セレナが私の部屋に入ってきた。
彼女の手には、簡素な木の椀が一つ載っていた。中身は、私の知っている、薄い穀物のスープだった。マハ翁の隠居所で、最初の日に飲ませてくれた、あのスープと同じ味だった。
セレナは何も言わずに、椀を私の前の小卓に置いた。
それから、私の隣に、座った。
しばらくのち、彼女は静かに口を開いた。
「凛子様、私は、お祖父さまのような方を、亡くしました。私は、たぶん、今、凛子様よりも、ずっと、悲しいです。それなのに、こうやって、起きて、歩いて、椀を持って、ここに来ました」
彼女の声は震えていなかった。
むしろ、奇妙に落ち着いていた。
「私は、神官試験に、三度落ちました。私は、歩留まりの悪い、巫女です。だから、たぶん、強くないと、生きてこれませんでした。歩留まりが悪いということは、捨てきれないものを抱えているということだと、凛子様が、教えてくださいました。私は、抱えています。今夜も、明日も、明後日も、ずっと、抱えていきます」
私は、彼女の方に、ゆっくり、顔を向けた。
彼女の青みがかった灰色の瞳のなかに、新しい光があった。
あの日、井戸の縁から私を覗き込んでいたときの、ふわふわとした不安と憧れの光ではなかった。何か、もう一段、深い場所から、湧き上がってくる、確かな光だった。
「凛子様、起きてください。今日は、効率神殿の調査の日です。私は、お側におります。ジン様も、お側におられます。リーノも、もうすぐ、ベッドから降りられるそうです。私たちは、皆、凛子様の隣に、おります」
私は何も言えなかった。
代わりに、ゆっくり、椀を取り、唇に近づけた。
スープは、温かかった。
舌のうえで穀物の柔らかな粒が崩れた。塩気は控えめだったが体の芯まで温まった。三十日前に同じスープを初めて口にした日のことを思い出した。あのとき私は井戸から這い上がったばかりの寒さに震えていた。今は別の冷たさに震えていた。だがこの薄いスープは、両方の冷たさに対して、同じ温度で答えてくれていた。
私は椀を空にした。
空になった椀を膝のうえに置き、しばらく、握りしめていた。
やがて、私は、立ち上がった。
立ち上がりながら、自分の身体の中に、ほんの僅かに、火種のようなものが、戻ってきていることに、気づいた。それは大きな炎ではなかった。マッチを擦った直後の、頼りない揺らぎのような火だった。しかし、確かに、そこにあった。
セレナが、私の腕を、そっと支えた。
私は彼女の方を見た。
二人とも、何も言わなかった。
しかし、私たちのあいだに、何かが、確かに、伝わっていた。
私は鏡台の前に立ち、ゆっくり、髪を結い直した。
白衣の代わりに、王宮で支給された、青みがかった灰色の装束に袖を通した。襟元には、王宮の紋章ではなく、私が自分で刺繍した小さな桶の意匠が、目立たないように縫い付けられていた。
その装束を、私は、自分の戦闘服にした。
午後の鐘が遠くで鳴った。
私とセレナとジンとそしてベッドからようやく起き上がったリーノの四人は王命の書簡を抱えて王宮の南門を出た。同行する王宮騎士団は四十名。先頭の二騎の旗手が王家の紋章を高く掲げて行進した。私は馬車のなかで自分の膝のうえに両手を重ねていた。指先の冷たさはまだ残っていたが胸の奥にあのマッチの火が一本立っているのを感じていた。
効率神殿の正門の前で私は馬車を降りた。
白い大理石の柱は午後の光のなかで眩しく輝いていた。柱の頂の歯車の意匠もまた金色に光っていた。あれは確かに美しい光景だった。整いすぎているがゆえに美しい光景だった。私はその美しさの正体を知っていた。雑味も個性も削げ落とされた液体の美しさと同じだった。
効率神殿の上級神官たちが門の手前に並んでいた。彼らはわざと王命の調査団を出迎える形を取りつつ立ち入りを最小限に制限しようとする姿勢を見せていた。先頭の神官が私に向かって慇懃に礼をした。
