第十章「ヌマトの影」
玉座の間に入った瞬間、私は息ができなくなった。
効率神殿との会食から三日後の朝、王宮から再び召喚状が届いた。今度は正式な政務評議への出席要請だった。王と十二名の重臣に対して、私の活動の進捗を報告し、今後の方針を提示する場だという。
私は最も整った装束に身を改め、セレナとジンを伴って、王宮の謁見の間に向かった。
玉座の間の扉が開いた。
最初に視界に入ったのは、玉座の左に立つ宰相と、右に立つ法務長。それから玉座の階段の下、中央の通路に立つ十一名の高位聖職者と高位武官。そして玉座のすぐ右側、いちばん近い位置に、ヌマト卿が立っていた。
彼は王の主任顧問という役職を、ここ三月のあいだに獲得していたのだった。
私は通路を進み、玉座の正面で深く礼をした。
「倉科凛子、本日、王命に応じ、参じてございます」
老王は微笑んだ。
「倉科よ、汝の働きにより、王都の民は、命を取り戻した。本日は、汝の今後の方針を、皆の前で、述べてもらいたい」
私は顔を上げて、玉座の左右と中央通路の全員を順に見渡した。
淡々と、しかし明確に、私は計画を述べた。第一段階として、王都内のすべての神殿の調理場を煮沸消毒し、雑菌を取り除く。第二段階として、王国全土の主要な神殿に技術指導員を派遣し、同じ手順を展開する。第三段階として、北部山脈と東部山脈、南部砂漠縁の各地域の小さな神殿に対しても、王国予算で技術支援を行う。神気の歩留まりは、神殿の清浄化と正しい菌の管理によって、確実に回復する。
話し終わると、玉座の間は数秒、静まり返った。
その静寂を破ったのは、ヌマト卿の声だった。
「陛下、お言葉を賜りますれば、倉科様のご計画について、効率神殿として、重大な懸念を表明させていただきたく」
彼は一歩前に進み出た。
全員の視線が彼に集まった。
「倉科様の方法は、確かに、短期的には、王都の民の症状を緩和いたしました。しかしながら、王国全土への展開を考えた場合、その方法は、過剰に丁寧であり、過剰に時間を消費し、過剰に資源を浪費するものでございます。北部、東部、南部の山岳・砂漠地帯の小さな村々まで、技術指導員を派遣することは、王国予算の重大な濫費にあたります」
彼は王に深く一礼した。
「それらの地域は、効率神殿の調査によりますと、すでに、神気の歩留まりが、回復不可能な水準まで、低下しております。そのような地域に資源を投入することは、王国全体の歩留まりを、さらに下げる行為に他なりません。効率神殿としては、それらの地域は、神々のご意志に従い、自然に淘汰されるべき領域である、と申し上げざるを得ません」
自然淘汰、という単語が、彼の口から流れた。
私の腹の底で、何かが冷たく動いた。
「ヌマト卿」
私は彼の方に向き直った。
「私の出身地の村もまた、北部山脈の縁に位置しております。マハ翁という方が、最後の神酒の継承者として、今もそこで桶を守っております。あの村もまた、効率神殿の地図のうえでは、自然淘汰されるべき領域に分類されているのですか」
ヌマト卿は私の目を見据えた。
その視線は、刃物のように薄かった。
「ええ、その通りでございます。倉科様」
彼は一切の言い淀みもなく頷いた。
私の指先が、装束の袖の中で、爪を立てた。
その瞬間、私の口から出ようとした言葉を、しかし私は飲み込んだ。怒鳴ることは簡単だった。だが怒鳴った瞬間、私はこの場の信用を失う。私はそれを業界の会議で何度も経験してきた。
代わりに、私は深く呼吸を整え、ヌマト卿に短く尋ねた。
「ヌマト卿、貴方は、ご自身が、子供の頃に、暮らしていた村のことを、覚えておられますか」
彼の眉が一度、ぴくりと動いた。
数秒の間。
その数秒は、彼の中で長かった、ように私には見えた。
「倉科様、私の経歴は、本件と、関係ございません」
「いえ、関係あります。歩留まりという言葉を、最も鋭く意識する人は、ご自身が、かつて、歩留まりが悪いと言われて、切り捨てられた経験を持つ人です。私は、それを、自分の経験から、知っております」
