第29話 甘い呪いを抱えた娘を案じる王子
戦争があり、レストランに迷い込んできた子供に私が作った賄い料理を食べさせて家まで送り、そして——ナセド様の甘い夢を見た、翌日のこと。
私はいつも通りの仕事着を着て、レストランで仕事をしている……はずだった。
油ランプが揺れる店内は、戦争後だからか今日も賑わいを見せている。私は一人、空いているテーブルを拭きながら、ふと天井を見上げた。
『愛しているよ、レレナ』
『この方が可愛いな』
夢の中でのナセド様の甘い囁きが何度も頭をよぎり、思わず頬を染める。私は天井を見上げるのをやめ、テーブルを拭いている空いている手で、赤くなった頬に触れた。
(あぁ、もう。また私ったら、あんなことを思い出して。現実のナセド様はそんなことを言わないのに。それに彼には妃候補のレーナ様がいるんだから。でも……)
現実でも『愛している』と言われたいと、そう思ってしまった。
けれど、私は平民の娘で、ナセド様は王族。たとえ私が彼を愛していても、現実で彼に『あなたが好きです』と応えることは私にはできない。何度も自分に言い聞かせてきたように、今の関係で十分だ。
でも、あの夢にはその身分の壁がなかった。私にとっての、都合が良くて幸せな夢だった。けれど、もう二度と見る機会はないだろうから、今の想いを胸にしまって、普段通りの日常に戻らないといけない。
「……とりあえず、今は仕事をしないと……」
頬に当てていた手を下ろし、そう呟いて再び片方の手でテーブルを拭いていると、ガチャリとレストランの扉が開いた。そこにいたのは、甘い夢の中ではない、現実のいつもの平民の服を着たナセド様だった。
「来たぞ、レレナ」
そう声をかけられると、テーブルを拭いていた私は顔を上げ「あっ……こんにちは、ナセド様」と挨拶を返したけれど、いつもの調子が出ず、思わず下に視線を向けてしまった。あんな夢を見た直後なのだから、彼の顔を直視すれば、真っ赤になってしまうかもしれないからだ。
しかし、そんな動揺する私をよそに、ナセド様は私の様子を不審に思ったのか、眉間に皺を寄せながら心配そうな顔を向けた。
「どうした、レレナ。顔が赤いが」
「いっ、いえ」
(しっかりしなさい私。夢は夢。現実は現実よ)
夢と現実を一緒にしてはいけない。そう強く言い聞かせて、私は慌てて視線を戻した。必死に顔を取り繕い、いつもの笑顔を作る。
「大丈夫です、ナセド様」
彼を安心させるように、優しくそう言った。
「そうか」
ナセド様は、少し腑に落ちない顔をしつつも、私の言葉に納得してくれた。
「はっ、はい。じゃあ、私は厨房に戻りますので」
少し言葉を噛みそうになりながらも必死に笑顔を取り繕い、私が厨房へと向き直ると、ナセド様が「あぁ、わかった。無理はするなよ」と優しい言葉をかけてくれた。
「はい、ナセド様」
動揺を隠しながら、ちらりと後ろを振り向いて笑顔で返事をすると、私は束ねた桃色の髪を揺らしながら、厨房へと向かった。ナセド様も、そのままテーブルへと歩いていく。
***
レレナが厨房へ向かった時、ファナおばさんがすれ違いざまに、ナセド殿下が座るテーブルへ足を運び、笑顔を向けながら労いの言葉をかけた。
「いらっしゃい、ナセド殿下。戦争、お疲れ様です」
ファナおばさんの言葉を聞いたナセドは、彼女の方へ視線を向け、真面目な顔でそう告げた。
「あぁ、ありがとう。当たり前のことをしただけだ」
「そうですか……けど、今日のあの子、少し変なんですよね」
『あの子が変』という言葉に反応したナセドは、さっきのレレナの様子を思い返しながら眉を顰め、「変? 何かあったのか」と問い返した。
すると、ファナおばさんは真面目な顔つきになり、淡々と答えた。
「昨日、迷子の子供がレストランに迷い込んでね。」
「はぁ、戦争中にか?」
その言葉を聞いたナセドは、驚きと共に目を見開いた。何故なら、南の区画や貴族街にだけ戒厳令を出していたとはいえ、城下町の北に子供が一人で迷い込むなんて少しおかしかったし、街全体は緊張に包まれていたからだ。
「ええ。でも多分、何か訳ありだったんだと思いますよ、ナセド殿下」
「訳あり、か?」
『訳あり』という言葉に反応したナセドは、青い瞳を細め、険しい表情で尋ね返した。すると、ファナおばさんは少し困惑したような顔を向けて淡々と答えた。
「はい。遠目から見ただけですが、服装や雰囲気に何か訳ありな事情を感じました。名前は聞いていませんがね」
「なるほど、雰囲気や服装を見た感じで、名前も聞いていないのか……」
ファナおばさんの話を聞いたナセドは、視線を下に向けて考えた。
(だが、訳ありで名無しの子供が一人で迷い込むなんて、あり得るのか……。遠目からの印象しか聞いていないが、詳しい外見についても聞いてみるべきか?)
