幕間22 甘い欲望との出会いと優しくされた悪魔
ガチャリと音を立てて、レストランの扉が開いた。天井からぶら下がる油ランプが、入ってきた少女の姿を照らし出す。しかし、悪魔と魔獣たちとの戦いの最中だからか、店内には客が二、三人ほどしかいなかった。
(フゥン。やっぱり少ないのね、まぁあいつらと戦争中だから当たり前か)
人の少なさに納得するインキューネ。すると、厨房の奥にいた黄色い瞳を持つ桃色髪の娘——茶色のエプロンをつけた仕事着姿の彼女が、少女に気づき、目線を合わせるようにしゃがみ込むと、不思議そうな顔を向けて尋ねた。
「どうしたの、お嬢ちゃん。こんなところで」
「ちょっと、いい匂いに誘われてきちゃって」
子どものように左手を紫髪の頭に乗せ、照れた演技を見せながらそう言うと、桃色髪の娘は優しい笑みを浮かべ、「そうなのね」と返した。
すると、桃色髪の娘から、レストランの外まで漂っていたあの甘い欲望の香りが、より一層強く漂ってきた。それが、悪魔の鼻へと吸い込まれていく。
(なるほど。レストランの外で嗅いだ、さっきの甘い欲望の香りはこの子からだったのね。すごい、とても凄い香り。誰かに愛されたいという思いが相当強そうね。……しかし、ここでは狙えないわ)
他の客の目があるため、別の人間にしようと考え、照れる演技をやめて左手を下ろすと、インキューネは扉へと向かって歩き出した。
「待って。あなた、お腹空いているんじゃない?」
すると、声をかけながら追いかけてきた桃色髪の娘が、少し身をかがめてインキューネの肩にそっと手を乗せた。振り向くと、娘は引き止めるようにこちらを見つめていた。
(えぇ、空いているわ。あなたのその、とっても甘い夢にね)
インキューネは心の中でそう呟きながらも、あえて残念そうな顔を作って「ううん、私は空いていません」と否定した。
「いいや、絶対に空いているわよ」
一歩も引かない強い口ぶりで言う桃色髪の娘に、インキューネは言い返せず、内心で呟いた。
(くっ、仕方ない。ここで疑われたら、かえって面倒になるな。この娘に合わせておくか)
そう考えると、インキューネは前へと向き直り、困ったような顔つきを浮かべて言った。
「確かに空いているかもしれない。でも私、お金なんて……」
「大丈夫、私が作ったまかないがあるから……」
(何よこの娘は。お金もないのに、この怪しい子供に自分で作ったご飯を食べさせるなんて。お人好しなバカなのかしらね。けれど、ここで「要りません」と言うわけにもいかないわね)
はぁ、とバレないように小さくため息をつきながら、インキューネは喜ぶ演技を見せて「じゃあ、お願いします、お姉ちゃん」と答えた。
「よかった。ファナおばさん、ファナおばさん」
インキューネが食べてくれることへの嬉しさからか、桃色髪の娘は背筋を伸ばして後ろを振り向き、厨房へと視線を向けた。すると、そこから白髪交じりのおばさんが顔を出した。
「なんだい、レレナ」
「少しこの子の相手をするので、後の仕事をお願いします」
「わかったわ。ちゃんとその子に料理を食べさせてあげなさいな」
ファナおばさんの了解を得たレレナは、「じゃあ、行きましょう」といきなりインキューネの左手を引いた。
(えっ?)
