幕間32 王子の拭えない疑念と王女の引っかかり
レレナのレストランを後にし、王城へと帰ってきたナセド。すでに大きく開かれている王城の北門を通ると、いつものように門番の衛兵たちが彼に向けて敬礼した。
すると、肩までかかる長い金髪を揺らしながら、いつものドレスを着た少女が白いヒールでカツカツと甲高い足音を立てて駆け寄ってきた。
「おかえりなさい、お兄様」
気高い声で呼びかけてきたのは、妹のリリアーナだった。
「ただいま、リリアーナ」
難しい顔つきで軽く返事をするナセドに、リリアーナはピクリと眉を上げた。
「どうしました、お兄様。そんな浮かない顔をして……もしかして、レレナに嫌われた?」
からかうような言い方をするリリアーナだったが、「違う」とナセドから怖い顔で睨み返され、思わず「そっ、そう……」と一歩後ずさる。
「じゃあ、どうしたのかしら」
不思議そうな顔を向けて尋ねるリリアーナに、ナセドは少しため息をついた。
「まぁ、お前に話しても何の意味もないが……実はな、昨日と今日で、レレナに少し妙なことがあってな」
昨日、南での戦争中に迷子の紫髪の子供がレストランに迷い込み、レレナが賄いを食べさせて家まで送っていったこと。それなのに、彼女が帰ってきたのが夕暮れ時だったという不可解な出来事。
その後、ナセドは今日レストランでレレナに会った時のこともリリアーナに話した。
「何故か俺を見ると赤くなったり、顔を伏せたりしていたんだ。まぁ、その後は普通に仕事はしていたがな」
「なるほど。でも、それってただ照れているだけでは? お兄様に会えて」
リリアーナが、ただレレナがお兄様を意識しているだけだと推測して言うと、ナセドは少し笑みをこぼした。
「ふっ……そうかもしれないな」
(ふふふ、お兄様ったら、またそんな嬉しそうな顔をして)
リリアーナは兄の分かりやすい様子にニヤニヤしながらも、からかうのをやめて話の続きを待つ。するとナセドはハッとして緩んだ頬を引き締め、真面目な顔を取り繕ってこほんと咳払いをした。
「とりあえず話を戻すが、それで、今日のことだが……」
レレナの様子が少しおかしかったことに加え、続けざまにその紫髪の子供が再びレレナに会うためにやってきて、今度は一緒に食事をしていたこと――ナセドは、事の顛末を長々と話して聞かせた。
「……以上だ」
「そう、そんなことが……」
ナセドの話を聞き終えたリリアーナは、胸元からいつもの扇子を取り出し、パッと開いた。
(レレナのあの店に、見知らぬ子供が迷い込んだ。まぁ、北の区画に戒厳令は敷かれていなかったから、それ自体はあり得る話だけど……昼に送りに出て、夕暮れまで道草をしていたというのは、さすがにおかしいわね)
そう考えたあと、リリアーナは開いた扇子で口元を隠し、上目遣いで兄の顔を覗き込みながら、そう尋ねた。
「お兄様は、その、レレナの言っていることを信じていますの?」
「ふん、完全に信じていると言えば嘘になる。だが、レレナ本人がそう言う以上、今は彼女の言葉を信じるしかないだろう」
不器用ながらもレレナの嘘を包み込もうとするナセドの返答を聞き、リリアーナは開いていた扇子を静かに閉じて口を開いた。
「なるほど、そうですか」
(それなら、レレナの道草のことは、深く追及できないわね。お兄様があえて嘘を飲み込んで、彼女のことをそう想うなら……私が口出しすることじゃないわね)
ナセドの切実な想いを尊重しつつ納得し、一旦は引き下がるリリアーナだったが、どうしても一つの疑念だけが拭いきれず、難しい顔のままパチンと扇子を開き、顔を半分隠して思考を巡らせた。
(でも、二日連続でやって来たあの紫髪の子については、少しおかしくないかしら。ただレレナに会って一緒に食事をしたのだとしても……)