だが、そこまで考えるのは王子として行き過ぎだろうと、ナセドは視線を戻した。
(いや、やめておこう。たかだか一人の迷子の子供ごとき、今は深く考える必要はないか)
そう考えるのをやめて、その後のことを切り出すことにした。
「それでその迷い込んだ子供がどうした?」
「はい、レレナが、その子に自分で作った賄いの料理を食べさせたんですよ」
「レレナが賄いの料理を……」
ファナおばさんはチラリと厨房へ目をやりながら、真面目な表情を崩さないまま語り続ける。その言葉に、ナセドは興味津々な顔つきになり、左手を顎に乗せた。
(なるほど、レレナは料理も作れるのか。ぜひ食べてみたいが……今はそんな話ではないな)
少しばかり『レレナの手料理を食べてみたい』という思いを抱きつつも、今はファナおばさんの話が先だと、真面目な顔へ戻って、乗せていた手をテーブルの上に下ろして耳を傾けた。
「それで?」
「実はその後、あの子が、その迷子の子供を家まで送ってあげたんです。一人じゃあ物騒だからって言ってね」
「なるほど、レレナらしいな」
ファナおばさんからレレナの行動を聞き、相変わらずのお人好しぶりだと納得したナセドは、口元を緩ませて穏やかな表情を彼女に向けた。
だが、ファナおばさんは、真面目な顔から困惑した表情へと変わり、言葉を続けた。
「えぇ、そうなんですがね……それが」
「それが……何だ?」
言葉を濁すようなファナおばさんの様子に、ナセドは目を細め、静かに問い返した。
「あの子が、やけに遅く帰ってきましてね。その後から、さっきのように少し様子がおかしいんですよ」
「様子か……」
彼女の話を聞いて、緩んでいた口元がすっと引き締まり、ナセドは険しい表情へと戻った。
(確かにおかしかった。だが、彼女は大丈夫だと言っていたな。……帰りが遅かったことと、関係があるのか)
そう深く考えながらも、ナセドはファナおばさんに尋ねた。
「おばさん、遅くとはどれくらいだ」
表情を崩さずに問いかけるナセドに、ファナおばさんは困惑した顔のまま答えた。
「はい、日が暮れる頃でしたかね。昼に迷子の子供を送りに行ったにしては、あまりに遅すぎましてね」
「何?」
その話を聞いたナセドは、目を見開きながら驚きの表情を見せた。何故なら、ただ迷子の子供を送るだけにしては、いくらなんでも遅すぎるからだ。
「えぇ。心配になった私が『遅かったね』と聞いたら、あの子は『道草をしていました』と言ったんです。でも、私に心配をかけまいとする嘘だと思いますよ。まぁ、実際のところはわかりませんがね」
(道草か……まぁ、レレナが他人に心配をかけまいとする性格なのは、最初からわかっている。けど、俺から無理に聞き出そうとしても無駄だろうな)
ファナおばさんから聞いたレレナの性格を理解しつつも、彼女に直接聞いてもまたはぐらかされるだけだろうと、ナセドは半ば諦めたような顔をした。
だが、昼過ぎから夕暮れまでの時間は、道草をするにしてはあまりにも長すぎる。それに、今の彼女に病気や怪我といった様子はない。それでも、普段の彼女ではないという印象だけは拭えなかった。
しかし――
(……いや待てよ)
ふと、昨夜の街灯に照らされた北門の光景が蘇り、あの衛兵たちの『疲れた目』を思い出した。
(思い返せば、あの時の衛兵たちの様子もどこかおかしかったような……けど、あの時は異常がないと俺も納得した。でも、レレナの帰りが遅かったことも、おかしいとなると話が変わる。街の外から何者かが侵入したという話もないし、人々を騒がせるような大きな事件も起きていない。だとすれば、レレナに近づいたあの子供が、何か関わっているのだろうか……うーん、やっぱりわからんな)
答えの出ない思考を一旦棚上げにすると、ナセドはファナおばさんに向かって言った。
「……わかった。彼女と会えるのはレストランにいる時くらいだが、俺の方でも気にかけておこう」
その言葉にホッとした顔つきを浮かべたファナおばさんは、ナセドに顔を向けた。
「ありがとうございます、ナセド殿下。でも多分、私やあなたが『本当のことを教えて』と言っても、あの子ははぐらかすと思いますから」
「そうだな」
ファナおばさんは薄い笑みを浮かべ、心の内を見透かされたナセドは深く頷き、(そうだ、その通りだ)と納得するしか、今の彼にはできなかったのだ。
そして、おばさんは「じゃあ、私は仕事に戻りますね」と優しく言って厨房へ戻っていき、一人残されたナセドは、静かにレレナのことを考えながら天井を見上げた。
(レレナ、君は昨日、迷子の子供を送った後、一体何があったんだ……)
また彼女のことを心配しつつも、再び厨房から出てきていつものように料理を運んでくれるのを待つ。しかし、彼はまだ知らない。その疑問の答えである『迷子』本人が、今まさにレストランへやって来ていることなど――。




