第30話 『キュネ』と呼ばれし迷子の少女、再び
ファナおばさんとナセド様が私の知らないところで会話している頃、立ったままの私は厨房で竈に自身の微弱な火魔法で火をつけ、左手を顎に当ててその揺らめきを少し眺めていた。ちなみに、私の代わりの接客は、いつもファナおばさんと一緒に料理を作ってくれている若い男性従業員に頼んだ。彼は私の顔つきを見て不思議そうにしていたが、私は「大丈夫」とだけ返しておいた。
「……暑い。少し外の空気に当たろう」
顎から手を離し、ブラウスの胸元の襟を左手でひらひらと揺らしながら、私はそう呟いた。この熱さが、ナセド様と会ったことによる頬の火照りなのか、それとも竈の熱のせいなのかは分からないけれど、厨房に戻ってからも私の顔はずっと熱いままだったのだ。
「外に出れば、火照った顔もきっと冷めるはずよね」
竈の熱気によって出た汗をエプロンで拭き取り、私は厨房の裏口へと向かい、扉をガチャリと開けた。
ひんやりとした正午過ぎの風が、私の火照った身体をゆっくりと撫でていく。桃色の髪が風に揺れる中、私はそっと小さく息を吐いて、下に視線を落とした。
私の目の前に、小さな人影が立っていた。紫がかった黒いワンピースに、肩にかかる程度の短い紫髪、そして紫の瞳を持ち、足元には紫色の革靴を履いていた。
——昨日、私の作った賄いを美味しそうに食べて、そのまま家まで送っていった、あの子だ。
「あれ、あなたは……」
「こんにちは、お姉ちゃん」
少女は私と目が合うと、パッと顔を輝かせ、満面の笑顔を向けて挨拶をしてきた。
(この子は、昨日レストランから、確か路地裏を通って送った子よね。……どうしてまた、ここに。けど、昨日と同じでお母さんの姿がない。前にも思ったけれど、多分この子は訳ありかもしれない)
曖昧な記憶を辿りつつ、不思議そうな顔で見つめていた私は、(でも、深く聞くのはやめておきましょう。この子が困りそうだし)と心の中で頷いた。そして、数秒無言になった少女の表情を読み取り、(もしかして、またお腹が空いているのかな?)と考えた。
「こんにちは……」
とりあえず挨拶を返し、私はしゃがみ込んで彼女と目線を合わせた。そして、その紫色の瞳を見つめながら、薄い笑みを浮かべて優しく尋ねた。
「どうしたの、お嬢ちゃん。こんなところで。もしかして、またお腹が空いたのかしら?」
私の問いに、少女は数秒だけ何かに気づいたような顔をしたが、すぐに無邪気な笑顔を見せてこう返した。
「ううん、今日はね、お姉ちゃんに会いに来たくて来ちゃったの」
「えっ?」
少女の予想外の答えに、私は思わず目を丸くしてしまった。なぜなら、てっきりまた私の作った賄いを食べにやってきたのだと思っていたからだ。
でも、そう言われるとなぜか嬉しかったし、悪い気はしなかった。それに、そんな無邪気な仕草がまた、どこか妹に似ているような気がしたのだ。
(うふふ、全く。でも……)
内心でそう笑いながら、私は自然と頬が緩むのを感じて言葉を続けた。
「そう、私に会いに来てくれたのね。」
そう告げると、少女はなぜか一瞬、複雑な顔を見せたが、私は気にも留めず、優しく微笑みながらある提案をした。
「……でも、今は仕事が忙しいから相手はできないけれど。……もしよければ、また私の料理を食べていく?」
「でも、昨日も言ったけど、私はお金が……」
しかし、少女は困ったような顔で答えた。私はまた昨日のように、優しく声をかける。
「大丈夫よ、お嬢ちゃん。今日も私が作った賄いがあるから」
その言葉を聞くと、少女は何故か納得したような顔つきを浮かべたような気がした。だが、すぐに不安そうな顔で言葉を続けた。
「でも、今日は人が多いじゃない。あまり迷惑をかけたら……」
少女の不安そうな言葉と表情に、私は(なるほど、そうよね。昨日はあまり客はいなかったけれど、今日はそれなりにたくさんいるわ。知らない人がたくさんいる場所にいたら不安になって、心細くなるのも仕方ないよね……でも)と内心で納得しつつ、いいことを思いついたように微笑んで、彼女にある提案をしてみた。
「そっか……そうよね。人がいるところなら、不安になるよね。じゃあ、私と一緒に食べよっか。店内で」
微笑んだままの私の提案に、少女は「えっ……」と思わず言葉を失いながら目を丸くした。その反応は、私にとって少し予想外だった。
(あら、いきなりそんなことを言われて驚いちゃったかな。でも、昨日みたいに一人で食べるよりも、私と一緒に食べれば、この子も安心するはずよね)
