幕間18 夢を喰らう悪魔インキューネとイビルス
ここは、どこぞの神が作った世界のうちの一つ――リフリフル大陸。
この地には、人間やエルフ、さらにその敵対種族である悪魔など、様々な種族が存在する。
だが、悪魔には階級があり、それが強さを示す指標となっている。
初級から上級まで、それぞれ異なる力を持った悪魔がいる。初級なら魔獣を倒せるくらい。中級なら数十体の魔獣を倒すことができ、上級ならそれ以上の力を行使できる。そして本来、どんな悪魔も人間を喰らう生き物である。
だが、レレナという娘が無事にお茶会を終えてから、三日後のこと。彼女が住むアルスリーア王国の北に位置する『シェフリアの森』には、一人の変わり者が住んでいた。
人も喰らわず、魔獣の肉すら喰らわない。女性の謎の夢と木々の果実だけを喰らう。上級でも初級でもなく、王妃フィオネが倒したはずの中級悪魔インキューネである。もっとも、他の中級悪魔と違って攻撃的ではなく、魔獣を一掃できるほどの攻撃魔法も持ち合わせてはいない。さらに、自分から人を襲うこともしない悪魔でもあるのだ。
そして、その『謎の夢』の内容は誰も知らない。知っているのは、夢を喰われた女性たちと、インキューネと戦ったフィオネ王妃だけである。
しかし、彼女たちがそれを口にすることはない。何故なら、それは他人に言えないような、ひどく恥ずかしい夢だからだ。また、何故男性を狙わず、女性ばかりを狙うのか。その理由も悪魔自身にしかわからない。
さらにその悪魔の力は誰も見たことがない。ただ一人を除いては……。
「あぁ、退屈。退屈。実に退屈だわ」
木々の隙間から差し込む月明かりに照らされた木の上で、そう愚痴をこぼしているのは、大きな黒き翼と薄黒い肌、鋭い爪を持つ手足、そして、黒い角と紫の瞳に短い紫髪を持つ、十代前半の少女のような姿をした悪魔だった。
「あぁ、最近は人間がちっとも通らないなぁ」
悪魔の少女は今、このシェフリアの森に引きこもっていた。何故なら、二十数年前にフィオネと戦い、左腕と尻尾を焼かれたからだ。しかし、悪魔の少女は生きていた。現在、世間の噂では「女性ばかりを狙って悪夢を見せる悪魔」として恐れられているが、インキューネ自身は、そのことを知らない。
「あぁ、今思い出すと、腹が立つわ。実に腹が立つわ。あの金髪の女……。まぁ、あの女の見る夢は極上だったけどな」
悪魔の少女はなんらかの方法でフィオネを打ち破り、夢を見せて喰らったのだ。しかし、一体どうやってあの王妃を出し抜いたのか――それは、今は語ることはないだろう。
「でも、森の外へ行けない、行けないわ。あんな化け物じみた、金髪の女と同じ力を持った奴がいるかもしれないし。この森ならなんとかなるけどな」
そう、悪魔の少女は、二十数年前に受けた攻撃によって深い傷を負っていた。燃やされた恐怖と、体が示す拒絶反応である。だが一方で、自身の縄張りであるこの森の中においてなら、相手を確実に眠りに落とせるという強みを持っていた。
そして、インキューネは木の上から見える、月明かりに照らされた夜空を見上げながら、深くため息をついた。
「あぁ、あの女、森に来ないかしらね。そしたら夢を見せてあげるのに。だって、あの女の記憶はこれまで喰らった女性たちの夢と同様に、わざと残してあげたし……。まぁ、私を討伐しようとする連中以外はね」
そう言ってフィオネの夢をまた欲しがる悪魔インキューネは、記憶を消す力を持っていた。その力で二十数年前、自分を討伐しに来た連中を眠りに落とし、毎回その記憶を消していたのだ。
しかし、被害に遭った女性やフィオネ王妃の記憶だけは消さなかった。理由はただの嫌がらせ――ただそれだけだった。
「まぁ、どうせ女性たちやあの金髪の女が覚えていても、恥ずかしくて言えるわけない。ないのさ。それに夢の記憶を覚えていたら、次はさらにそれよりもいい夢を見るからね。だって私の見せる夢は悪夢じゃないし。けど、あの女には私を燃やした腹いせ、腹いせよ」
クスクスと笑いながら、インキューネはさらに独り言を漏らした。
