幕間30 インキューネの冷や汗
レレナと裏口で出会い、再び食事をとるために店内へやってきたインキューネは、店内を見回して小さくため息をついた。
(はぁ、やっぱり。人が多い。多すぎるわ)
インキューネが店内にいる人間の多さにうんざりしていると、ふと、奇妙な感覚に襲われた。
(ん……なんだ? この強い甘い欲望に混じった、嫌な気配は……?)
それは、悪魔にしかわからない気配だった。そんな違和感を覚えながら、手を繋いでいるレレナの方を見ると、なぜか彼女の顔が赤くなっていた。
(あれ? レレナ、顔が赤くなっていないかしら。また、あの甘い夢を思い出したのかしら……)
と、インキューネが少し不思議に思って「どうしたの、レレナお姉ちゃん?」と声をかけると、レレナはこちらを見つめ返し、少し申し訳なさそうに笑いながら「ごめんなさい、大丈夫よ」と返した。
しかし、インキューネはその嘘をあっさりと見抜いていた。
(いや、嘘ね。絶対、私の力で見せた、彼女の欲望を引き出した甘い夢を思い出して顔を赤くしているんだわ。でも、それでいい、それでいいのよ。次に喰らう時、さらに楽しみになるからね)
恥ずかしさを隠そうとするレレナのそぶりをよそに、インキューネは悪巧みをするような笑みを少しだけ浮かべた。
一方のレレナは、必死に平気な顔を取り繕いながら、『行きましょう、キュネちゃん』とインキューネの手を引いて歩き出した。
(クスクス、レレナったら、ほんと、面白い子。……
けど、変な気配はまだ漂うな……)
レレナの様子を面白がるインキューネだったが、店内に漂う妙な気配に再び違和感を覚えつつ、前へと進んだ。
(はい? ちょっと待って。あの髪、あの横顔。そして、この気配。もしかして……)
店内を歩く途中、近くの席に座る金髪の男性と、そこから漂う気配に気づき、インキューネは思わず顔を強張らせて足を止めてしまった。昨日「ただの空似だ」とぼやいていた自分の言葉が、脆くも崩れ去った瞬間だった。それは、二十数年前に焼かれた記憶が呼び起こした、反射的な反応でもあったのだ。
(この子の夢に出たあの男とそっくりだわ。それに、あの女にも。他人の空似だと思ってたのに)
恐怖を感じながら思考を巡らせていると、繋いだ手が引かれた。足を止めたことに気づいたレレナが心配そうに『大丈夫?』と声をかけてくる。インキューネは慌てて首を横に振った。
(くっ……いけない。いけないわ。演技を続けないと)
「ううん、大丈夫です」
「本当に?」
心配そうに言うレレナに、インキューネはにこやかな笑みをつくり、「はい、大丈夫です」と答えた。
「よかった。でも、何かあったら私に言ってね。力になるから」
ほっと胸を撫で下ろしながら優しく声をかけるレレナに対し、インキューネは(力になる、ですって。……この子は、私が何者なのかも知らないくせに)と、またレレナに優しくされたことへの悪魔の強がりを抱きつつ、笑顔のまま言葉を続けた。
「ありがとう。でも、あそこにいる方って、もしかして、王族なの? レレナお姉ちゃん」
インキューネが、金髪の男が座っているテーブルの方を指差して尋ねると、レレナはまだ少し頬を赤くしたままだったが、必死に平気そうな顔を取り繕って答えた。
「えぇ、そうよ。ナセド様よ」
(やっぱり。でもなんでよ。なんで王族がレストランに来ているわけよ……)
レレナの答えに心の中で『ありえない』と思いながら、インキューネは再度、金髪の男を見返して、納得の色を浮かべた。
(でも、あの顔立ちや髪色……おそらく、あの女と同じ血を持つ者ね。けど、よりにもよって、この子の理想の男性が王子だなんて。まぁ、昨日は自分でも空似だと言い聞かせてきたけれど……本当は、そんな気はしていたのよね……)
