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「平民は愛されない」はずなのに、雲の上の第一王子様から溺愛されています!?  作者: 東明時裕夜
第四章 動き出す夢を喰らう悪魔少女インキューネ

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第27話 一度目の甘い夢の誘惑

「レレナ、レレナ」


 私の耳元で、誰かが囁いた。それは、とても聞き覚えのある声だった。


「うぅん、あれ? ファナおばさん?」


 私は何故か、厨房のテーブルの椅子に腰掛けて眠っていた。隣には、ファナおばさんが立っていて、他の従業員は黙々と仕事をしていた。


「あれ、私、悪魔とか迷子がどうとか言っていたような……」


 さっきまで何かを見ていた気がするが、記憶が曖昧で何も思い出せなかった。すると、おばさんが「何言ってるんだい。こんな所に悪魔なんているはずないでしょ」と強い口調で声をかけてきた。私は少し戸惑いつつも、「そうですよね」と返した。


(うん、そうよ。さっき見ていたのは幻、幻よ。街中に悪魔なんているはずないから)


 そう自分に言い聞かせて、私は椅子から立ち上がった。


「じゃあ、あなたの王子様が待っているから、料理を運んでいきなさい」 「えっ、王子様って、ナセド様のこと?」


 もう戦争から帰ってきたのかと驚きながら、厨房から店内を覗き込むと、そこには平民の服を着た金髪が輝くナセド様が座っていた。そして珍しいことに、店内には他のお客さんが一人もいなかった。


「ほら、早く」

「あっ、はい」


 ファナおばさんに背中を押されて、私は手早く料理の準備をし、いつものお盆に乗せると、すぐにナセド様の元へと向かった。


「はい、お待たせしました。ナセド様」


 そう言って料理を置いていくと、「レレナ」と甘い声で名前を呼ばれた。


「はっ、はい、なんでしょう」

「ここに座らないか。俺の隣に」


 それは、一緒に座ってほしいというお願いだった。見れば、ナセド様の隣には椅子が置いてある。……でも、駄目だ。今は仕事中だし、それに、彼には妃候補のレーナ様がいるのだから、隣になんて座れない。私はそう自分に言い聞かせながら、やんわりと答えた。


「いえ、ナセド様、私は仕事中なので……」


 そう言って、お盆を持ったまま逃げようとすると、ナセド様は椅子から立ち上がり、「ダメだ、逃がさない」と私の腕を掴んできた。その拍子に、お盆をガシャンと大きな音を立てて落としてしまった。


「えっ、何をするんですか、ナセド様!」


 私は叫んだ。しかし、店内には誰もいない。さらに後ろを振り向くと、さっきまでいたはずのファナおばさんの姿も消えていた。


(うそ、何で。さっきファナおばさんがいたはずなのに)


 このわけがわからない状況の中、私の腕を強引に掴んでくるナセド様に、私は思わず嫌がる素振りを見せてしまった。本当は嬉しいと思ってしまうけれど、これは違う。あの日、私を助けてくれた時のナセド様とは、全く逆のことをしているのだから。

 しかし、困惑する私に、彼はさらに甘い言葉を囁いた。


「俺は君が好きなんだ。だから、今は身分なんか忘れて、俺と一緒にいないか」


(何これ、こんなのナセド様じゃない。本物のナセド様はもっと不器用で、私のことを気遣ってくれて……身分のことなんて簡単に忘れるような、そんな人じゃないはずなのに。……そういえば、あの茶髪の女性も、幸せそうな顔をしていたような。まさかこれは、あの悪魔が私の心の奥底にある思いを引き出した夢だというの? でも、これは私が望む世界じゃない)


 路地裏で私を眠らせた悪魔の存在を思い出し、これが夢だと悟った。それと同時に、悪魔が眠らせる前に言った「安心して、レレナ」という言葉が蘇る。つまり、私の想いを引き出したこの世界に留まれば、あの茶髪の女性と同じように堕落させられてしまうのだ。確かに、殺さないという彼女の言葉は本当かもしれない。でも、これは間違っている。命は取られなくても、心を奪われる可能性だってあるのだから。


 とにかく、今ここから逃げて、目を覚まさなければ。そして、もう一度あの子と話をしないと。あの子の笑顔は本物だったかもしれないし、あの子が抱える「一人」という孤独さを、私は無視できない。ちゃんと話を聞いていれば……と、そんな微かな希望を抱いた。


(起きて逃げなきゃ!)