思わず、面食らったような顔を見せてしまった。なぜなら、悪魔であるインキューネは他人に手を掴まれたことなどなかったからだ。
(初めてだわ、こんなことされたの……でも、レレナの手、温かい)
と、一瞬だけ穏やかな表情を見せ、すぐに演技を続けながら、店の奥へと向かった。
だが、それと同時にその胸の内で——(レレナ。それが、このお人好しの名前か)——インキューネは、初めてその名を心に刻んだのだった。
「じゃあ、ここで座って待っててね」
案内されたテーブルにインキューネが腰掛けると、レレナは賄いを少女にあげるため、優しく微笑んだ後、厨房へと向かった。
「久しぶりだな、人が作ったものなんて」
インキューネはずっと、女性の甘い夢や森の果実だけを喰らって生きてきた。人を食うことは一切なかったが、一度だけ、森で拾った硬いパンを食べたことがあったのだ。
「けど、どうせこの店のレストランの料理もまずいはずだわ。私が好むのは甘い夢なんだから」
そう強がるように呟きながらも、インキューネは待ちきれない様子で椅子に座り、足をぶらつかせながら待つこと数分。
「お待たせ」
笑顔で戻ってきたレレナは、お盆に乗せた柔らかそうな丸いパンと、白い器に入った黄色いスープを運んできた。彼女の目の前にパンとスープを順に置くと、さらに銀のスプーンを添えた。
「さぁ、どうぞ」
レレナはお盆を片手で胸に抱え、もう一方の手を差し出した。インキューネは心の中で、どうでもいいという顔をしながら、
(はいはい、いただく、いただくからね。けど、どうせこれもまずいはずよ。ささっと食べてしまおう)
と呟き、左手でパンを取ると、がぶりと齧りついた。
その瞬間、インキューネの心は少しだけ弾けた。
(何これ……すごく美味しいじゃない)
甘い夢を喰らうインキューネが、初めて人間の食べ物を美味しいと感じた瞬間。それは、悪魔が決して認めることのない感情だった。
「とても美味しい」
「よかった。まずいって言われるか心配だったけど」
照れながら言う桃色髪の娘に、インキューネは少しばかり変な気持ちになりながらも、悪魔の本能を忘れまいと心の中で呟いた。
(なんだろう、この娘の温かな優しさは。……まぁ、昔の人間なんて、悪魔を見るたびに攻撃してきたからな。私が子供だから優しくしているのだろう。どうせ、私の正体を知ったら、この子も私を敵とみなすに決まっている)
だが、インキューネはパンをかじり終えた後、チラリと桃色髪の娘を見た。
(まぁ、料理が美味しくても、一番は女の子たちの甘い夢だわ)
甘い夢を好むインキューネは、そう強がりを思いつつも、銀のスプーンを手に取り、スープを掬い、ずずずっと飲んだ。
(うぅん。暖かい。そして、優しい味……)
スープを飲み干すと、インキューネは椅子から立ち上がり、笑顔を向けてお礼を言った。
「ありがとう、お姉ちゃん。とてもおいしかったよ」
「うふふ、ありがとう」
それは、演技なのか本心なのか、悪魔である彼女自身にも分からなくなるほど自然な笑顔だった。その様子を見て、レレナも黄色い瞳をきらきらとさせて、嬉しそうに微笑み返した。
(さぁ、行こう、次の獲物を探しに。この子の夢もいいけど、ここじゃあダメだからね)
インキューネは、レレナの甘い夢を喰らわずに扉の方へと歩き出す。しかし、レレナはいつものエプロンを外して厨房のテーブルに置くと、インキューネの元へ駆け寄り、「待って」と呼び止めた。
(何だ?)とインキューネは言いたげな顔をしながら振り返った。すると、レレナは笑顔を向けながら答えた。
「お嬢ちゃん、今は戦争中で、街も物騒だから。送っていくよ」
「えぇ、いいの?」
大人の優しさにつけ込むような、不安げな子供の演技をすると、すっかり騙されたレレナは「えぇ、いいわよ。それに子供が一人で、街を出歩くなんて危ないわ」と心配そうに返した。
(チャンスだわ。けれど、この娘は本当にお人好し……。お人好しすぎるわ。この私が悪魔だとも知らずに、そんな手を差し伸べるなんて。まぁ、こっちにとっては好都合だけど)
呼び止めたレレナの優しい申し出に、インキューネは心の中で呆れつつも、夢が喰えると分かって、少し嬉しそうな表情を見せた。すると、レレナは後ろを振り向き、再び白髪交じりのファナおばさんを呼んだ。
「おばさん。私、この子を送って行くから、後の店のことをお願いします」
その声に応じるかのように、厨房からひょっこりと顔を出したファナおばさんは、「あぁ、いってらっしゃい、レレナ」と優しく返した。
そして、レレナはインキューネの左手を引き、「じゃあ、行きましょう」と笑顔を向けて歩き出した。
しかし、彼女は知る由もなかった。
この扉を出た先の路地裏で、この悪魔によって甘い夢を見せられ、喰われてしまうことになるとは――。




