第十一章「効率という神」
効率神殿の柱には世界中の地図が彫られていた。地図の四分の一がすでに赤く塗り潰されていた。
翌日の夜、私とセレナとジンの三人は黒い外套を身に纏い効率神殿の裏の通用門に立った。セレナの従兄である若い書記官が小さなランプを掲げて私たちを迎え入れた。彼の指は墨で汚れ眼鏡には小さなひびが入っていた。
「夜の閲覧室は普段は閉鎖されておりますが本日は私が当直でございます。長くはお時間を取れません。一刻の半分程度をめどに、お引き上げください」
私は短く頷いて従兄の後ろに続いた。
長い廊下を歩き図書館の扉の前に立った。扉のうえには大きく歯車と天秤の紋章が掘り込まれていた。従兄が鍵を回すと重い音とともに扉が開いた。
なかは三層の螺旋状の書架で構成された円形の空間だった。
天井は高く中央には大きな天窓があり夜空の星が見えていた。書架にはびっしりと革表紙の蔵書が並んでいた。私はランプの光に照らされた最も近い書架の背表紙を順に眺めた。
効率の経典。歩留まりの真理。神気の数理。淘汰の論理。
私の業界の用語と宗教の教義の用語が並んで配架されていた。
私は一冊を抜き出して机に開いた。
効率神殿の基本教義書だった。
ヌマト卿が編纂したものだと著者欄に記されていた。
頁をめくると最初の章にはこう書かれていた。
神々の力には限りがある。神々が世界に注ぐ神気もまた有限である。有限の資源を最大の効率で活用するためには無駄な領域に神気を注ぐことを慎まなければならない。痩せた土地と痩せた民は神気の歩留まりを下げる。歩留まりを下げる者たちは神々の意志に背く者たちである。
文章は冷たく整っていた。
私はその文章の構造を読みながら自分の業界の品質規格書と寸分違わぬ書きぶりに気づいた。書き手は科学的合理性の作法を熟知していた。書き手は自分の信念を客観的事実のように見せる技術に長けていた。
頁の余白に手書きの注釈が走っていた。
あの痩せた長い字。沼田の癖字によく似た字。
私はその注釈をひとつずつ追った。「再検証要」「数値要修正」「実証実験計画は別冊」。沼田が書類のうえに書き込む決済印の周辺のメモと同じ語彙だった。
ジンが私の背後で囁いた。
「奥に閣下の私的書庫があるそうです。書記官殿、奥は入れますか」
従兄は青ざめた表情で首を振った。
「私的書庫は閣下と限られた数名にしか入れません。鍵も別管理です。私の権限ではどうにもなりません」
「了解しました」
ジンは静かに頷いた。
私は教義書をもう少し奥まで読み進めた。第三章の終わりに、ヌマト卿自身の経歴が短く記されていた。北方の小村の出身。幼い頃に飢饉と疫病で家族を全員失い、十二歳で王都に流れ着いた。神殿に拾われ書記官となったが、ある時期、神酒の継承者の弟子としても修行していたという記述があった。
その「ある時期」の脚注に小さく書かれていた地名を見て、私の指が止まった。
マハ翁の村の名前だった。
ヌマト卿は確かにマハ翁の弟子だったのだ。
しかし、ある日突然、弟子の道を捨て、王都に戻り、別の名前で別の道を歩み始めた。理由は教義書には記されていなかった。
私は教義書を閉じて元の場所に戻した。
書架のあいだを歩きながら別の角度から効率神殿の真の姿を確認しようとした。
奥の壁に大きな運営計画書が掲示されていた。
計画書は五年計画として作成されており、地図のうえの「自然淘汰されるべき領域」に対して、向こう五年で意図的に神気の供給を絞り、最終的にすべての赤い領域を「無人化」する目標が記されていた。手段は明示されていなかったが、文脈から読み取れた。神酒の供給停止と、それに伴う住民の自然死、というのが、彼らの計画だった。