 そう決意した私は、現実の世界に戻るべく、強引にナセド様の腕を振り払おうとした。しかし――


「逃げないで。俺のこと、嫌いなのか?」


 またしても、彼の甘い言葉が逃げようとする私の耳元で囁かれた。


「嫌いじゃない、好きよ。でもこんなの……!」


 これは偽物だ。分かっている。けれど、目の前にいるのは、私のことを好きだと言ってくれるナセド様なのだ。そう思うと、どうしても否定しきれない。私は叫びを上げていたが、彼は「そうか、ならもういい」と、手を掴むのをやめた。


「レレナ、俺は帰る」


 私を引き裂くような冷たい口調でナセド様はそう吐き捨て、彼は店から出て行こうとした。

 頭では偽物だと分かっているはずなのに、身体が勝手に「ダメ」と左手を伸ばしていたのだ。その瞬間、夢の中なのに、どこからか甘い香りが漂ってきた。


(……何この甘い香りは。この、胸が熱くなるような感覚は……)


 私は鼻を塞ごうと考える間もなく、その香りを吸い込んでしまい、胸が熱くなって思わず左手を胸に当てた。これは、ナセド様がここから消えてしまうことへの焦りの表れなのか、それともこの妙な香りの効能なのか、私にはわからない。だが、逃げようとする感情が、確実に薄れてきたのだ。

 そんな私は、必死に理性を保とうとするが、思考が止まらず、同じ思いが頭の中で巡った。


(ダメよ、私……『身分なんて関係ない』と言ってくれるナセド様に恋をしては。私が好きなのは、本物の彼だから……何度も何度も自分に言い聞かせてきたじゃない。それに私は王妃様たちに『芯のある子』だと認めていただいたんだから……だから、こんな夢に掻き乱されちゃダメだって……!)


 そう抗い続けても、この香りが私の理性を少しずつ溶かしていく。そしてナセド様が振り向きざまに、「お別れだ、レレナ」と冷たく告げた。


 それは永遠のさよならを意味する言葉だった。


 その瞬間、積み上げてきた言い訳も、覚悟も、何もかもが崩れていく。

 ――現実でも、いつか同じことが起きる。この夢は、その日を先取りしただけ。

 そう分かっているのに、胸が苦しくてたまらない。

 嫌だ、嫌だという思いが積み重なって、頭の中が真っ白になっていく。そして私は、たとえここが悪魔の夢だとしても、本当の想いを心の中で呟いてしまった。


(彼がここから消える。いや、もっと私と一緒にいて……)


 その本心が胸から溢れ出した瞬間、私の胸の高鳴りは暴走し、寂しさと、これまで押し殺してきた気持ちが爆発してしまった。


「ダメ……行かないで、ナセド様」


 私は、束ねた桃色の髪を揺らしながら思わず走り出し、去ろうとする彼の背中にすがりついた。服の上からではあったが、夢の中だというのに彼の温かい身体の感触がはっきりと伝わってくる。現実のナセド様とは手を握ったことしかなかったけれど、今の私には彼を引き留めることしか考えられなかった。激しく胸が高鳴る中、私は夢の中の彼に想いを告げた。


「私、あなたが好きです」


 彼の背中に向かって口にしたそれは、感情が爆発して思わずこぼれ出た、初めての夢の中での彼への愛の告白だった。すると、ナセド様はその声にハッとして振り返り、優しい笑顔を向けて「本当か?」と尋ねてきた。


 その言葉に、私は身体が勝手に動き、彼に抱きつきながら、「はい。だから、行かないでナセド様」と答えた。


(もういい、これで。これが私の本心を引き出した悪魔の夢だとしても、私が思い描いた理想の夢だから。最初は悪夢だと思っていたけれど……彼が身分を忘れると言うのなら、私も身分を忘れて彼にすべてを捧げる。どれだけ立派な『芯』を持っていたとしても、もうどうでもいい……)


 理性がドロドロに溶かされていくように、私の黄色い瞳は光を失い、とろんと潤んでいき、いつしか逃げることさえ忘れていた。


 勢いよく正面から抱きついたせいで、私の胸が彼に強く押し当てられてしまっている。けれど――そんな恥ずかしさも、今だけはすべて忘れてしまおう。


「わかった。じゃあ、一緒に楽しもうか。……その邪魔な紐は外そうか」

「はい」


 とろんとした光のない黄色い瞳のまま私が小さく頷くと、彼は私の髪を束ねていた一本の紐を優しく外してくれた。桃色の髪がふわりと肩まで下ろされたが、もう、そんなことすら気にしなかった。


「やっぱり、この方が可愛いな、レレナ」

「はい、ナセド様、ありがとうございます」


 その言葉を聞いた私は、喜びながらそう答え、愛おしさを胸に彼を見つめた。それは、先日のお茶会でエスコートされた時にも、彼に言われた言葉だった。


(あの時と同じ言葉……。ううん、きっと、私が強く覚えていたから夢にも出てきたんだわ。でも、また『可愛い』と言われるなんて、嬉しい。もっと言って――こんなところじゃなくて、あそこで)


 抑えきれないナセド様への想いが胸に溢れる。光を失った瞳のまま、私は抱きついていた手を離し、彼と一緒にテーブルへと戻り、その隣へと座った。彼は私の耳元でずっと、甘い愛の言葉を囁き続けた。


「愛しているよ、レレナ」

「はい……」


(あぁ、幸せ。もっとずっと見ていたい、この夢を。もう悪魔なんてどうでもいいわ。ただ、この夢に酔いしれよう。……もっと『愛している』って、『可愛い』って言って、ナセド様……)


 そう心の中で呟きながら、虚ろな私は、油ランプが揺れる誰もいない店内で、完全にとろけきった表情でナセド様に肌を寄せながら、深く、甘い夢へと沈んでいった。

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