幕魔5 リシェル・アルスリーア
フィオネの部屋を出て行ったナセドは、廊下で軽くため息をついた。
(とりあえず、母上の許可は取れた。しかし、リリアーナにはバレてしまったな。少し誤魔化してはみたものの、あいつのことだ。多分、『私も参加するわ』と母上に言っているのだろう。だが、大した問題ではない。この俺が守るからな。レレナを……。さて、行こう。父上の元へ)
そう決意を固めたナセドは真っ直ぐ廊下を歩き、リシェルのいる三階の部屋へ続く階段を上がって行った。
王城の階段は折り返し式になっており、踊り場にある四角い窓から差し込む光が、通る者を照らし出している。ナセドは階段を上がりきると、すぐ右へと続く廊下を真っ直ぐ進んでいった。
二階と同じ構造の廊下を進み、いくつかの部屋を通り過ぎ、突き当たりの正面にある茶色の扉へとたどり着いた。
「ふぅー」と扉の前で小さく息を吐くナセド。よし、と心の中で息を整えて、トントンと扉を叩いた。
「誰だ?」
部屋の中から、威厳のある男性の声が聞こえてきた。
「私です……、父上」
「ナセドか?」
「はい」
正面の扉の前に立つナセドが静かに応えると、部屋の中からは「入れ……」とまるで相手を威圧するような声が響いた。
「分かりました、父上」と短く返し、ナセドはカチャリと扉を開けた。
扉を開けると、そこは王城の執務室らしく、左右の壁際には本棚がずらりと並んでいた。部屋の中央には応接用のテーブルと向かい合わせの椅子が置かれ、さらにその奥に据えられた豪華な机には、金髪の男性が腰を下ろしていた。この国の王族を象徴するかのような青い瞳を持つ人物。
机の横に置かれた球体型の魔道具と、背後の窓から差し込む光が、彼の姿を照らし出している。
彼は青と白を基調とした豪奢な装束を身に纏っており、その胸元には金色の刺繍があしらわれている。袖口から青い布地が覗き、肩からは威厳を感じさせるような純白の外套が、床に届くほどゆったりと垂れ下がっていた。
そう、彼こそがこの国、アルスリーア王国の国王、リシェル・アルスリーアである。
「とりあえず、そこに座れ」
「はい、父上」
リシェルに促されたナセドは、表情を変えずに前へと進み、応接用のテーブルの椅子へと静かに座った。
すると、リシェルも奥の執務机から立ち上がり、ゆっくりとした足取りでナセドがいるテーブルへと近づいてくる。そして彼は「よいしょ」 と小さく呟きながら、ナセドの向かいの椅子に腰を下ろした。
「それで、何の用だ?」
厳格な表情を浮かべて、鋭い視線を向けるリシェルに対し、ナセドは父の目を真っ直ぐに見据え、真剣な表情のまま口を開いた。
「率直に申し上げますが……」
ナセドの言葉を遮るように、リシェルが左手を軽く上げて、掌を向けて「待て」と制止した。
「ん?」
いきなり言葉を止められたナセドが困惑した表情を浮かべると、リシェルは左手を下ろし、テーブルに置いて軽く一つため息をついた。
「お前、最近、妃候補であるレーナやその他の令嬢たちの相手をリリアーナにさせているそうじゃないか」
「はい、そうですが……?」
「お前もわかっていると思うが、この国の慣例では、二十歳になったら婚約者を決めなくてはならない。なのに何故だ?何故彼女たちの相手をしない?」
青い瞳で睨みつけるようにリシェルがナセドに問い詰めると、彼は目を伏せて、こう答えた。
「私は彼女たちの誰にも心が動きません。というより、媚を売って王冠を求める令嬢が好きになれないだけです」
「好きになれないか……。しかし、あと半年しかないんだ。そんなことを言っていられないぞ」
「それはわかっています……」
リシェルの正論にナセドは反論ができず一瞬黙り込んだが、すぐに顔を上げ、迷いのない覚悟を見せるように父を見据えた。
そんな彼の様子を見つめながら、リシェルは王としてではなく、一人の父として全部お見通しであった。しかし、一国の王子が平民の娘に恋しているということまでは、さすがに知らないのだ。
「それにだ、毎回、お前は城下町にも赴いている。城の衛兵から聞いているぞ」
不機嫌な顔をするリシェルに対し、ナセドは申し訳なさそうな顔を向けて答えた。
「勝手に城下町へ出向いた事は謝ります。しかし……」
「しかし……なんだ?」
さらに険しい目つきで睨みつけるリシェルに対し、ナセドは表情を戻し、真剣な視線を父に向けた。
「実は、城下町に気になる娘を見つけたんです」
「気になる娘だと?」
その言葉を聞いたリシェルは、目を細めてさらに睨みつける。しかし、ナセドは一切動じることもなく話を続けた。
「はい、媚も売らず王冠にも興味がなさそうな……平民の娘です」
「平民の娘だと……」
ナセドの言葉に、リシェルは呆れた顔を浮かべ、再び不機嫌な表情のまま深くため息をついた。
「はぁ。嘘をつくならもっとましな……」
「ほっ、本当です!」
リシェルが言い終わるよりも早くナセドが必死になって反論すると、リシェルは思わず目を見開いた。