インキューネは納得の色を浮かべたままレレナを観察し、あることを理解した。
(なるほど。この男が、あの子の『理想の男性』の正体というわけね。だから私が出会った時から、あの子の甘い欲望はあんなに強かったんだわ。そこに私の力で『彼に愛される夢』を見せたから、さらに熟して濃くなったのね)
レレナの表情からそこまで理解したインキューネは、ふとあることを思い出した。
(でも、確か王族って、特別な身分じゃないと結婚を許されないって聞いたことあるわ……身分違いで、絶対に叶わない恋だからなのよね。とりあえず、ここは会話を返すか)
そう考えを巡らせたインキューネは、話を合わせて、そのままなぜ王族がここにいるのかという疑問をぶつけた。
「へぇ、そうなんだね。でも、なんで王族がここにいるの? 普通、王城で優雅な生活をしているって、そう聞いたことあるんだけど」
不思議そうな顔をする無邪気なインキューネの疑問に、レレナは頬を染めたまま、桃色の髪を指先でいじりながら答えた。
「そうよね。あなたが驚くのも無理はないわ。私も最初驚いたんだから。でも……ナセド様は、ここの料理を気に入って通ってくださっているのよ」
(なるほど、常連ってことは、これからもまた会う可能性があるじゃない。……でも、今の反応は)
インキューネは彼女の顔を見て色々と悟り、レレナがナセド殿下に恋をしていると気づいて、心の中で笑って呟いた。
(クスクス、そういうことね。でも、そうか。レレナは王子に恋をしているのか。まぁでも、そんな恋を抱く人間なんてどれも同じ。理想の男性がどうとか関係なく、みんな王族に憧れるものよね)
『人間の女の子は王族に恋をするものだ』。すでにすべてを悟ったような顔つきで、インキューネはそう決めつけた。
「とっ、とりあえず、キュネちゃん。そろそろ進みましょうか」
「うん」
レレナは再び平気な顔を取り繕いながらそう言い、インキューネは無邪気な子供を演じて返事をした。
しかし、彼女の心の中は穏やかではなかった。
(はぁ、このまま進んでバレないかしら。不安だわ。人間に擬態はしているけれど……まぁ、あの男は店の外を見ているみたいだしね)
拭いきれない王族への恐怖を抱えたまま、インキューネはレレナに手を引かれて進んだ。
しかし、レレナが金髪の男の近くを通った時だった。
「あっ、戻ってきたか、レレナ。……その子は?」
窓の外を向いていたナセドがレレナに気づいて声をかけ、さらに紫髪の少女に目を留めて、不思議そうに見つめてきた。
(くっ、やっぱり気づかれたか、ここはレレナの後ろに隠れた方がいいわ)
そう考えて、インキューネはまた繋いだ手を離し、レレナの腰にしがみついて後ろに隠れた。
「あっ、この子、またしがみついて……けど……」
インキューネの行動に驚きつつ、レレナはふと何かに気付いた様子を見せた。だが、今はそれを気にしないようにして、平気な顔のままナセドに説明を始めた。
「実はこの子、昨日このお店に迷い込んできまして……」
と、レレナが説明を終える前に、ナセドは何かに思い当たったような顔を見せて言葉を返した。
「あぁ、知っている。さっきおばさんから聞いたぞ。……そうか、その子が噂の迷子の子か」
「えっ? 知っているんですか? ナセド様」
面食らったような顔をするレレナに、ナセドはうんと頷く。それはさっき、彼女のいないところでファナおばさんが話していたのだから。
レレナは眉間に皺を寄せて「もう、ファナおばさんったら。私は大丈夫って言ったのに」と、ファナおばさんが何を話したのかを察してそう呟くと、ナセドは真面目な顔で返した。
「大丈夫って、あのなレレナ。昼間に迷子の子供を送りに出て、道草をして夕暮れまで帰ってこないなんて、普通は心配するだろう」
