第十三章「囚われの巫女」
ヌマト卿は私たちが王都を留守にしている隙にセレナの従兄を捕らえていた。
マハ翁の村から王都に戻る街道のうえで私たちは一通の早馬の書簡を受け取った。書簡はジンの古い同僚の王宮騎士団員から届いていた。文面は短かった。効率神殿の図書館の警備に異変あり。下級書記官のリーノが拘束された模様。
リーノというのがセレナの従兄の名前だった。
書簡を読み終えた瞬間、セレナの顔から血の気が引いた。彼女は両手を口に当てて息を呑んだ。私は彼女の肩を抱き寄せた。彼女の身体は、薄い震えを刻んでいた。
「凛子様、リーノが、私を匿ったせいで」
「あなたのせいではありません。私を案内したのは、リーノさんの意思です」
私はそう言いながら、自分の指が外套の生地を強く握っているのに気づいた。
ヌマト卿は動き始めていた。
マハ翁の村への襲撃は、彼の意思表示の第一弾だった。リーノの拘束は第二弾だった。第三弾、第四弾が、今もどこかで進行している可能性が高かった。
王都に戻ったとき、夜はすでに深かった。
王宮の客間に戻る前に、私は王に直接拝謁を願い出た。老王は寝衣のまま私を迎えてくれた。彼の私室の暖炉の前で、私はマハ翁の村で起きたことと、リーノが拘束されている件を報告した。
老王の表情は次第に険しくなっていった。
「ヌマトは、王命を待たずに、私兵団を動かしたか」
彼の声には、初めて、明確な怒りが混じっていた。
「陛下、効率神殿の活動は、すでに、王国の統制の外に出ております」
「倉科よ、汝は、何を求める」
私は深く頭を下げてから、顔を上げた。
「リーノの解放と、効率神殿への王命による立ち入り調査を、お願い申し上げます」
老王は長く考えた。
暖炉の炎が、彼の白い顎髭の影を、壁のうえに揺らした。
やがて、彼は重く頷いた。
「明朝、汝に、王命の書簡を発する。汝は、わが王権の代理として、効率神殿に立ち入り、ヌマトを尋問せよ」
私は深く礼をした。
しかし、その夜、寝台に横たわった私のもとに、もう一つの伝令が届いた。
深夜の二時、王宮の門番が、ある報告を上げてきた。効率神殿から、夜間、複数の馬車が出発したという。馬車の積荷は不明だが、車輪の轍の深さから、相当の重量を運んでいる様子だったという。
私は寝台から飛び起きた。
ジンとセレナを起こし、急ぎ着替えた。
その夜のうちに、効率神殿に向かうことにした。
効率神殿の門前に着いたとき、月は雲に隠れていた。
石畳の冷気が靴の底から伝わった。私は王命の書簡をまだ持っていなかった。明朝発布される予定の書簡だった。しかし王命を待っていたら、リーノは別の場所に移送されるかもしれなかった。
ジンが私の隣で剣の柄に手を置いた。
「倉科様、ここから先は、私の判断で動きます。お命のお守りを、最優先にいたしますので、何かあれば、私の背後にお下がりください」
私は頷いた。
効率神殿の門は閉ざされていた。しかし通用門の方は、書簡の本物の確認のために、夜間も書記官が一名常駐しているはずだった。私たちは通用門に回り、ジンが門番の書記官に短く何かを告げた。書記官は青ざめた表情で頷き、ゆっくり門を開けた。
私たちは効率神殿の内部に入った。
大広間は無人だった。
砂時計と振り子の混合機構が、相変わらず一定の周期で鐘を鳴らしていた。深夜の静寂のなかで、その鐘の音は、奇妙に冷たく響いた。
ジンが手で合図を出した。私たちは大広間の脇の階段ではなく、地下への階段を選んだ。図書館の側ではなく、神気制御室の方向だった。
地下三階の鉄扉の前に、二人の見張りが立っていた。
ジンは音もなく走り、二人を、一人ずつ、剣の柄頭で気絶させた。彼の動きは、私の知るどんな格闘とも違う、流れるような無駄のなさだった。剣を抜かずに、人を、痛みを最小化して制圧する技術だった。
