幕間27 優しさに再び触れたインキューネ
戦争から一日後。朝なのに薄暗いシェフリアの森の木の上で、黄色い木の実を齧りながら、悪魔インキューネはレレナの夢を思い出し、独りごちていた。
「あぁ、退屈、退屈。実に退屈。昨日のレレナの夢の甘い欲望、美味しかったな。また食べたい、食べたいわ……」
しかし、ふと半分齧った木の実を持つ手を止め、じっと紫の瞳を細めてそれを見つめると、ぽつりとこう呟いた。
「でも、あの子が作ったものをもう一回食べてみたいと思ったのは、何故かな。何故かしらね」
再び木の実に齧りつくインキューネ。しかし、いくら食べても心は満たされなかった。夢を喰らいたいという悪魔の本能があるからだ。さらに言えば、レレナから受けた優しさと、彼女の作ったものをまた食べたいという、これまでにない変な気持ちまで湧いてくるのだ。
「……あの子のところにまた行こうかしら……無理をしてでも、あの女が潜んでいるかもしれない国に」
そう考えるインキューネ。だが、彼女の侵入が成功したのは、戦争による混乱があったからに過ぎない。二度目となれば人通りも多く、聖騎士団や冒険者たちの目もある。さらに言えば、かつて自分を燃やしたあの女が潜んでいるかもしれない国には、迂闊には近づけないのだ。たとえ人の姿に化けたとしても、衛兵に催眠をかけようとすれば、それを目撃する者が現れるだろう。
慎重さを持つインキューネでありながら、それでも無理をしてでもレレナに会いたいという気持ちが、言葉になって漏れてしまう。
それが夢を喰らいたいからなのか、彼女の料理を食べたいからなのか――その本当の理由は、インキューネ自身にもまだ分からないのである。
「うーん、どうするかな」
がたん、ごとんと。不意に、インキューネの近くから重い何かが揺れるような音が聞こえてきた。
「ん? なんだ?」
インキューネは木の枝から飛び降りると、黒い翼をパタパタと羽ばたかせながら、音のした方向へと向かった。
そこにあったのは、ゆったりと二頭の馬に引かれた一台の馬車だった。
「ふぅ、王都までもう少しだな、お前」
「あぁ、そうだね、あんた」
馬車に乗っていたのは、商人らしき一組の初老の夫婦だった。一人は青い髪、もう一人は薄い茶髪をしている。それを木陰から見ていたインキューネは、どうでもよさそうな顔でふぅと息を吐いた。
(なんだ、ただの商人か……ここは、無視しても……)
普段の彼女なら、通りがかった人間の記憶を容赦なく消すところだが、今のインキューネはやる気が出ず、無視してやり過ごそうとした。だがその時、馬車から穏やかな会話が聞こえてきた。
「なぁ、お前。久しぶりに王都に着くけどさ。リーアのやつ、しっかりやっているかね」
「さぁな……だが、あいつは仕事熱心だから、たぶん、大丈夫だろうさ」
「そうだね」
そう会話する二人の商人を無視しようとしていたインキューネだったが、『リーア』という名前にピクリと反応した。
(……なるほど、あのおばさんとおじさんには娘がいるのかな……)
興味深そうな顔つきになったインキューネは数秒考え込むと、何かを思いついたように紫の瞳を怪しく光らせた。
(あっ、そうだ。あのおばさんたちを利用して、私の催眠で乗せてもらうか……)
インキューネは初老の夫婦を利用して、再び王都へ潜入しようと、隠れていた木の陰から出ようとした。だが、馬車に近づきかけたところで、その足を止めた。
(いや、おばさんたちごときに、この力を使うわけにはいかないわ。それにあの人たちなら、催眠なんて使わなくても大丈夫でしょう。ここは行き倒れの少女を演じて、乗せてもらおうかしらね。ついでに、そのリーアという子の情報も、さりげなく聞き出そうかしらね。まぁ、レレナに会う口実に、その娘の夢を喰うか喰わないかは、置いておくとしてね)
インキューネは、人を欺いて利用しようと考えた。しかし同時に、あの夫婦のことを、根の優しい人たちだとも見抜いていた。レレナ以外の人間に対してそんな風に感じたのは、これが初めてだった。
そして、ついでにその娘にも興味を抱いた――それは、次の獲物になるかもしれないという、彼女の本能から出た呟きだったのだ。
「よし、じゃあ森の入り口で待ち伏せするとしますかしらね」
怪しく光っていた紫の瞳を静かに閉じると、その体を黒い霧が渦を巻いて包み込み、昨日と同じ人間の姿へと変わった。
「じゃあ、いきますか」
インキューネは怪しい笑みを浮かべながら、人間の姿で森の入り口まで歩いていった。
***
それから三十分後。
がたん、ごとんと、馬車は王都へ向かって進んでいた。
「よし、もう少し行けば森を抜けて王都へ……なんだ、あれ?」
馬を操っていた茶色の帽子を被った初老の男が、進む先の道端にうつ伏せで倒れている黒いワンピースを着た少女に気づき、馬車を停めた。
「おや、急に馬車が止まったね。あんた、どうかしたのかい?」
「いや、あそこに女の子が倒れているんだよ」
青い髪の妻が不思議そうな顔をしながら尋ねると、初老の男は左手で紫髪の少女を指差して言った。
「なんですって、女の子……?」
男に言われた妻は慌てて馬車から降りていき、少女へと近づくと、しゃがみ込み抱き起こしてそっと仰向けにさせた。少女は息をしてはいるものの、目を閉じて眠ったままだ。妻は心配そうな顔を向けながら声をかけた。
「うぅん……はっ。あれ、ここは?」
行き倒れの少女を演じるインキューネがわざとらしく目を覚ますと、心配そうな顔をした妻は、彼女の紫髪をそっと撫でた。
「大丈夫かい、お嬢ちゃん。ここは森だよ」
「……」
(いきなり、私の髪を撫でた……?)