「そっ、そうですけど……」
その二人の会話を聞いたインキューネは、予想通りの展開に納得した顔つきになりながら、(やっぱり。私の予想通り、おばさんは話したのね)と心の中で呟いた。
(でも、確か、レレナには『迷子の子供を送った後、路地裏で疲れて眠ってしまった』という記憶に書き換えたはず。それなのに、道草って嘘を……)
二人が話している間、インキューネはレレナの背中に隠れたまま、難しい顔をして少し首を傾げた。
(いや、レレナはお人好しで、他人に心配をかけるのを嫌っている。だから、あんな嘘をついたに違いないわね)
レレナの性格を理解しているインキューネがそう納得して頷いていると、苦笑いを浮かべてほんのり薄く頬を染めるレレナは「……なので、私は大丈夫ですから。でも、心配してくれてありがとうございます」と話を終え、ナセドに礼を言った。
彼は左手で金髪を掻きながら、照れ隠しのようにこう返した。
「そうか……でも、レレナにありがとうって言われるなんてな。まぁ、悪くない」
(えっ、ちょっと待って? この男の反応、それに王族なのにレレナって呼び捨てで……もしかしてこの男、レレナに惚れてるわけ!?)
レレナの背中に隠れながら、インキューネは目を見開いて二人の顔を観察した。ナセドがレレナに惚れていること、そして先ほど察したレレナの想い——その両方が繋がった瞬間だった。
(なるほど、そうか。この男は、レレナに会うために来たのね。だったら、レレナが言っていた『料理が気に入っている』なんて嘘だわね。……けど、まさか両想いだなんて)
驚きのあまり言葉も出なかったインキューネだったが、少し微妙な顔を浮かべてレレナの横顔を見上げ、こう思った。
(でも、たとえ両想いだったとしても、結ばれないことは、さっき考えた通り。……そうか。レレナは、この男の想いにも、自分の想いにも、必死に蓋をしていたんだわ。でも、現実では結ばれないからこそ、せめて、夢の中では、愛されたい……けど、その反動が、あんなにも、強くて甘い欲望に、なっていたのね。そこに、私の力が加わったのだから、濃くなって当然だわ)
二人が両想いだと知り、すべてが繋がった。レレナの甘い欲望——その正体を、インキューネはようやく完全に掴んだ気がした。
(でも、あっちの方はそれをわかっているかしらね)
ナセドもまた、自分たちが結ばれないことをわかっているのだろうか――。インキューネがそんな思考を巡らせていると、同時に、ナセドはインキューネの方を訝しげに見つめてきた。
「だが、一つ聞いていいか。その子、昨日の迷い込んだ子だろう。何故、今日も、ここへやってきたんだ? 親を連れずに」
そう尋ねられ、(くっ、やっぱり、レレナやおばさんは騙せても、王族には、不思議に思われるのね)と、少し嫌な顔をしながら思っていると、レレナは薄い笑みを見せながら、インキューネを守るように答えた。
「実は、この子は迷い込んだわけではなくて、私に会いに来たんです」
「そうか、レレナに会いに、か……」
ナセドがどこか腑に落ちない様子で小さく呟きながら頷くと、レレナは黄色い瞳を見開き、彼女にしがみついているインキューネを守るように強く言った。
「だから、キュネちゃんのことをあまり詮索しないでください」
(レレナが私のために強く言ってくれた。まぁ、お人好しさなら当たり前だけど……)
インキューネが驚きながら二人の様子を見つめていると、ナセドはレレナの言葉に「わかった」と深く納得し、これ以上の追及を避けた。レレナは微笑みながら彼に礼を言う。その様子を見たインキューネは、心の中で小さく息を吐いた。
(ふぅ、よかった。レレナの言葉に、納得してくれたみたい)
