幕間25 フィオネの動揺
戦いを終え、南と貴族街の戒厳令はすぐに解除され、冒険者たちが城下町南の酒場で勝利の美酒に酔いしれる頃、聖騎士団は王城へと帰還していた。南の聖騎士団本部で戦いの記録がまとめられている一方、ナセドが城下町の北門へ向かっている間、一足先に王城へ戻ったリシェルは、自身の剣を城の北門を警備する衛兵に預けた。
そのまま白と黒の壮大な城の中、お広間を通って玉座の間へと足を踏み入れると、いつものドレス姿のフィオネ王妃が安堵したように左手を胸に当て、リリアーナと共に彼を待ちわびていた。
「おかえりなさい、あなた……」
「お帰りなさいませ、お父様」
帰還したリシェルの姿に、フィオネは愛おしむような薄い笑みを浮かべた。リリアーナもまた、気品ある微笑みを浮かべ、母と同時に出迎えの挨拶を交わした。
「あぁ、帰ったぞ」
薄い笑みで返すリシェル。その光景を見て安堵しつつも、リリアーナはキョロキョロとあたりを見渡す。そして、誰かがいないことに気づき、彼に問いかけた。
「あれ?お父様。お兄様は、ご一緒じゃないんですか?」
「あやつなら、城下町の守りを、念の為に見回ってから、帰ってくるそうだ」
「そうですか」
リシェルの答えに、残念そうな顔をするリリアーナ。それをよそに、リシェルは天井を見上げながら、ふと、南の大草原での戦いを思い出していた。そして、視線を、フィオネ王妃へと向けた。
「そういえば、フィオネ」
「はい、何でしょう」
彼女が微笑みながら彼の言葉に耳を傾けると、リシェルは真顔で、あることについて尋ねてきた。
「ナセドのやつがあの悪魔から引きこもりという意味不明な言葉を聞いたんだが、何かわかるか?」
その言葉に、フィオネは(んっ……)と小さく息を呑んだ。平然を装いながらも、その内心では激しい動揺を必死に押し殺していた。そんな母の様子に気づかず、リリアーナは不思議そうな顔で、無邪気に問いかけた。
「何ですの?お父様、それは?」
「わからん。だが、ナセドはたわごとと言っていたがな」
二人の会話を聞く中、フィオネはすっと扇子を取り出し、パッと顔を隠した。しかし、彼女の額には少しばかりの汗が滲んでいた。
(引きこもり! あの性悪な悪魔が……。まだ、生きていたのね。でも待って。その悪魔が、あの上級悪魔に何かを告げたということは……いや、ない、ないわ)
顔を隠したまま、小さく首を横に振る。そして、扇子を口元に当てたフィオネは、涼しい顔を作って問いかけた。
「へ、へぇ、『引きこもり』ね。その悪魔は他には、何か言っていたかしら」
「いや、詳しくは聞いていない」
「そう……そうよね」
その答えに、フィオネはまた開いた扇子で顔を隠した。「お母様?」と少し心配するリリアーナをよそに、彼女は頭の中で思考を巡らせる。
(あの悪魔、どさくさ紛れに王城へ侵入してきてはいないわよね。いえ、するわけないわ。『引きこもり』って言うくらいなんだから。でも、私が与えた恐怖は、しっかりと染みついているみたいね。……それでも、油断はできないわ。あいつの力は、女を狂わす甘い毒なのだから。かつての私も、あの毒にかかったことがあるんだから……。まぁ、幸せだったのは否定しないけどね。でも、また見たいなんて、思ってやるものですか)
見たくない、でも見たい。昔の心の闇が葛藤し、そう自分に言い訳を繰り返しながら、フィオネはパチンと扇子を閉じた。
「とりあえず、ナセドはまだ帰ってこないけど、先に夕食にしましょう。リシェル様もお疲れのことですし」
己の動揺を押し殺し、無理やり明るい声でそう告げた。
「そっ、そうだな。じゃあ、着替えてくるよ」
そう言って、フィオネの様子に気づかないリシェルは、玉座の間から南に繋がる三階の執務室へと向かっていった。
玉座の間に残された二人。リリアーナが王妃を上目遣いで見ながら、心配そうな顔で問いかけた。
