幕間29 悪魔の再訪と動揺
親切なおばさんたちの馬車で森から城下町まで送られ、それを見送ったインキューネは、その数十分後、昨日と違いあのレストランの正面ではなく裏口へとやってきた。
「相変わらず、すごい甘い欲望の香りだ」
インキューネは深く息を吸い込み、レストランの裏口から、昨日と同じ甘い欲望の香りを嗅いだ。
「さて、正面だと人が多そうだから、裏口から来たけど……どうやって中へ入ろうかな?」
インキューネは森を抜けて彼女にまた会うと決めてはいたものの、どうやって中へ入るか自体は、全く考えていなかったのだ。
(うーん、まぁ、お金があれば、客として正面から入れるけど……裏口だと、やっぱり無理かな、無理かしらね。まぁ、私の紫の瞳で操れば簡単だけど、昨日のように上手くいかない可能性がある。さて、どうしよう)
インキューネが首を傾げ、顎に手を当てて深く考えていると、不意に裏口の扉がひとりでに開いた。
「ん?」
声を出して顔を上げると、扉の奥から、標的であるレレナが少し頬を赤くして出てきたのだ。
(あっ、あの子だ。甘い欲望の夢を持つ子)
探していた少女の存在に気づいたインキューネは、口元を緩めた。レレナが小さいため息をついたことなどお構いなしに、彼女の火照った顔を見てインキューネは自然と笑みをこぼす。
(あら、いい感じね。昨日の夢が、ちょうどよく熟しているじゃない。いいわ、実にいいわね、あの女と同じくらい……)
また昔食らった金髪の女を思い出しながら、インキューネは勝ち誇った顔を見せた。それは昨日、向こうから飛び込んできた獲物に甘い毒を与え、それが翌日には全身に回っていたことを喜ぶ、捕食者の顔だった。
だが、レレナがこちらに気づく気配を察すると、インキューネはすぐさまその笑みをスッと消し、無邪気な子供の顔へと戻った。そして、彼女と目が合うように顔を上げる。
「あら、あなたは……?」
レレナがいつもの表情を取り戻し、自分の存在に気づいて不思議そうに問いかけてくると、インキューネは無邪気な子供を演じたまま、満面の笑みを見せて挨拶をした。
「こんにちは、お姉ちゃん」
そう挨拶をすると、レレナも「こんにちは」と薄い笑みを返し、インキューネと目線が合うようにしゃがみ込んだ。
(あぁ、近くで嗅ぐといい香り。記憶を残したおかげで、昨日より理想の男に愛されたいという欲望が濃くなっているわ)
レレナは甘い夢とナセドへの想いを隠しているつもりでも、インキューネにはすべてお見通しだった。もっと愛されたい、可愛いと言われたい——その、引き出され、夢として形作られた想いは、記憶を残したことによって、以前より強くなっていた
インキューネが心の中で『よし』と頷き、レレナの甘さが最高だと感じていると、彼女は不思議そうな顔でインキューネに尋ねた。
「どうしたの、お嬢ちゃん。こんなところで。もしかして、またお腹が空いたのかしら?」
(どうやら、昨日、迷子を送っただけじゃなく、レストランで食べたことも、記憶に残っているみたいね……けど、当然だわ。そうでなければ、かえって不自然になるもの)
レレナの問いかけに、当たり前だと納得するインキューネ。だが、彼女はまだ知らなかった——他にも、記憶に残っているものがあることを。
(まぁ、どちらにせよ、私にとっては問題ないわ)
そう結論づけるまでの数秒、黙っていたインキューネは、紫の瞳をきらきらとさせながら、笑顔を向けて口を開いた。
「ううん、今日はね、お姉ちゃんに会いに来たくて来ちゃったの」
「えっ?」
(あれ? 私、いま、彼女に会いに来たって言っちゃった?)