そして、リシェルは信じられないといった顔で、ナセドへと真っ直ぐな視線を向けた。
「本当か……?」
「はい」
嘘ではない、本当である。しかし、ナセドの耳を疑うような発言に、リシェルはひどく困惑した様子で頭を抱えた。それもその筈だ、相手は平民の娘であり、王族とは住む世界が違いすぎるからだ。
だが、リシェルが最も懸念しているのはそこではなかった。
平民の娘を妃として認めることは現実的にも無理があり、仮に迎え入れたとしても、間違いなく貴族の強い反発を買う。そして、何よりもその反発の矛先が彼女に向き、命の危険が及ぶからだ。
リシェルはかつてないほどの険しい表情を浮かべ、ナセドに強く言い放った。
「あのな、ナセド。相手は平民の娘だ。好きになってしまったお前の気持ちはわからなくもない。しかし、現実的にも無理がある。もし、妃に選ぶなら、他の令嬢たちや妃候補であるレーナにしなさい」
そう強く説得するが、毎日彼女の店に通っているナセドは、引き下がることはなかった。何故なら、彼女を見るたびに胸が熱くなっていたからだ。
「何か勘違いしていませんか、父上。確かに彼女のことは好きです。しかし、妃にすることはできないと自分でも分かっています」
「だったら……」
ナセドを鋭く見つめるリシェルは、険しい表情のまま、さらに強い語気で説得を続けようと口を開きかけたその瞬間、ナセドが先に言葉を続けた。
「それでもいいのです。しかし、彼女たちの相手はできません。ただ、それだけです。いずれは心変わりするかもしれませんが……」
嘘である。そう簡単に心変わりするわけがないと、ナセド自身が一番よくわかっている。その事に気づいているリシェルは少し呆れつつも、一旦、納得したような表情を浮かべた。
「わかった。お前が言うなら今は信じよう。それで、話はそれだけか?」
「いいえ、今日、伺ったのはその平民の娘をお茶会に招きたいと思いまして……」
「はぁ……」
リシェルはありえない言葉を聞いたとばかりに再び目を見開き、言葉を失った。そして、途方もない頭痛の種を抱え込んだ親のように、底知れぬ呆れ顔で深々とため息をついた。
リシェルが大きくため息をつくのは無理もない。先ほど、「平民の娘に恋をした」と聞かされたばかりだというのに、次は「お茶会に招きたい」と言い出したのだ。リシェルが思わず頭を抱えてしまうのは当たり前だった。
「お前な……」
「大丈夫です。お茶会は他の令嬢たちが来ない日を選びますから。レーナは多分来てしまうと思いますが、先ほど母上に相談したので大丈夫です。あと、リリアーナは来ると思います。多分……」
リシェルを安心させるようにナセドが説明すると、彼は呆れて言葉が出ないほどの衝撃を受けた。しかし、フィオネの名を聞いて、リシェルはホッと安心した表情を浮かべたかに見えたが、リリアーナの名前が出た途端に、眉間に皺を寄せた。
「……なるほど、フィオネに相談したのか?まぁ、彼女がいればなんとかはなるだろうが、リリアーナは問題だぞ」
「大丈夫です。そこは母上がどうにかするでしょう。まぁ、リリアーナや、お茶会に来るかもしれないレーナが強く当たろうとすれば、私が叱ります。たとえ、妃候補が相手でも……」
「なるほど、お前はそこまで……」
(ナセドよ。お前はそこまで、その平民の娘に、深い愛情を抱いているというのか。ならば、今は成り行きを見守るしかないか。それにフィオネとリリアーナの二人が参加するなら……それが終わった後、フィオネにその娘の評価を聞いてみるとしようか……)
息子の揺るぎない覚悟を悟ったリシェルは静かに深く納得した表情を浮かべ、ナセドに告げた。
「わかった。お茶会を許可しよう」
「ありがとうございます、父上」
「だが、問題は起こすなよ」
鋭い目つきを向けつつも、真顔で釘を刺すリシェルに対し、ナセドは静かに立ち上がると、深く頭を下げた。
そして、ナセドは後ろを振り返り、音を立てずに扉を開けて、リシェルの部屋を後にした。
一人残されたリシェルは立ち上がり、自身の執務机へと戻ると、ふと天井を見上げて独り言を呟いた。
「しかし……他の令嬢やレーナたちの相手を全くしなかったナセドの心を溶かした平民の娘か。フィオネの評価次第では、一度会ってみるか」
そう静かに呟いた後、リシェルは視線を戻して、椅子に深く腰を下ろし、再び残りの仕事へと向かった。
こうして一日を終えたナセドは、なんとかお茶会を開くための手はずを整えることができた。あとは日取りを決めて、彼女を王城へ迎えるだけだ。
懸念材料といえば、リリアーナとレーナの存在くらいで、それだけが少し心残りであったが、ナセドの胸には、レレナをお茶会に招きたいという熱い想いしか溢れていなかった。
そして翌日、ナセドは予定通り、彼女宛ての手紙をリカードに託すのであった。
しかし、その裏でリリアーナがナットにナセドの動向を調べさせ、レレナの働くレストランへ行くことなど、この時の彼は知る由もなかった。