「ねぇ、お母様。『引きこもり』と聞いて、少し焦っていませんでしたか?」
「いいえ、そんなことないわ」
リリアーナの指摘に対し、フィオネは動揺を隠しながら涼しい顔を作って答える。すると、今度はリリアーナが胸元からピンク色の扇子を取り出し、パッと薄い笑みを見せながら、引きこもりの悪魔について呟いた。
「そうですか。でも、討伐された悪魔が『引きこもり』だなんて、少し面白いですわね」
それは、「引きこもり」という言葉に対する好奇心から出たものであり、王女としてはあるまじき発言であった。それを聞いたフィオネは、動揺を隠したまま、心の中で悲痛に叫んだ。
(面白いって、何がよ。あの変態悪魔に、近づこうというそぶりは、やめてちょうだい、リリアーナ)
そう叫びつつも、フィオネは、扇子をパッと開き口もとに当てて平常心を保ちながら、真顔でリリアーナに問い返した。
「あら、そう。でも、何故そんなことを思ったのかしら、リリアーナ」
彼女の問いに、リリアーナは扇子を閉じて口元に当て、青い瞳を輝かせながら、母譲りの鋭さを秘めた表情で、こう答えた。
「だって、悪魔が『引きこもり』だなんて、普通は言いませんもの。でも、そう言われたということは……」
一度言葉を区切り、何かを思いついたように、フィオネ王妃へと扇子を向けながら、彼女の顔を覗き込んだ。
「もしかして、まだ生き残りがいるのでは? その『引きこもり』の悪魔が……」
リリアーナの鋭い推理に、玉座の間には、冷たい沈黙が落ちた。フィオネは、扇子で隠した顔を、少し青ざめさせながらも、それでも平静を保った。
「まさか、いないでしょう。ナセドもリシェル様も、たわごとだと言っていたのだから」
その彼女の否定的な言葉に、リリアーナは興味津々といった様子で、薄い笑みを見せながら言葉を返した。
「そうですわね。でも、もしそんな『引きこもり』な悪魔がいたら、見てみたいものだわ」
そう薄く微笑むリリアーナに、フィオネは忌まわしい悪魔の甘い記憶が甦り、娘が自分と同じようになることだけはどうしても避けたいと、少し怒った顔で凄みのある声をかけた。
「それはいけませんよ。相手は悪魔、人を喰らうのですからね、リリアーナ。例え私の娘でも……」
その凄みのある声の響きと、瞳に宿った暗い影に、リリアーナはわずかに息を呑んだ。
(本当は、「ダメよ」と、強く言いたいけれど……。これ以上、ボロを出すと、色々とバレてしまうから、言えないわ。……まぁ、リリアーナが、実際に森へ行くことなんて、ないでしょうけど。それでも、こんなことは、言ってほしくないわね)
「そうですわね。確かにお母様のいうとおり。少し失言でしたわ」
リリアーナは母の凄みに押されて、そっと扇子を閉じた。その言葉に安堵したフィオネは、「よろしい。じゃあ私たちも一階にある、夕食の間へと向かいましょうか」と返し、扇子を閉じて胸にしまった。
「そうですわね、お母様」
リリアーナもまた、母の言葉に従い、扇子を胸にしまうと、二人は南へと歩き出した。
(ふぅ、何とかバレずに済んだ。でも、心臓に悪いわ。とにかく、いつも通り、日常を過ごせばいいわ)
フィオネは気づかれぬように、リリアーナの前を歩きながらほっと息を吐いた。しかし、それとは裏腹に、後ろを歩くリリアーナは青い瞳を細めながら、疑わしげにこう思っていた。
(……さっきのお母様の様子、やっぱり何か隠しているわね。まぁ、これ以上追求しても、はぐらかされるだけだし、言わないけど。でも、引きこもりの悪魔か……)
心の中でそう呟き、母への疑念を一旦隅に置くリリアーナ。しかし彼女の胸の中には、フィオネに気づかれることなく、引きこもりの悪魔への好奇心がしっかりと根付いていた。
こうして、フィオネたちの夜も静かに更けていった。
すでにこの王都へ、一度、あの悪魔が入り込んでいることなど知る由もないままに――。