インキューネは無意識のうちに、レレナに会いたいと口に出してしまっていた。そしてその言葉に、レレナの方も驚いた様子を見せた。
(昨日からずっと残っている、レレナの料理の温もりと優しさ。そして、さっきの親切なおばさんたち。そのせいで、少し演技を忘れてしまったのかしら。またあの変な気持ちが湧き上がってきそうだけど……今は、そんなこと考える必要はないわ)
インキューネは、レレナやおばさんたちの優しさに触れたせいで湧き上がった感情を、慌てて心の奥にしまい込む。すると、驚いていた様子のレレナが表情を和らげ、柔らかな顔を見せた。
「そう……。私に会いに来てくれたのね」
(何よ、その顔。あのおばさんたちと一緒。どうせ私が悪魔だってバラしたら、そんな顔はしないくせに)
優しくされるのは子供の姿でいるからだ。自分が悪魔だということは忘れてはならない——そうやって冷たく心の内で一線を引くインキューネに対し、レレナは笑みを崩さず、昨日と同じような言葉をかけてきた。
「……でも、今は仕事が忙しいから相手はできないけれど。もしよければ、また私の料理を食べていく?」
(……昨日と一緒。こちらから頼んでもいないのに、この子は……。けど、私はお金がない。それだけは、またはっきり伝えないとね)
レレナのお人好しさに少し呆れつつも、心の中でそう呟いたインキューネは、また困ったような顔つきを作り、演技を続けた。
「でも、昨日も言ったけど、私はお金が……」
困った顔のインキューネが言い終わるよりも早く、レレナが言葉を返した。
「大丈夫よ、お嬢ちゃん。今日も私が作った賄いがあるから」
予想通りの答えに、インキューネは心の中で『ふふふ』と邪悪な笑みを浮かべた。
(ふぅ、やっぱり。昨日と同じね。まぁ、あなたの夢を喰らうことには変わりないけれど、またあなたの料理を食べてあげてもいいわよ)
そう心の中で呟きながらも、インキューネは「でも、今日は人が多いじゃない。あまり迷惑をかけたら……」と、少し不安そうな顔を演じてみせる。すると、黄色い瞳を輝かせながら、レレナは満面の笑みを向けて答えた。
「そっか……そうよね。人がいるところなら、不安になるよね。じゃあ、私と一緒に食べよっか。店内で」
「えっ……」
その計算外の答えに、インキューネは固まり、次の言葉を失った。
(いや、なんでそうなる。そうなるのよ)
昨日は戦争があって人が少なかったから、安全だと思ってこの城下町に侵入したのだ。だが、今日は違う。本来の姿や力を隠してきたとはいえ、他の人間に自分の存在を気づかれでもしたら、騒ぎを起こしかねない。インキューネ自身、ここで暴れることは望んでいなかった。
(はぁ、レレナ、あなたは優しすぎるよ。でも、そんな提案を無理に断ることもできないし……まずは、どうしてそんな風に考えるのか聞いてみようかしらね)
そう思い直したインキューネは、崩れそうになる演技を必死に立て直し、平然を装いながら不思議そうに尋ねた。
「ねぇ、お姉ちゃん。どうして昨日会っただけの私に、そんなに料理を食べさせたいの? 一緒に食べようとまで言ってくれるし……」
インキューネは不思議でならなかった。普通の人間なら、一度会っただけの子供にここまではしないだろう。それなのに、この娘は自分にだけ優しくする。その理由が、彼女には分からなかったのだ。
レレナは少し驚いたような顔を見せたが、すぐに自身の桃色の髪を指先でいじりながら、少し困ったように微笑んだ。
「確かに、昨日会っただけのお嬢ちゃんに、そこまでしないかもしれないわね。でもね、あなたが私の妹に少し似ていたからかな、多分……」
(妹?……)
その予想もしていなかったレレナの答えに、森の中で一人で過ごしてきたインキューネは目を丸くしつつ、少し寂しげな表情を浮かべながら心の中で呟いた。
(なるほどね、私を自分の妹と重ねたのね。……でも、家族なんて私にわかるわけないわ)
家族、姉妹。それは悪魔にとって無縁な言葉だ。自分がいつから生きているのか、彼女自身にも分かっていない。ただ悪魔として生を受けてから、誰かに育てられた記憶も、誰かとこうして温かい会話を交わした経験もないのだから、孤独なインキューネがそう思うのも無理はなかった。