「とりあえず、お兄様がレレナを信じるお気持ちはわかりましたわ。しかし、その紫髪の子供ですけど……少し怪しくありませんこと?」
扇子で口元を隠しつつ、瞳だけを露わにして、訝しげに尋ねると、ナセドは意外そうな顔をして静かに答えた。
「やっぱり、お前もそう思うか、リリアーナ」
「やっぱりって……もしかして、お兄様もそう思っていらっしゃるの?」
自分と同じ疑念を抱いていたことに驚き、リリアーナは目を丸くする。
「あぁ。少しな。さっきも言ったが、親も連れずに一人でレレナに会いに来たからな。そこは少し妙ではあるが……」
「なるほど、そういうことですのね」
王族としての鋭い疑念が一致した二人の間には、少しだけ沈黙が落ちた。しかしナセドはすぐにその空気を払拭するかのように、リリアーナを見据えて険しい表情を向けた。
「でもな、リリアーナ。その子供がいくら怪しくても、所詮は他の者と同じ、ただの人間だ」
険しさの中にも、どこか割り切れないもどかしさを滲ませて答えるナセド。その様子にリリアーナも少し悲しげな顔を見せ、「そう、ただの人間……」と静かに返した。
(つまりお兄様は、その子供が悪魔ではないかと疑っていたのかしら。でも、さすがにあり得ないわね。仮に悪魔だとしても、わざわざ人の姿でレレナに近づく理由がわからないもの。それに以前、お母様が動揺していた『引きこもりの悪魔』とは、どうせまた別の話でしょうし)
そう心の中で結論づけると、リリアーナは表情を戻し、ナセドの言葉へ耳を傾け続けた。
「……それに、親を連れていないのにも何か事情があるのかもしれないからな」
「なるほど、事情ですか。まぁ、子供ですし、親が働き詰めとか……そういったことはあるかもしれませんわね」
扇子を閉じて軽く振りながらリリアーナがそう推測すると、ナセドはふぅと息を吐いた。
「あとな、レレナから強く詮索しないようにと言い含められているんだ」
「はい? レレナがその子を怪しむことなく、そんなことを言ったのですか、お兄様?」
兄の言葉に信じられない様子で、目を見開き、声をあげて問い返すリリアーナに、彼は、「あぁ、そうだ」と即答した。
「何故、そんなことを……。賄いを食べさせたこともそうですけれど、たかだか二回会っただけの子供にそこまでするなんて、お人好しにも程があるような気がしますわね……」
レレナのお人好しぶりに呆れつつも驚いた顔を見せ、リリアーナは閉じた扇子を顎に当てて問いかけた。するとナセドは空を見上げ、レレナのことを思い浮かべながら答えた。
「確かにそうだな。だが、レレナはあの紫髪の子供を自分の妹と重ねたみたいでな。無理に怪しむことなどできず、あんなことを言ったのだろう」
「妹……そういえば、彼女には故郷にレイミという妹がいましたわね」
(そういうことね。なら、無理もありませんわね)
リリアーナの様子に、ナセドは視線を戻して言葉を続けた。
「あぁ。それに、レレナは、その子を、自分の妹のように、放っておけなかったのだろう。一緒に食べているところを見て、俺は、そう思ったんだ」
ナセドは数時間前にレストランで見た二人の姿を思い出しながら、仕方ないといった顔を浮かべた。
「そうなのですね、お兄様。しかし、妹への想いからそこまでするなんて、さすがはレレナですわね……」
ナセドの言葉にふっと息を吐き、再び呆れ半分、感心半分の顔を見せながらそう返すリリアーナは扇子を開いて口元に寄せた。彼女の中で、レレナの行動に対する疑問は納得へと変わっていた。
(でも、それでも少し気になるのよね。あの紫髪の子供……あぁ、そうだわ。名前も聞いてみようかしらね)
「ちなみに、その子の名前は何と言いますの? お兄様」
「その子の名前か? 確かキュネと言っていたな」
「へぇ、キュネですか。まぁ、可愛らしい名前ですわね……」
(けど、その名前の響き、何かに似ているような……何だったかしら?)