少女は少し黙り込んでいたが、すぐに不思議そうな顔を向けて、私にこう尋ね返した。
「ねぇ、お姉ちゃん。どうして昨日会っただけの私に、そんなに料理を食べさせたいの? 一緒に食べようとまで言ってくれるし……」
(そういえば、そうよね。確かに昨日、一度会っただけのただの子供。でも、彼女の顔を見ていると……昨日美味しそうに食べていた顔が妹に似ていたからかもしれないけれど、何故だろうね)
自分でもよく分かっていなかった。少女の質問に少し驚きつつも、私は自身の桃色の髪を指先でいじりながら考えた。彼女を見ていると、『この子のことを放っておけない』と、何故だかそんな気持ちが、私の中にあったのだ。
自分なりに色々と考えた結果、私は少し困ったように微笑みながら答えた。
「確かに、昨日会っただけのお嬢ちゃんに、そこまでしないかもしれないわね。でもね、あなたが私の妹に少し似ていたからかな、多分……」
そう口にした私は、また故郷に残してきた可愛い妹のレイミのことを思い出した。
実家で一緒にお菓子を作ったり、二人で並んでお茶を飲んだ日々。あの子はいつも、私が淹れたお茶を『美味しいよ』と嬉しそうに言ってくれたっけ。
そして、村を旅立つ日に『行かないで、お姉ちゃん』と涙を流していた妹の顔が、別れて一年経った今でもふと浮かんでくる。
(……レイミ、元気にしているかしら)
いや、いけない。今は昔のことを思い出して感傷に浸っている場合じゃない。
私は小さく首を横に振って、思考を現実へと戻した。そして視線を少女に落とすと、彼女は何故か俯いたまま、難しい顔で黙り込んでいた。
(あれ、どうしたんだろう。急に黙り込んじゃって)
もしかして、妹に似ていると言われたのが嫌だったのだろうか。それで困っているのかもしれない——そう思うと不安な気持ちになった私は、気がかりになり少女に声をかけた。
「お嬢ちゃん、どうしたの。そんな難しい顔をして……」
心配な顔をして覗き込もうとすると、私の声に反応した少女はハッと顔を上げ、すぐに平気そうな顔を見せて答えた。
「ううん、なんでもないよ。考え事していただけ」
「そう、よかった。じゃあ行きましょう」
(なんだ、考え事か。てっきり『妹みたい』って言われたのが嫌だったのかと少し心配したけど、安心したわ)
そう心の中で安堵しつつ、私はほっとした笑みを見せ、立ち上がり、昨日と同じように少女の小さな手を握った。すると彼女は「うん」と短く頷いて、私たちは厨房の扉まで歩き出した。
ふと、少し思い出した気がする。そういえば、昨日もこの子の手はとても温かく感じていたんだったわ。
(でも、なんで忘れていたんだろう……いや、考えるのはやめるか。今はこの子と一緒にご飯を食べるんだからね)
よく分からない記憶の違和感があったような気がしたが、今はこの子に料理を食べさせるのが先決だと、私はその思いを胸の奥にしまい込み、繋いでいない方の手を扉にかけようとした。
その時、ふとあることに思い至った。
(そういえば、昨日この子に名前を聞いていなかったわ。料理を食べさせた後、名前も聞かずに送っていったはずね)
名乗って呼び合えば、もっとこの子と仲良くなれるかもしれない。そう思った私は、扉にかける手を止め、少女に視線を向けて尋ねてみることにした。
「そういえば、昨日、名前を聞いていなかったね。なんていうの?」
私の問いに、少女は「名前……」と呟いて、また何か考えるように黙り込んだ。
(あれ? もしかして、名前を聞いてはダメだったかしら)
そう不安に思いながら私は少女の様子を窺っていると、数秒後、彼女はこちらを見つめ返して真顔で答えた。
「私は……キュネ、キュネよ」
(あっ、答えてくれた……)
名前を教えてくれたことに喜びを感じつつ、私は嬉しそうな顔で微笑んだ。
「へぇ、キュネちゃんね。中々いい響きだし、素敵な名前じゃない」
そう褒めると、どうやら嫌な思いはさせなかったみたいだと私はほっと胸を撫で下ろした。そして、私も自分の名前を返すことにした。
「私は、レレナ。レレナよ」
そう名乗ると、その子は無邪気な笑顔を見せながら、「よろしく、レレナお姉ちゃん」と呼んでくれた。
(レレナお姉ちゃんか。とても嬉しいわ。妹以外に、そう呼ばれるなんてね)
名前を呼ばれて、嬉しさを感じながら、私は再び手を引いて厨房へと足を踏み入れた。
キュネの名前を聞いただけなのに、私の胸は少しだけ温かかった。これは、あの甘い夢の時とは違う、穏やかな気持ちだと理解しながら、私は歩みを進めた。




