第十二章「工房の炎」
マハ翁の村が燃えていると伝令が告げた朝、私は寝台のうえで両手を握り締めたまま十秒のあいだ動けなかった。
効率神殿の図書館から戻って五日後の早朝、王宮の私の客間に北部からの早馬が到着した。馬の鼻先には冷たい朝靄が白く立っていた。伝令の若者の顔は煤と泥に汚れていた。彼の声は枯れていた。
「マハ翁の村が、未明、効率神殿の私兵団に襲撃されました。工房は炎上、桶はすべて打ち砕かれ、マハ翁様は深手を負っておられます。ご出立は、お早めに」
伝令は告げ終わると倒れ込むようにその場に膝をついた。
彼の口元から、血の混じった唾液が一筋、石の床に落ちた。
私は寝台から飛び降り素足のまま外套を掴んだ。セレナが廊下から駆けつけた。彼女の頬はすでに涙で濡れていた。誰かが先に伝令の話を彼女に伝えたのだろう。ジンは扉のそばで剣の柄に手を置いていた。
「凛子様、お支度を」
ジンの声は低く揺るぎなかった。
私たちは三十分のうちに王命の馬車と護衛の騎兵団を整え、北部街道を疾駆した。馬車の車輪が泥濘を撥ね上げた。窓の外を流れる風景は朝の薄明から正午の青空、夕暮れの茜、夜の闇、と忙しく姿を変えていった。私はその間ずっとトートバッグの底のガラス瓶を握りしめていた。残り三分の二。私の手のなかで、その瓶だけが、不思議に熱を持っていた。
翌日の夕方、私たちはマハ翁の村に到着した。
村は煙に包まれていた。
神殿の屋根は半分が崩れ落ち、地下に向かって黒い炎の舌が立ち上っていた。広場の石畳には大型の馬車の轍が幾本も走り、戦闘の痕跡が残っていた。数体の村人の遺体が、白い布をかけられて広場の隅に並んでいた。
マハ翁の隠居所は焼け落ちていなかった。
ただ正面の戸が斜めに外れ、内側から赤く弱い光が漏れていた。
私は馬車を降りるなり走った。隠居所の戸を肩で押し開けた。室内の煙と血の匂いが顔に当たった。床の藁布団のうえに、マハ翁が横たわっていた。
彼の胸元には深い刺し傷があった。
血は止まらず、布団の藁を、黒く染め広げていた。
私は膝をつき、彼の手を握った。
彼の指は冷たく、それでも私の指を握り返してきた。
「お嬢さん……」
マハ翁は声を絞り出した。
「桶は……桶は……割られてしまった……だが……」
彼の喉が震えた。
「桶の底に、残っている。お嬢さん、覚えておいてくだされ。桶の底に、残っているのです。一番大事なものは、いつも、底に、残っているのです」
私は彼の手を握る指に、力を込めた。
「マハ翁、しゃべらないでください。傷を、まず」
「無理じゃ、お嬢さん。わしの寿命は、もう、ここまでじゃ」
彼は微笑んだ。
その微笑みは、初めて会った日に、井戸の縁から私を見下ろしていた、あの微笑みと同じだった。
「お嬢さん、頼みがござる」
「はい」
「ヌマトに、伝えてくだされ。お前が、子供の頃に、いちばん最初に、自分の手で仕込んだ、あの桶のことを、わしは、今もまだ、覚えておる、と」
マハ翁の声は、もはや囁きだった。
「あれは、よい桶じゃった、と。歩留まりは、悪かったが……お前が、初めて、自分の心を、注いだ、桶じゃった、と」
彼の指が、私の手のなかで、ふっと、力を抜いた。
窓の外で、夕陽が、神殿の崩れた屋根の向こうに、沈んでいくところだった。
私はマハ翁の手をしばらく握っていた。
彼の指は、まだ温かかった。それから、ゆっくり、冷たくなっていった。
セレナが私の背後で、声を殺して泣いていた。彼女の嗚咽は、布で口を覆って堪えられていた。彼女もまた、自分の祖父のように慕ってきた人を、ここで失っていた。
ジンが扉のそばに立って、長く頭を垂れた。
私はマハ翁の顔を見つめながら、自分の頬を伝う涙を、拭わなかった。涙は、私の顎の先から、藁布団のうえに、ぽつ、ぽつ、と落ちた。
しばらくのち、私は立ち上がり、外に出た。