(そういえば、昨日、この子に言ったわね。『私は群れない、一人で生きてきた』って)
ふと、昨日の路地裏でレレナに催眠をかけた時の光景がインキューネの脳裏に蘇る。
(まぁ、私が悪魔だという記憶は消してるし、当然、今のレレナが覚えているわけがないわね)
しかし、何故だろう。あの時、レレナが向けてきた憐れむような眼差し――あれを消してしまったことに、インキューネはほんの少しだけ引っかかりを覚えていた。
けれど、今の自分には関係のないことだと思い直し、(またあんなことを思い出すなんてね。けど、私にはどうでもいいことよ……)と、心の中で強がって呟きながら、インキューネは思わず視線を落としていた。
しかし、胸の奥は少しだけ重くなった気がした。これまで、自分の邪魔になる人間の記憶を何度も消してきたというのに。消したことに引っかかりを覚えたのは、これが初めての経験だった。
「お嬢ちゃん、どうしたの。そんな難しい顔をして……」
心配そうなレレナの声に反応したインキューネは、ハッと我に返り、彼女へ視線を戻すと、いつも通りの演技を続けて口を開いた。
「ううん、なんでもないよ。考え事していただけ」
「そう、よかった。じゃあ行きましょう」
安心したような笑みを見せたレレナは立ち上がると、再び彼女の手を引いて歩き出した。インキューネは『うん』と短く返事をしつつ、(この子はまた私の手を……でも、昨日と同じね)と心の中で呆れを呟いた。しかし、再び感じた彼女の手の温かさに、大人しく引かれるままに従った。
そして、繋いでいない方の手で厨房の扉を開けようとした時、レレナはふと思い出したかのように昼過ぎの空を見上げた後、視線をインキューネに向けてあることを尋ねてきた。
「そういえば、昨日、名前を聞いていなかったね。なんていうの?」
「名前……」
名前に興味があるという顔をするレレナ。その突然の問いに、インキューネは言葉を詰まらせつつも少し考えた。
(そういえば、そうよね。あの時は名前を名乗らずに料理を食べて、そのまま夢を喰らったんだものね。でも、ここで本名を使うのは流石にまずいわね。だったら……)
数秒の沈黙の末、インキューネは自身の名前を少し切り取って答えた。
「私は……キュネ、キュネよ」
演技とは関係のない、真顔での返答。しかし、彼女が口にしたのは偽名だった。
「へぇ、キュネちゃんね。中々いい響きだし、素敵な名前じゃない」
インキューネの真顔にも、それが偽名という嘘であることにも気づくことなく、レレナは嬉しそうに微笑んだ。
(偽名なのに、いい名前ですって。私の方があなたよりずっと年上なのに……まぁ、この見た目なら仕方ないか。私も普通にレレナを『お姉ちゃん』って呼んでいるしね)
インキューネはどう返していいか分からず反応に困ってしまったが、不思議と、その名前で呼ばれるのは嫌いではなかった。
(……そういえば、人間に名前を呼ばれたことなんて、一度もなかったわね。偽名だけど。まぁ、戦争でやられたあいつには、本名で呼ばれていたけれど)
だが、あれは悪魔同士のただの挨拶、ただの呼び名でしかない。けれど、それとレレナの声とでは全然違う。「キュネちゃん」という優しい呼び方には、どこか温かいものが混じっていた。
すると、インキューネが動揺を隠している中、レレナは笑顔で「私はレレナ。レレナよ。よろしくね」と名乗った。
(レレナ、知っているわよ。昨日、おばさんが言っていたのを聞いているからね……)
すでに名前を知っているインキューネは、内心では何とも思わないつつも、無邪気な演技のまま答えた。
「うん、よろしく。レレナお姉ちゃん」
そう名前を呼ばれると、何故かレレナは、すごく嬉しそうな顔をした。だが、インキューネは表情を崩さず、手を引かれるまま厨房の中へと足を踏み入れ、前を歩く彼女の顔を、ちらりと見上げた。
(なんだろう、またこの気持ちは…… それに、さっき「いい名前」って……全部、嘘なのに。それに、私、今、レレナお姉ちゃんって呼んだけれど……。いや、考えるな、私。私は、レレナの甘い欲望が目当てなんだから、名前も、彼女の料理も、ついでよ、つ・い・で!)