玉座の間に、もう一度沈黙が降りた。
ヌマト卿の表情から、初めて、薄い色がよぎった。
怒り、ではなかった。
もっと別の、深い疲労のような色だった。
しかしそれは一瞬で消え、彼は再び穏やかな笑みを取り戻した。
「倉科様、本日のご報告、まことに、興味深く拝聴いたしました。陛下、本件は、追って、書面にて、効率神殿としての正式な見解を、提出させていただきます」
彼は深く礼をして、玉座の間を退出した。
退出する彼の祭服の裾が、白と黒の市松模様の床のうえを、長く撫でていった。
私は王の方を振り返った。
老王は瞳を細めて、長くため息をついた。
「倉科よ、難しい局面に入ったな」
「はい、陛下」
「だが、汝の方針を、わしは、信ずる」
王はそう告げてから、宰相に何ごとかを耳打ちした。
その日の夜、王宮の客間で、私は窓辺に立ち、ヌマト卿の表情を反芻していた。あの薄い疲労の色。あれは、彼の中の、本当の中心に近い場所から、漏れ出した何かだった。
私はトートバッグの底から、もう一冊の小さな手帳を取り出した。
マハ翁の村を出る朝、彼が私に持たせてくれた、古い手帳だった。
神殿に伝わる過去の継承者の名簿が記されていた。マハ翁は私に、王都には、もう神酒の作り手は誰もいないと言っていた。だが彼は、別れ際にこう付け加えていた。
「お嬢さん、王都には、ひとり、わしの古い知り合いがおります。今は名前を変えて、別の道を歩んでおられるはずです。もしも何かに行き詰まったら、彼を訪ねてみるのも、よろしいかもしれませぬ」
手帳の最後の頁に、その人物の若い頃の名前が記されていた。
ヌマト、と書かれていた。
私はその一行を撫でた。
古いインクは指の下でかすかな粉を立てた。記された筆跡には若さがあり野心があり同時に何かを愛する真摯さがあった。あの男はかつてマハ翁の弟子だったのだ。マハ翁の村で神酒の道を学んでいた青年だったのだ。
窓の外に夜の王都が広がっていた。
遠くの丘に効率神殿の白い建物が浮かんでいた。建物の窓のいくつかにまだ灯が点っていた。あの灯の下でヌマト卿は今夜も歯車のような秩序を回しているのだろう。彼は自分のかつての名前を捨て自分のかつての師を捨て自分のかつての信仰を反転させてきた。何が彼にそれをさせたのか私はまだ知らない。だが知らなければ彼を本当に止めることはできない。
私は手帳を閉じてバッグの奥に戻した。
ベッドに横たわると天井の梁が古い藁葺きのそれと違って磨かれた木で出来ていた。私は瞼を閉じた。
眠りに落ちる直前マハ翁の言葉が再び耳の奥に蘇った。
お嬢さん神々のお応えは時に最も意外な姿で訪れるものでござる。
私の異世界での仕事はようやく本当の意味で始まろうとしていた。
深夜近く小さな足音が私の部屋の扉の前で止まった。
扉の隙間から白い紙片が滑り込んできた。私は寝台から起き上がり紙片を拾った。インクの匂いがまだ残っていた。書きつけは短かった。
明日の夜効率神殿の下級書記官として勤める従兄が裏の通用門で待っているとセレナの字で記されていた。
私は紙片を握り潰さずに丁寧に折りたたんだ。
夜が深く更けていく王都の屋根のうえで星々がしんと冷たく光っていた。
風が一度強く吹き窓硝子が小さく鳴った。私はその音を聞きながらまたゆっくり眠りへと落ちていった。明日は効率神殿の図書館に潜入する夜だった。
遠くの寺の鐘が二度鳴った。
誰のためでもない静かな音だった。
その鐘の余韻のなかに私の知らない祈りの言葉が遠く混じっているような気がした。誰かが王都のどこかで誰かのために祈り続けている気配があった。私はその気配に身を預けて再び眠った。夢の中で私は遠い飲料工場の制御盤の前に立っていた。並ぶ計器のひとつひとつが懐かしい数字を示していた。私は自分の手のひらをその計器のうえに重ねた。指先に冷たい金属の感触が走った。