神殿の地下に向かう階段の入り口は、すでに崩れていた。瓦礫の隙間から、まだ細い煙が立ち上っていた。十二基の桶は、おそらく、すべて、内部で粉々になっているはずだった。
ふと、視界の端で何かが動いた。
広場の隅、白い布のかかった遺体の列の向こう、瓦礫の山の上に、小さな影が立っていた。
効率神殿の私兵団の兵士の一人だった。撤退の遅れた者だろうか。彼は私たちを見つけると、慌てて剣を抜こうとした。
ジンが私の前に立った。
彼は剣を抜かなかった。
代わりに、ただ、低く、声をかけた。
「もう、終わった。手を下ろせ」
兵士は数秒、剣の柄を握ったまま固まった。
それから、剣を地面に落とした。
彼は瓦礫の上にしゃがみ込み、両手で顔を覆った。
その姿を見ながら、私は、彼もまた、効率という神に飲み込まれた一人の人間なのだと、ぼんやりと理解した。
その夜、私たちは村の唯一無事だった納屋に身を寄せた。
残った村人は二十人ほどだった。みな煤に汚れ服は破け涙の跡が頬に乾いていた。私たちは納屋の奥に火を起こし湯を沸かした。生き延びた老婆が震える手で麦の粥を作ってくれた。私はその粥を一杯口に運び体の芯まで温まったあとに村人たちの前に立った。
松明の橙色の光に照らされた村人たちの顔は皆こちらを見つめていた。
私は深く息を吸い込んでから静かに口を開いた。
「皆さん、マハ翁は亡くなりました。神殿の桶は破壊されました。しかし神酒の知識は失われていません。知識は私のなかにあります。そしてここにおられるセレナさんのなかにもあります。それからおそらく皆さんお一人お一人のなかにも、長い年月のあいだに少しずつ伝わってきた断片が残っているはずです」
村人たちの目に薄く光が戻った。
誰かが小さく頷いた。それを見たもう一人が頷いた。納屋の奥で女性の啜り泣きが小さく続いていた。
私は続けた。
「私はここから王都に戻ります。ヌマト卿に正面から向き合います。そして効率神殿を内側から変えます。そのために今夜、皆さんに一つだけお願いがあります」
ジンが私の傍らで耳をそばだてた。
「神殿の地下の桶は破壊されました。しかしマハ翁が亡くなる直前に私に告げてくださいました。一番大事なものは桶の底に残っていると。明日の朝、皆さんで地下の瓦礫の中から、桶の底に残っている古い木片を、できるだけ集めてください」
老婆が震える指で頷いた。
その夜、私は納屋の片隅で、藁の積まれた壁にもたれて短い眠りに就いた。
眠りの中で私はもう一度井戸の底にいた。
雨が私の頬を打っていた。私は手を伸ばして頭上の井戸の口を見上げた。あの日と同じ円形の灰色の空が見えた。しかし今度は誰も上から私を覗き込んではいなかった。私は一人だった。
夢のなかで私はゆっくりと立ち上がり、井戸の縁に向かって、自分の足で登り始めた。
縄はなかった。
しかし私は石の隙間に指を掛けて、一段ずつ、登っていった。
夢から覚めると納屋の隙間から薄い朝の光が差し込んでいた。
私は身を起こしトートバッグの底からあの茶色いガラス瓶を取り出した。残量はまだ三分の二をわずかに超えていた。私は瓶の表面に頬をつけ瓶の冷たい温度を確かめた。瓶のなかの琥珀色の液体は朝の光の下でも変わらず澄んでいた。私の手のひらのなかでその冷たさが小さな決意のように静かに脈打っていた。
外で誰かが立ち上がる音がした。
ジンが私のもとへ近づき静かに頭を垂れた。
「倉科様、地下の瓦礫の整理が始まりました。村人たちは皆動いておられます」
私は瓶をバッグに戻し納屋の戸を押し開けた。
朝の冷たい空気が頬を撫でた。
遠くで朝の鳥が一羽鳴いていた。村の上の空はもう少しずつ青く澄み始めていた。私はその空を見上げてから瓦礫の山に向かって歩き始めた。
風が一度長く吹き抜けた。私は背筋を伸ばして瓦礫のうえに立った。