そう安堵しているインキューネをよそに、レレナは、キュネちゃんをこれ以上困らせないよう、深く追及されないうちにと、明るい笑顔を作り、話題を変えることにした。そう心に決めると、彼女はナセドに向けて、にっこりと微笑んだ。
「じゃあ、ナセド様。私は今日、キュネちゃんと一緒にそこの空いているテーブルで食事をいただくので、あなたの料理はそのついでにお持ちしますね。少し待っていてください」
レレナは優しくそう言うと、インキューネの手を再び繋ぎ直した。
ナセドは不思議そうな顔で『わかったが、何故また、見ず知らずのその子に賄いを与えて、さらには一緒に食べるんだ?』と、青い瞳を見開いて尋ねた。
「えぇっと、私がこの子と食べたいと思ったからです。それに、少しだけ……故郷の妹に似ているので」
「なるほど、レイミか……わかった」
ナセドが深く納得した様子を見せると、レレナは再び歩き出した。インキューネは心の中で(ふぅ。危なかった)とほっと胸を撫で下ろし、レレナと共に空いているテーブルへと向かった。
一方、残されたナセドは、じっと少し難しい顔でその後ろ姿を見つめ、思考を巡らせていた。
(まぁ、レレナが、あの少女を大事に思っているなら問題ないだろう。あの無邪気な子供から、変な気配は感じないしな。それに『詮索するな』と言われたからには、それはしっかり守らないとな。でも、レレナから聞いた『道草』という言い訳も、まだ少し怪しいところだが……)
彼女の言い分や色々な疑問を残しつつも——それが森に住む悪魔の偽名であることなど知る由もないナセドは——レレナの優しさを理解して、そう結論づけることにした。
それから数秒後。ナセドから少し離れたところで、レレナが「どうぞ、キュネちゃん」と座るように促すと、インキューネは子供らしい無邪気な笑顔をまた見せて「はい、お姉ちゃん」と言い、腰を下ろした。
「じゃあ、私の賄いを持ってくるわね。少し待っててね」
にこやかな笑みを浮かべるレレナにインキューネがこくりと頷くと、彼女は賄いを取りに厨房へと向かった。
しかし、レレナを待つ数分間は、インキューネにとって緊張の塊でしかなかった。何故なら、すぐ近くにナセドという王族がいるからだ。
(にしても、想定外。本当に想定外だわ。はぁ、昨日のレレナの夢で思ったことや、今日王族に会った時から嫌な予感はしていたけど……これじゃあ狙えない。狙えないわ、最高の極上であるレレナの夢を。もし今、私が手を出せば、あの男に消し炭にされる可能性があるからね。おそらく、あの女と同じ火が使えるはずだわ。けど、みすみすあの夢を逃すわけにはいかないわ。でも、今は大人しくするしかないね。とりあえず、ご飯を食べ終わって店を出たら、あの男を出し抜く方法を時間をかけて考えよう)
待つ間、インキューネは店を出た後にナセドを出し抜く決意を固めた。
だが、ナセドがこちらの様子を少し窺ってくるため、インキューネは(もう、こっち見ないでよ)と内心で毒づきながらも、必死に無邪気な子供を演じ続けた。
すると、料理を持ってきたレレナが、まずはナセドのテーブルにお盆を置き、「はい、どうぞ、ナセド様」といつもの料理を差し出した。ナセドは真顔でレレナの方を見て、「ありがとう」と優しく返した。
そしてまたレレナは厨房へ戻っていき、今度はお盆に乗せた二人分の賄いを持ってインキューネのところへやってきた。
「お待たせ、キュネちゃん」
薄い笑みを浮かべ、黄色い瞳を輝かせながら、レレナはお盆に乗せてきた二人分の料理――パンやスープ、サラダ――を、まずはインキューネの目の前に置き、銀のスプーンも添え、続いて自分の分の料理や銀のスプーンを並べた。空いたお盆は食事の邪魔にならないよう、テーブルの端に置いた。
レレナがインキューネと向かい合うように腰を下ろし、口元を緩めながらそう促した。