鉄扉のうえの紋章を、私はもう一度見上げた。
歯車、天秤、鎖、そして、桶。
ジンが見張りの腰から鍵束を奪い、鉄扉を開けた。
なかは、長い廊下だった。
廊下の両側に、複数の鉄格子の部屋が並んでいた。
いちばん奥の部屋に、リーノが座り込んでいた。
彼の眼鏡は割れ、左の頬には大きな腫れがあった。墨で汚れていた指は、いまは血の染みもついていた。
彼は私たちを見ると、震える指で鉄格子の縁を握った。
「凛子様、お逃げ、ください。ここから、先は」
彼の声は枯れていた。
しかし、彼の言葉を遮るように、廊下の奥から、もう一つの声が響いた。
ヌマト卿の声だった。
「ようこそ、倉科凛子様。お待ちしておりました」
彼は、廊下の最奥に、一人で立っていた。
彼の手には、白い陶器の杯が一つあった。
杯のなかの液体は、神酒だった。
私はその場で立ち止まった。
ジンが私の前に出た。彼の手が剣の柄を握り抜剣の構えを取った。しかしヌマト卿は両手を広げて見せた。彼の右手の杯のなかで琥珀色の液体が静かに揺れた。
「武器を抜くには及びません。私はここでお話だけをいたしたいのです」
彼の声は穏やかだった。
あの謁見の間で私を睨んでいた刃物のような視線は今夜彼の目から消えていた。代わりにそこにあるのは深い疲労と諦観の色だった。私はその色をどこかで見たことがあると思いそれが大学院時代の自分の指導教官が定年前の最後の半年に見せていた色と同じだと気づいた。長年の信念がほつれ始めた人の目だった。
「セレナさん下がっていてください」
私はセレナに小声で告げた。
彼女は素直に従い廊下の入り口まで戻った。私はジンを伴ってヌマト卿の前に進み出た。
「ヌマト卿、まず一つだけ確認させてください」
「はい」
「マハ翁の村への襲撃は、貴方の指示ですか」
ヌマト卿は数秒だけ目を伏せた。
「指示ではございません。私の名前を借りた、効率神殿の上層部の判断でございます。しかし、止めなかったのは、私でございます」
彼は静かに答えた。
私はその言葉のなかに含まれる微妙な距離感を聞き取った。彼自身は襲撃を直接命じてはいない。しかし止めなかった。組織の論理が暴走するのを彼は黙認した。あるいは黙認せざるを得なかった。
「マハ翁は、亡くなりました」
私はそれだけを告げた。
ヌマト卿の手の中で、白い陶器の杯が、一瞬、震えた。
琥珀色の液体の表面に、小さな波紋が立った。
彼は長く沈黙した。
それから、ようやく、低い声で呟いた。
「そうですか」
二文字だけだった。
しかしその二文字のなかには、何重もの感情が押し込められていた。私はその二文字の重さを、私自身が沼田の前で何度も飲み込んできた言葉の重さと、重ね合わせた。
しばらくのち私は静かに口を開いた。
「ヌマト卿、マハ翁が、最期に、貴方に伝えてくれと、私に頼みました」
彼の顔がはじかれたように上がった。
その表情の中に何かが一瞬走った。長く凍り付いていた湖の表面に細かなひびが入った瞬間のような表情だった。
「お前が子供の頃にいちばん最初に自分の手で仕込んだあの桶のことをわしは今もまだ覚えておると。あれはよい桶じゃったと。歩留まりは悪かったがお前が初めて自分の心を注いだ桶じゃったと」
私はマハ翁の言葉をできる限り正確に伝えた。
ヌマト卿の手のなかで杯が傾き琥珀色の液体が一滴床に落ちた。
しずく、と小さな音が長い廊下のなかに響いた。
彼は俯いた。
長い長い沈黙の後で彼は声を絞り出した。
「お引き取りください、倉科様。今夜は、もう、お話できることは、ございません。リーノは、明朝、王命があれば、解放いたします」
彼はそう告げてから踵を返し廊下の奥の扉の中に消えていった。
私はその場に立ち尽くしていた。