そうまた強がりを心の中で呟きながら店内へと向かう途中、厨房でかまどを見ていたファナおばさんがレレナとインキューネの存在に気づいた。
「あら、あんたは昨日の……」
そう真顔で言うファナおばさんに、インキューネは薄い笑みを見せながら挨拶を返した。
「こんにちは、おばさん」
するとファナおばさんはかまどを見るのをやめ、彼女に近づいて身をかがめ、まじまじと見つめてきた。
インキューネは思わず繋いでいた手を離し、レレナの腰にしがみつきながらその後ろに隠れた。
(そんなに近くで見られると困るわね。……そういえば、このおばさん。昨日も厨房から顔を出していたっけ)
だが、あの時は遠目だった。こうして間近で見られるのは初めてだと感じるインキューネ。その様子を見たレレナが気を利かせてくれたのか、「おばさん、見すぎです」と言うと、ファナおばさんは「ごめんごめん」と笑いながら返し、立ち上がった。
すると、インキューネはファナおばさんにちらりと目をやり、観察しながら考えた。
(やっぱり、レレナの記憶をいじっておいて正解だったみたいね。このおばさん、私のことを、しっかり見ていたようだし。まぁ、問題ないわ)
そう静かに納得するインキューネをよそに、レレナは真面目な顔で、静かに答えた。
「……あのう、おばさん。実はこの子、キュネちゃんって言って、昨日の子なんですけど……」
「キュネちゃん? そう、キュネちゃんっていうんだね。……いい響きの名前じゃないか」
ファナおばさんは、レレナにインキューネの偽名を確かめるように繰り返し、インキューネを褒めた。
(はぁ、まさかこのおばさんに偽名を褒められるなんてね。まぁ、いいけど、どうせ本当の名じゃないし……でも……まぁいいか)
呆れつつも、一瞬何かを考えかけたインキューネだったが、それ以上は必要ないという顔つきで心の中で呟いた。すると、レレナはそのまま言葉を続けた。
「はい、それでね。今日も私に会いに来てくれたんです。この裏口から……」
「裏口から? なるほど、そんな珍しいこともあるもんだね。……けど、二日連続で来るとは思ってなかった……まぁ、でも、あなたは色々と事情がありそうだし詳しく聞かないでおくが、よっぽどレレナの料理が気に入ったのね」
レレナの言葉に納得したファナおばさんの反応に、インキューネは目を丸くした。
(えー、詳しく聞かないの。まぁ、料理が気に入ったのは事実だけど)
何かを問い詰められるかもしれないと思ってレレナにしがみついていたインキューネだったが、あっさり流されて拍子抜けしてしまった。だが、続けざまにファナおばさんは薄い笑みを見せ、インキューネをまた見つめてきた。
「でも、よく見るとあなた、可愛い顔をしてるじゃないか」
(はぁ、名前の次は可愛いですか。まぁ、そうよね。これはただの霧で作った、大人を騙すためのもの。そう言われるのも当然よね)
おばさんにそう言われても、名前を褒められた時とは違い、作り物の姿を褒められても何も感じないインキューネは、しがみつくのをやめ、完璧な演技の笑顔を見せて「ありがとう、おばさん」と返した。
「いいんだよ。ほら、レレナ。早く、その子をテーブルに案内しな」
インキューネの演技の笑顔に騙されたファナおばさんは、薄い笑みを見せながら、パタパタと左手を振った。すると、レレナは少し言いにくそうな顔をしつつも、ファナおばさんにあるお願いをした。
「はい。……あの、おばさん。今日は私も、この子と一緒に食事をとっていいですか?」
「どうしてだい?」
そのお願いに、ファナおばさんは不思議そうに問い返した。するとレレナは、困ったように笑いながら答えた。
「この子、人が多いところだと不安みたいなので、私が一緒に食べたら安心するかと思って」
そのレレナの話を聞いて納得した表情を浮かべ、ファナおばさんは言葉を返した。
「なるほど、そういうことね。まぁ、二日続けて賄いを振る舞うことになるけど……レレナ、あなたがしっかり面倒を見てあげなさい」
「ありがとうございます、ファナおばさん」
ファナおばさんに許可をもらえて喜ぶレレナが改めてお礼を言うと、おばさんは「いいんだよ」と優しく返した。
そのやり取りを静かに見ていたインキューネは、呆れ顔を向けて心の中で呟いた。
(はぁ、今日、私が出会った誰も彼もが、そんな優しい言葉をかけるなんてね。人間なんて、悪魔だと分かれば、攻撃してくる生き物のくせに。この子供の姿だからこそ、受け入れられているのでしょうけど……それにしても、今日は、皆、優しすぎるわ。レレナも含めて)
けれど、自分が悪魔である事実に変わりはないのだからと、彼女はこれ以上何も考えなかった。すると、レレナは「じゃあ、キュネちゃん。店内へ向かいましょう」と笑顔を向け、再びインキューネと手を繋ぎ直して、二人は厨房から店内へと歩き出していった。
だが、その扉の先に座っているのが誰なのか——インキューネは、まだ知らなかった。