「さてと……じゃあ、食べましょうか」
インキューネは無邪気な笑顔を崩さず、ちょこんと両手を合わせた。
「はい、いただきます」
元気な声を上げてインキューネは、さっそくパンに齧り付いた。
(……昨日と一緒。レレナが作る料理は、美味しいわ。また感じてしまったわ、この温かさを。悪魔なのに……)
齧り付いたパンを味わったインキューネの胸の中には、昨日と同じ感覚が蘇り、またしても変な気持ちが湧き起こってしまった。けれど、その顔はまんざらでもない。彼女の料理の美味しさを二度も味わってしまったからだろうか。
そんなインキューネの葛藤をよそに、レレナは自身もパンに齧り付いた後、それを皿の上に置き、嬉しそうな微笑みを浮かべた。
「うふふ。やっぱり昨日と同じように、美味しそうに食べてくれるのね」
「う、うん……」
(記憶を改竄したのに。こんなふうに、また温かい言葉をかけてくるなんて。まぁ、私が妹に似ていると言っていたし、お人好しの彼女ならこれも当然のことなのかしら……でも、何故そんな言葉が出るのよ、レレナ)
優しい笑みを見せたままのレレナに、インキューネは困惑した顔を浮かべた。
(私は、この店に私の存在がバレている不自然さをなくすために記憶を改竄しただけなのに。それなのに、そんな温かい言葉なんて出るわけないはず……わからない。わからないわ、甘い欲望を持つあなたの心は)
記憶操作の綻びに驚きつつも、困惑した表情をすぐに戻し、無邪気な子供を演じるインキューネ。しかし彼女は、レレナの心の奥底に『美味しそうに料理を食べる妹のような少女の笑顔』が深く刻まれており、それが悪魔の魔法すらも凌駕していることなど、知る由もない。
それからスープやサラダにも一つずつ手をつけていた途中、離れて食事をしていたナセドが、こちらへ近づいてきた。
(えっ、なんでこっちに来るの?)
食事をしながらも、インキューネは動揺を隠しつつサラダを食べていると、ナセドはレレナのそばへ歩み寄り、テーブルに硬貨を置いて「俺は帰る」と短く告げた。レレナも「はい、また……」と静かに返している。
軽い会話が交わされるのをよそに、インキューネは内心で呟いた。
(どうやら帰るのね。よかった。これで少しは安心できるわ)
ほっと安心しつつも、演技のまま料理を食べ続けるインキューネ。そして、二人での穏やかであっという間の食事の時間は終わりを告げた。
「ふぅ、とても美味しかったよ。お姉ちゃん」
(美味しかった……とても。甘い夢が好物な私が、彼女の料理をまた本心から褒めてしまった)
無邪気な子供を装ってお礼を言ったインキューネだったが、昨日とは違う今の笑顔は演技ではなく、本物だったかもしれない。
そんな彼女の顔を見て、レレナは「ありがとう、キュネちゃん」とまた優しく微笑み返した。
(レレナ……もし、昨日見せなかった私の本当の姿を見たら受け入れてくれるかしら……いや、なに言ってるの私。ありえないわ。この世界の人間はどれも同じ、同じよ。悪魔だと分かれば攻撃してくるはず、それにレレナの記憶はいじってる。どうせ思い出しても結果は同じよ)
一瞬、レレナの優しい笑顔を見たインキューネの頭をそんな考えがよぎったものの、『そんな都合のいい話はないし、レレナが思い出しても結果は同じだ』と、即座に否定した。
(でも、あなたの料理が美味しいこと、それだけは否定しないわ)
そうインキューネは心の奥底で、密かにそんな温かい想いを抱いた。
「じゃあ、レレナお姉ちゃん。私、帰ります」
そう言って立ち上がるインキューネ。レレナはまた心配そうな顔をして、「大丈夫? キュネちゃん。また私が……」と送ることを提案するが、インキューネは平気そうな無邪気な笑顔のまま、首を横に振った。
「大丈夫です。レレナお姉ちゃん、私は一人で帰れますから」