私は計画書を凝視した。
胸の奥で何かが冷たく固まっていく感覚があった。怒り、ではなかった。怒りより、もう少し奥にある、職業人としての自分の核が、強く拳を握っていく感覚だった。
ジンが私の隣に立った。
「倉科様、お見せしたいものがもうひとつあります。書記官殿、神気制御室の入り口だけ、外側から、見せていただけますか」
従兄は数秒躊躇ったが頷いた。
私たちは図書館を出て地下への階段を降りた。
地下三階の鉄扉の前で従兄は立ち止まった。
「ここから先には入れません。神気制御室はヌマト卿の真の聖域です。閣下が日々この扉の奥に籠もり、神気の歩留まりを操作しておられると言われています」
私は鉄扉のうえに掘られた紋章を見上げた。
歯車、天秤、鎖、そしてその中央に、小さな桶の意匠があった。
桶。
神酒の桶。
ヌマト卿は神酒の桶を彼の信仰の中心に置いていた。
彼はマハ翁の弟子だった頃、何かを愛していたのだ。
今もまだ、その何かを、彼は心の奥に抱えている。
私はゆっくり鉄扉から離れて、来た道を戻った。
従兄に深い感謝を伝え、効率神殿の通用門を出た。
外に出ると私は深く息を吸い込んだ。
夜の冷たい空気が鼻の奥を洗った。私の頭の中ではすでに次の手が組み立て始まっていた。神気制御室の地下にはおそらく王都の伏流水脈が通っている。マハ翁の村の神殿の地下に流れていたあの伏流水と同じ系統の水脈であるはずだった。山岳地帯から地下を伝って王都まで届く水の流れ。効率神殿はその水脈のうえに、わざわざ自分たちの聖域を築いていた。
ヌマト卿は神気の源泉を独占したのだ。
そして自分の手のなかで神気の歩留まりを操作し続けていた。
帰り道、私たちは無言で並んで歩いた。
石畳の隙間に薄く靄が立っていた。私は外套の襟を引き寄せながらジンの隣に並んで歩いた。彼の歩幅はゆっくりで私の歩調に合わせてくれていた。セレナは少し後ろを歩きながら時折私たちの背中を確かめていた。
王宮の客間に戻ったとき夜はすでに深く更けていた。
私はランプの下でノートを開き、今夜見たことをすべて書き留めた。書き終えた頁を撫でながら、私はいつのまにか涙を流していた。怒りでも悲しみでもなかった。職業人としての自分が、ようやくこの世界での仕事の輪郭を掴んだ、その手応えに伴う、奇妙な涙だった。
セレナが横に座って黙って私の肩に頭を寄せた。
ジンは扉のそばに立って静かに私たちを守っていた。
窓の外で夜風が音もなく流れていた。
私はノートの最後にこう書き加えた。
効率という神は、たぶん、過去の傷を抱いた人間の手のなかで、肥大化した。
彼を倒すには、彼の傷の根に、もう一度、触れる必要がある。
ペンを置いた私は、ランプの灯火を細めた。
炎の縁が橙色に揺れて、書きつけたばかりのインクが、まだ乾ききらない光沢を放っていた。私はその光を見ながら、自分のなかで明日からの動きを組み立てていた。マハ翁にもう一度会わなければならなかった。彼の口から、ヌマト卿の若き日の話を、もう少し詳しく聞き出す必要があった。そのうえで、ヌマト卿の傷の根に触れる方法を、自分なりに編み出さねばならなかった。
灯火を吹き消すと部屋は青い夜の色に沈んだ。
窓の外の遠くで効率神殿の白い建物が月光のなかに薄く光っていた。あの建物のどこかで、ヌマト卿もまた、今夜眠れずに机に向かっているのかもしれない、と私はふと思った。
私はその想像を抱えたまま長く目を閉じた。眠りはなかなか訪れなかった。