これは、あの時レレナに優しくされた時と同じ感覚だった。インキューネは少し調子を狂わされ、思わず無言になってしまう。
けれど、(まぁ、人間に頭を撫でられるのも悪くないか)とすぐに能天気に考え直したインキューネは、紫の瞳を潤ませながらこう返した。
「あの、おばさん。私、王都からお花を摘みに森へやってきたの。王都にいるお母さんのために。それで帰る途中、疲れて眠ってしまって……」
それは、衛兵にも同じことを言った手口だった。おばさんは「お花?」と彼女の手元を見るが、それらしきものはない。
それでも、「そうか、途中でお花を無くしてしまったんだね」と、おばさんは少しも疑うことなく彼女の嘘を信じ込んだ。
「おい。あんたこの子を王都まで連れて行かないか?」
おばさんが後ろを振り返り、男に提案する。彼は少女の話を馬車の上で聞いていたが、疑わしげにこう返してきた。
「おいおい、こんな森に一人で花を摘みに来た少女だぞ。少し怪しくないか。それにこんな時間だし」
(ちっ、やっぱりダメか。なら私の催眠で……)
内心で毒づきながら、紫の瞳を怪しく光らせようとしたその時だった。
「いいじゃないか、あんた。この子、昔森で遊んでいたうちの娘に少しだけ似ているし、こんなに可哀想なんだよ。それに勇敢じゃないか。こんな時間に一人で森まで花を摘みに来るなんて、そうそうできることじゃないわ」
妻が強い口調で男を説き伏せる。その勢いに押し切られたのか、男は「はぁ」とため息をつき、仕方なさそうな顔を向けた。
「……わかった、乗りなさい。でも、王都へ着いたら自分で帰るんだぞ」
そっけない口調ながらも、男は少女姿のインキューネに向かって優しくそう言った。
そしてインキューネはゆっくりと身体を起こし、そのまま立ち上がると、ワンピースについた汚れを軽くバタバタと落とした。
子供らしい満面の笑みを浮かべ、怪しい光を消した紫の瞳で軽く会釈をしながら、「ありがとう、おばさん、おじさん」とお礼を言った。
「いいんだよ。……じゃあ、行きましょう」
おばさんは立ち上がると、少女の小さな手を優しく引いて、馬車の荷台へと一緒に座った。その後ろには、様々な衣類や、貴族が着そうな美しいドレスが木箱に積まれていた。
(これが人間が着る服……かしらね)
インキューネは後ろをチラリと見て、興味津々な様子を見せる。彼女が今着ているワンピースも黒い霧で作った擬態に過ぎず、悪魔である彼女には本来、人間のように服を着る習慣がないからだ。
「なんだい、嬢ちゃん。その服に興味あるのかい?」
「いえ、そんなんじゃないけど」
そっけない返しをするインキューネだったが、その視線は再び木箱へと戻っていた。特に、美しいドレスへと目を奪われてしまう。
(あれは、確か貴族が着る服だったわね。けれど、とても質がいいように見える。これまで喰らった女性たちにも貴族は何人かいたけれど、このドレスはそれ以上かもしれない……)
悪魔インキューネは、何故かレレナが着る姿を想像しながら、(この服、レレナが着たら似合いそうね。次に夢を見せる時、これを参考にしてみようかしらね)と、少し悪い笑みを浮かべて考えた。
「あっ、忘れてた。ねぇ、おばさん、おばさん」
「なんだい?」
インキューネはドレスに見入っていた時の感情をスッと消し去り、いつもの無邪気な子供の顔を作り直して尋ねた。
「さっき、森でおばさんが『娘』って言っていたのが聞こえたんだけど……もしかして、おばさんたちには娘さんがいるの?」
「あら、聞いてたのかい」
自分たちの会話を聞かれていたことに、おばさんが不思議そうに問い返すと、インキューネは「うん」と可愛らしい顔を向けて頷いた。
「実は、うちの娘はリーアといってね。嬢ちゃんよりずっと年上の娘でね」