(……人も多いし、それにあの王子がどこか隠れているかもしれないし、迂闊なことはできないわ)
またレレナと一緒に行けば怪しまれるかもしれない。昨日とは状況が違うのだと、インキューネは無邪気を装った浅い作り笑いを浮かべていた。
「そう? でも、店の入り口までは送るわ」
「そっ、そう……」
心配そうな顔から真顔に戻り、優しくそう告げるレレナに、インキューネは少し戸惑いつつも彼女の好意に甘え、店の入り口まで送ってもらった。
「じゃあ、またね。レレナお姉ちゃん」
レストランの外はすでに夕暮れに染まっていた。笑顔で手を振って別れを告げるインキューネに対し、レレナも今まで以上の満面の笑顔で「うん、また会いましょうね。キュネちゃん」と返し、二人は別れを交わした。
そして、インキューネは店を後にした。
それから数分後。インキューネは、人気の少ない路地裏へとやって来た。
「さて、昨日来たここなら人が少ないと思って来てみたけれど、予想通り誰もいないわね。さて、どうしようかしら……夜まで待って、また森へと帰るか」
夜まで待って人が完全に寝静まった頃に、悪魔の姿に戻って森へ帰ろうと考えるインキューネだったが、レレナの甘い夢を喰らうという考えは変わらず、再び思考を巡らせた。
(一度森へ戻ってしまえば、再び城下町に潜入するのはとてもじゃないけど難しいわね。あの心優しいおじさんとおばさんの馬車があったから今回は上手くいったけれど、何度も同じ手は使えないし……でも、あの子の極上の夢はどうしても喰らいたいわ。あの男を出し抜いてでも)
インキューネは難しい顔をして首を傾げ、思考を巡らせながら、薄暗くなり始めた路地裏の空を見上げた。
(うーん。特にあの女にバレる危険はあるけれど、もう少しこの街に留まるか……この子供の姿ならバレる可能性は低そうだし。現にあの王子にもバレなかったしね)
そう考えた結果、インキューネは金髪の女への警戒から森へ帰るよりも、このまま街に留まることを選んだ。
「よし、そうと決まれば、まず隠れそうなところを探そうかしら。かしらね」
路地裏の周囲をキョロキョロと見渡すインキューネだったが、これといって身を隠せそうなものは何もなかった。
「やっぱり、なにもないな。けど何かないかな……いや、人の気配がなさそうな家があるわね……」
路地裏の左手奥に、ひっそりと佇む誰もいなさそうなボロ宿を、インキューネは見つけた。
「ボロ宿か……昨日、この路地裏で女たちの夢を喰らった時は気づかなかったけど……よし。ここなら私が隠れるにはちょうどいいかも」
そこへ歩いて向かったインキューネは扉の前に立つと、ドアノブをガチャガチャと回して鍵が開いているか確認した。
「開いてるわ。ラッキー。じゃあ、入らせてもらうとするかしらね」
嬉しそうな顔で独りごちると、インキューネは宿の中へと足を踏み入れた。中に入るとすぐ目の前に階段があり、その両脇には部屋が二つ並んでいた。
「少し泥のような匂いはするけれど、私にとっては問題ないわね。二階へ行ってみよう」
そう言って階段を上がると、すぐ近くにまた部屋があった。インキューネは扉の鍵が開いていることを確認してから、その中へ入り込んだ。
そこには、布一枚かかっていない簡素な木のベッドと、その横に小さな木の台が置かれているだけだった。
「うん、いいじゃない。いいじゃないの……じゃあ」
インキューネは静かに目を瞑り、人間の姿から本来の悪魔の姿へと戻った。
「さぁ、眠ろうかしらね」
目を開けたインキューネはベッドに駆け寄り、仰向けにごろんと横たわった。彼女の心には、レレナの優しさが温かく残っていたが、あえて気にしないようにして、インキューネはこのボロ宿で静かに夜を過ごすのだった。