その子供の名を聞いたリリアーナは難しい顔をして記憶を手繰り寄せ、その正体を思い出そうとした。その様子にナセドは不思議そうな顔でリリアーナを覗き込み、「どうした、リリアーナ?」と問いかけた。
「いいえ、何でもありませんわ。とりあえず、お兄様のお話はわかりましたわ」
ナセドに声をかけられたリリアーナは考えるのをやめて小さく首を振り、レレナの想いを尊重して、ふわりと優雅な笑みを浮かべた。
「あぁ……ともかく、あの紫髪の子供については、詮索はなしだからな」
「ええ、わかっていますわ、お兄様」
「それでいい」
ナセドの念押しにリリアーナが素直に引き下がってみせると、彼も安心したように頷いた。しかしリリアーナは続けざまに、以前から気になっていたことをぶつけようと口を開いた。
「……それと、お兄様。話は変わりますけれど」
話題を切り替えようとするリリアーナに、ナセドは怪訝な顔を浮かべて「何だ?」と短く返した。
すると彼女は口元を緩めて薄い笑みを見せながら、開いた扇子で優雅に風を送り、こう尋ねた。
「この前の戦争で、お兄様は上級悪魔と戦って倒したでしょう」
「そうだが……」
突然の話題に少し戸惑いを見せるナセドをよそに、リリアーナは風を送るのをやめ、扇子を口元に寄せた。
「お父様から聞いたのですけれど、その悪魔って、『引きこもり』と言っていたのでしょう?」
リリアーナの興味津々な問いかけに、ナセドは真顔で「確かに言ったな」と答えた。
「それで、他に何か言っていたのかしら。少し気になりまして」
「何故だ?」
リリアーナの言葉に、ナセドが表情を崩さないまま目を細めて問い返すと、リリアーナは扇子越しに小さく首を傾げ、いかにも不思議でたまらないといった顔を作ってみせた。
「……そういう悪魔が本当にいるのかなと思いましてね」
(まぁ、本当は『引きこもり』と聞いた時のお母様の様子がおかしかったから聞いただけだけれど。でも、お母様のことはお兄様には話しませんわ。まだ、お母様があんなに動揺していた理由がわからないのだし)
内心の企みを完璧に隠し通すリリアーナに、ナセドはすっかり警戒を解き、真顔のまま小さく息を吐いた。
「なるほど、そういうことか。でも、そんな悪魔、いるわけないがな」
「ええ、お兄様はいないと思っていらっしゃるのですね。けれど、それでも、その悪魔が言ったことが気になりますわ」
ナセドが否定しても、なおも『悪魔が他に何か言ったのではないか』という好奇心を拭い去らないリリアーナ。その熱意に押され、ナセドは仕方ないといった顔つきで、戦場での記憶を辿るように話し出した。
「気になるか。……わかった。実はな、あいつは最期に『結局、引きこもりの言う通りじゃないか』と、まるで既に結末がわかっていたかのような戯言を言っていたんだ」
「そう……そんなことを」
話を聞き終えたリリアーナは、扇子を閉じて頬に当て、難しい顔つきを見せた。
(結末がわかっていた? つまり、その存在すら不確かな悪魔は、私たちの国が勝つことを予見していたということよね。でも、それがお母様の動揺とどう繋がるのかは、まだ謎ね……)
考えがまとまらないリリアーナの様子を見つめながら、ナセドもまた別の疑念を思い浮かべていた。
(北の区画での違和感についても気がかりではあるが。確証もないのにリリアーナに話しても仕方ないか)
ナセドは心に浮かんだ疑念をリリアーナに話しても無意味だと判断し、小さく首を横に振ると、コホンと咳払いをして話を切り上げた。
「とにかく、話は終わりだ」
「はい、お兄様。貴重なお話をありがとうございましたわ」
リリアーナが頬に当てていた扇子を胸元へ仕舞い、優雅な微笑みを浮かべると、ナセドはいつもの兄の顔に戻って頷いた。
「じゃあ、俺は一旦、自分の部屋へ戻るからな、リリアーナ」
「ええ、いってらっしゃいませ、お兄様」
そう言ったナセドに対し、リリアーナはドレスの裾を握って優雅にお辞儀を返す。それを見た彼は少し笑みを浮かべながら背を向け、王城の南にある自分の部屋へと戻っていった。
「はぁ、行ったわね、お兄様……。けど、お母様にもこのことを話してみようかしら」
遠ざかる兄の背中を見送り、無邪気な子供のようにリリアーナはぽつりと独り言をこぼした。しかし、すぐにナセドに言われたことを思い返し、ため息をつきながら残念そうに呟いた。
「……いや、お兄様に『詮索はなしだ』と強く言われておりますし、やめておきましょう。……少し気になりますけれど、仕方ありませんわね」
そう諦めるリリアーナだったが、数秒後、首を振り、南の方へと向き直った。
「でも、引きこもりの悪魔については、一応お母様に言っておきましょう。結末を予見していたことだけでも……と」
紫髪の子供の詮索は我慢する代わりに、悪魔の謎だけは追及する。そうと決まればさっそくと意気込み、リリアーナは南の二階にあるフィオネの部屋へと向かって軽やかな足取りで歩き出した。