「倉科様、本日のご来訪、まことに恐縮にございます。ヌマト卿は、本日は閉じこもりの儀式のさなかにあり、お話しすることはできかねます。我々上級神官団が、貴方様の調査にご協力させていただきます」
私は短く答えた。
「結構です。私たちは、神気制御室の内部を、確認します」
神官たちのあいだに動揺が走った。
彼らが恐れているのはそこだった。私もそれを知っていた。だからこそそこに向かう必要があった。
ジンが私の隣で剣の柄に手を置いた。
私は彼に頷きを返した。
調査団は門を越えて大広間に入った。砂時計と振り子の鐘がいつものように一定の周期で鳴っていた。私はその鐘の音を背中で聞きながら地下への階段に向かって歩き始めた。
その歩みのなかで私は自分の呼吸を整えた。
ゆっくり吸ってゆっくり吐いた。
効率という神に対峙するためにはこちらの呼吸を効率の対極に置いておく必要があった。
地下三階の鉄扉の前で私たちは立ち止まった。
扉は閉ざされていた。鍵束は前夜のうちに私たちが奪っていたものをジンが今も携えていた。先頭の上級神官たちが青ざめた顔で私たちを見つめていた。
私はジンに目で合図を送った。
ジンが鍵束を扉の錠に差し込み静かに回した。
重い金属の音とともに鉄扉が内側に開いた。
冷気が漏れ出てきた。
地下深くから水の流れる音が遠く微かに聞こえた。あれは伏流水の音だった。マハ翁の村の地下を流れていた水脈と同じ系統の水脈。私はその音を耳にした瞬間に確信した。私の業務知識はここでもう一度仕事をする番だ。
扉の奥へ私はゆっくり一歩を踏み出した。
冷たい風が私の頬を撫でていった。
空白だった私の中に最後のひと欠片の火種が静かに戻ってきていた。
扉の向こうは長い石の廊下だった。壁の松明が橙色に揺れていた。私たちはその橙色の光のなかへ歩み入った。靴の底が石を打つ音だけが私たちの呼吸の音に重なって細く響いていた。私は背筋を伸ばして前を見据えた。同行する騎士団の足音が後ろに続いた。地下深くから流れる水の音は次第に大きくなっていた。私の頭の中でその水音は職業の頭にとって何より好ましい音楽だった。仕込みの水。発酵の水。命を運ぶ水。私はその音に支えられながら廊下の奥へ向かっていった。
遠く奥のほうから低く響くポンプのような機械音が漏れ聞こえてきた。私はその規則正しい唸りに耳をすませながら歩を進めた。聞き慣れた音だった。攪拌槽を回す業務用のモーターによく似た音だった。あるはずのない音がここにあった。私は背中の冷たい予感に背筋を伸ばしながら廊下の角を曲がった。橙色の松明の光のなかにさらに別の鉄扉が現れた。鉄扉の表面にも歯車の意匠が刻まれていた。ジンが鍵束のなかから別の鍵を選び慎重に錠に差し込んだ。
扉の向こうから漏れ出した冷気には微かに酸味のある匂いが混じっていた。発酵の匂いだった。腐敗ではなく生きた発酵の匂いだった。私は息を呑んでその匂いを胸の奥まで吸い込んだ。私の業務知識のすべてがこの瞬間にその匂いを抱きしめた。
ジンの手のなかで鍵が回り重い金属音が廊下に響いた。鉄扉がゆっくり開き始めた。奥から流れてくる発酵の匂いは強くなり私の喉の奥まで湿った甘さを届けた。
扉の奥に広がっていたのはこれまで見た中でいちばん広大な仕込みの間だった。私は一歩を踏み出した。私の靴の底がひんやりとした石を打った。
頭上の高い天井を巨大な石のアーチが支えていた。空間の中央には十二基どころではない数の白い石造りの巨大な仕込み桶が三十基ほど整然と並んでいた。私は息を呑んだ。
桶の脇には鉄製の太い管が走り規則正しい間隔で湯気が立ち上っていた。私は思わずよろめいた。これは効率神殿の真の心臓部だった。ヌマト卿はここで何を仕込み続けてきたのか私はようやく見届けようとしていた。