(なるほど、さっき馬車で聞いた通りリーアっていうのか。でも、その娘ってこの姿の私より年上ってことね……まぁ、娘だっていうから、レレナと同じくらいでしょ)
そう自分で納得し、若い娘だろうと当たりをつけたインキューネに、おばさんは言葉を続けた。
「まぁ、あなたと同じくらいだったころはやんちゃな娘だったけどね」
(『やんちゃ』……その言葉の意味は私にはよく分からないけど。多分、手に負えない子供ってことかしらね)
おばさんの「やんちゃ」という言葉に、分からない顔をしつつも、リーアという子が昔は色々やっていたのだろうと、彼女はそう理解した。
「まぁ、今は立派に私たちの仕事を継いで、一人で店を切り盛りしているんだ」
「一人……」
その言葉を聞いて、インキューネは思わず顔を伏せ、視線を落とした。つい昨日、レレナに『私は群れない』と言い放った自分と、おばさんが語る娘の姿を重ねてしまったのだ。
(……いや、違う。私は悪魔インキューネ。一人で森で過ごしてきたの。そんな人間と……でも、あの時、レレナは私が一人だと聞いて、憐れむような目を……違う、違う)
またしても、あの変な気持ちが湧き上がってくる。インキューネは何度も何度も否定しようとした。
(とりあえず、レレナに会おう。色々な考えは、一旦消すわ)
インキューネが小さく首を振って視線を前に戻し、心の中でそう結論づけていると、おばさんが心配そうな顔を向けてきた。
「大丈夫かい、そんな暗い顔をして」
はっとしたインキューネは、(いけないいけない、演技をしないと)と慌てて我に返り、少女の演技を続けて、無邪気な顔で「大丈夫です」と返した。
「そうかい。でも、そんなに思い詰めない方がいいわよ。身体には良くないからね」
「ありがとうございます、おばさん」
心配してくれるおばさんに、インキューネは満面の笑みを見せた。
(はぁ、おばさんに心配されちゃった。まぁ、悪くないけど。でも、悪魔の姿だったらそうはいかないわよね)
心の中でそうため息をつき、本来の姿ならこんな風には接してもらえないだろうと理解しつつも、おばさんに向けて愛想の良い表情を見せ続けるインキューネだった。
それからさらに数分後、馬車は無事に王都へと到着した。門には衛兵がいたが、おばさんが「商人の連れだ」と言ってくれたおかげで、あっさりと通り抜けることができた。
そして、門を過ぎて少し進んだところで、インキューネは馬車を降りた。
「じゃあ、私はこのままお家へ帰ります」
(まぁ、嘘だけどね。あの子に会いに行くんだから。……でも、リーアという娘の情報を頂けたのは収穫だったわ)
素直な礼をする裏で、腹黒い心を抱えてレレナの元へ向かおうとするインキューネに、おばさんたちは優しく声をかけた。
「おう、気をつけて帰れよ」
「嬢ちゃん、道で変な人に声をかけられないように、真っ直ぐ帰るんだよ」
「はーい!」
これまでで一番のいい笑顔で、元気よく手を振る。不思議なことに、これだけは演技ではなかった。
(まぁ、優しいおばさんたちだったし、これくらいはいいかな。演技じゃなくてね)
それが気持ちの変化なのか、レレナと同じような存在だと感じたからなのか——インキューネは、あえて考えないことにした。
そして馬車が遠ざかると、少女の姿をしたインキューネは、子供らしい笑顔をスッと消した。
(さて、気分を切り替えて、あの子に会いに行きますかね。……でも、変な人に気をつけろ、か。それ、誰のセリフかしらね)
最後にクスクスと、悪魔らしい意地悪な笑い声を漏らした。何故なら『変な人』とは、紛れもなくここにいる悪魔自身なのだから。
そして彼女は前へと歩き出した。この先にある、お人好しな娘のいるレストランへ向かって。
しかしインキューネは、まだ知らない。この先で、彼女が最も恐れる人物に連なる者と遭遇し、危険と隣り合わせの事態に陥ることになろうとは――。




