第28話 甘い呪いに気付かぬままの一日
「えへへ、ナセド様……」
「あのう、お姉さん、お姉さん。起きてください」
誰かが私の体を揺らし、耳元で女性の声が響き続けていた。その声にハッとして、目を開けて上体を起こした。
「あっ、私は……あれ、何でここで眠っていたっけ? ……」
困惑しながら、どうしてここで眠ってしまったのだろうと考えていると、「だっ、大丈夫ですか?」と声がした。石の地面に座ったまま、心配そうに顔を覗き込んでくる見知らぬ茶髪の女性に、私は薄い笑みを浮かべながら「えぇ、大丈夫です」と答えた。
「そう。よかった」
私が起きたことに安心したのか、茶髪の女性はほっと胸を撫で下ろすと、路地裏から空を見上げた。私もつられて視線を上げると、どうやら日は暮れて、すでに夕方になっているようだった。
(私、ここでずっと寝ていたみたい。……そうだ、思い出した。私、レストランから迷子の子供を送った後、ここで疲れて眠ったんだったわ。その子の家の場所は曖昧だけれど、多分ちゃんと送ったはず。でも、少し不思議よね。この人気の少ない路地裏で、眠り込んでしまうなんて)
空から視線を戻し、不思議に思っている私に、彼女もこちらを向き直ると、続けざまに少し恥ずかしそうな顔をしてこう口にした。
「でも、あなた、今すごい寝言を言ってましたよ」
それは、『えへへ、ナセド様……』などと路地裏で口にしていた、とても恥ずかしい寝言だった。
私はぽっと顔を染め、思わず両手で顔を覆いながら、茶髪の女性に向かって口を開いた。
「はぅ、聞かれてしまいましたか」
「はい」
気まずそうな顔を向けて答える茶髪の女性に、私は覆っていた手をどけた。顔の熱は引かなかったけれど、それでも私は茶髪の女性に、強くこうお願いした。
「どこのどなたか存じませんが、すみません、今の寝言は、どうか忘れてもらえますか?」
「えぇ、もちろん。私も似たような夢を見ていましたので」
その言葉を聞いて、私は驚きながら「そうなんですか?」と返した。どうやら、彼女もまたあんな風に、愛を囁かれるような夢を見たらしい。
「えぇ……でも、とてもいい夢だったのには変わりませんけど」
「なるほど、そうなんですね」
私は深く納得し、同意した。何故なら、私も全く同じことを思っていたからだ。
(確かにそうよね。私が見たのは理想を描いた夢。身分を忘れさせてくれる夢。まぁ、こんな都合のいい夢なんてそうそう見るものじゃないけど、とても幸せな夢だったことには変わりないわ。……まぁ、また見たいなという気持ちはあるけれど……でも)
私は少し首を傾げた。私が見た夢の記憶に、何か引っかかりを感じたのだ。
(うーん、私、夢の中で何かとても大事なことを言っていたような気がするけど……いや、気のせいかしらね。でも、美味しそうに食べていたあの子。また来るかしら。来たら、また作ってあげよう。またあんな笑顔を見せてくれるかもしれないし)
私は自分の記憶を振り返って、少し疑問に思うことがあったが、すぐに打ち消した。そんな私の記憶には、なぜか、あの子の笑顔だけが、鮮明に刻まれ続けていた。
すると、茶髪の女性は、「でも、よかったですよね。誰もここへ来なくて」と、不安を拭うように言った。私は「ん?」とわからない顔を浮かべた。
「だって、悪い人が通りかかって、眠っている私たちに淫らなことをするかもしれないから」
「あっ」
(確かにそうだ)
ナセド様は違うけれど、もし下心のある男が通りかかったら、眠っている私たちを見て、良からぬことをしようとするかもしれない。それはそれで、嫌すぎるわ。
考えるだけでおぞましいと感じながらも、私は安心したような顔つきで、「そうですね」と返した。
「じゃあ、私、そろそろ帰りますね」
そう言って、茶髪の女性は立ち上がり、近くに落ちていた鞄を拾った。
「はい、さっきはありがとうございました」
「いえ、こちらこそ。じゃあ、さようなら」
私も立ち上がり、身体を軽く叩いて土汚れを落とすと、起こしてくれたお礼をぺこりと告げた。すると彼女もまた、左手を小さく振りながら礼を返し、路地裏の外へと消えていった。
「さて、私も戻ろう。あまり長くなるとファナおばさんが心配するし」
私は、来た道を戻ろうとした。けれど、
(『私、あなたが好き』……ふと、夢の中でこぼしたその言葉を思い出した。私は夢の中で告白して、想いをぶつけた。でも、私は平民の娘。夢と同じようにはいかない。あんな幸せな夢を見てしまったけれど、私はいつも通りの日常を過ごせばいい。もう二度と、あんな夢を見ることはないんだから。とても幸せな夢だったけれど……)
そう何度も自分に言い聞かせながら、私はレストランへと帰っていった。しかし、私の心の中に『また見たい』という欲求が、ほんの少しだけ残っていることには、自分でも気づいていなかった。
その後、レストランに帰ってくると、ファナおばさんが「大丈夫? 遅かったじゃないか」と声をかけてきた。私はおばさんに心配をかけないよう、あえて「大丈夫です。少し道草していただけですから」と嘘をついた。
ファナおばさんは「そうならいいけど」と安心した顔を見せ、私はそのまま残りの仕事を終え、少し不思議で甘い出来事のあった一日を終えた。
だが、その夜。宿のベッドで仰向けに眠っていた私は、ゆっくりと目を開けて、昼間に見た甘い夢のことを思い出した。
(はぁ、また何を思い出しているんだろう、私。忘れないと。同じ夢なんて、もう見られないかもしれないんだから)
そう心の中で呟きながら、私は再び眠りに落ちていった。しかし、この小さな「また見たい」という気持ちが、のちに大きくなっていくとは、この時の私には、知る由もなかった。