「しかし、やっぱり退屈。退屈。ここの森を人間が通れば、夢を喰らうんだけどな。女性なら……。まぁ、ここを通る人間の記憶は必ず消すけどね。私の存在が、あの女と同じくらいの力を持った王族連中にバレるといけないし。たとえ、いい夢でもよ……」
悪魔の少女はあの事件から用心深い性格になっており、森を通る者がいる度に、なんらかの方法で眠らせて夢を喰らい、必ず記憶を消している。
だが、ここ最近は森に人が来ないため、悪魔インキューネの退屈な日々は、変わらずに続いていた。
すると、ドシンドシンと地響きが鳴り響き、インキューネが退屈そうに座っている木が大きく揺れた。
「んん? 何?」
森の茂みの奥から、赤い角らしきものが見えた。そして、音はだんだんと大きくなっていき、そこから何かが出てきた。
「あっ、イビルスだ。イビルスね」
それは、インキューネよりもひとまわり大きな、赤い体に白い髪、さらに黒い翼と黒い瞳を持ち、黒い手足、そして、長く鋭い爪と赤い角を生やした大柄な悪魔。この近くの洞窟に住み、たまに人間や魔獣を喰らう上級悪魔――イビルスだった。
「久しぶりだな、インキューネ」
そう言ってイビルスは、インキューネがいる木の上を見上げ、左手を上げて悪魔同士の挨拶をした。すると、インキューネも興味のない顔を浮かべ、「久しぶりね、イビルス」と返した。
イビルスとインキューネは、五年前に会ったただの知り合いであり、悪魔の少女にとってそれ以上でもそれ以下でもない相手だったのだ。
「相変わらずだな、お前は」
「ほっといてよ。それで何か用かしら、イビルス?」
木の上で足をぶらつかせながら、インキューネは意地の悪い笑みを浮かべ、いつもの調子で言葉を返す。
するとイビルスは野太い声で、険しくも邪悪な笑みを見せた。
「なーに、近くの洞窟で人間を食うのにも飽きたからな。明日の朝、洞窟周辺に住んでいる悪魔たちや魔獣を引き連れて行くんだが、お前も来ないか?」
「はぁ、何言ってるのかしらイビルス。私が行くわけないでしょ、行くわけないわ」
心底嫌そうな顔をして断るインキューネに対し、イビルスは呆れ顔を向けながら、ある言葉をぶつけた。
「だがお前、あの国にいる他の悪魔たちが噂していた、『消し炭の冒険者』に勝ったんだろう?」
「そうだけど、けど」
「お前、復讐とか考えないのか?」
そう尋ねるイビルスに対し、インキューネは嫌な顔をしたまま——だが、過去を思い出したかのように、その顔を少し引き攣らせた。
「復讐? そんなの考えるわけないでしょ。あの女の国の奴らは強いんだから。まぁ、この森でならなんとかなるけど……自分から復讐するなんて馬鹿な真似、絶対にしないわ。絶対に」
インキューネが腕を組んで身震いし、嫌だと強固に拒絶する姿勢を見せると、イビルスは心底呆れたように、悪魔のくせにと少しばかり落胆した表情を見せた。
「ふん、そうかよ」
「でも、勝てるの、勝てるのかしら? イビルス」
インキューネが腕を組んだまま、どうでもよさそうな顔で紫の瞳を彼に向けながら尋ねると、イビルスは自信たっぷりな笑みを浮かべて声をあげた。
「ふん、勝てるさ。数で押し切れればな」
「数ね……まぁ、頑張れば? どうせ無駄だと思うけどね」
インキューネは知っていた。あの国には、自分を燃やしたあの金髪の女と同じくらい強い者たちがいることを。だからこそ、数を揃えたところで絶対に勝てないと確信していたのだ。
「はっ、言ってろ、じゃあな」
呆れたようにそう吐き捨てて、イビルスは去っていった。
「やっと行ったか、行ったわね。……でも、悪魔や魔獣の軍団、ね……いや待てよ」
木に座るインキューネは、ニヤリと邪悪な笑みを浮かべた。それは彼女にとって絶好の好機であり、二十数年間ずっと我慢してきたことだった。
「あいつらと王国がぶつかり合いになれば、王国は手薄になるじゃない。手薄になるわね」
クスクスと不気味に笑うインキューネ。尻尾をゆらゆらと振らせて悪い笑みを浮かべる姿は、まるで恐ろしい悪戯を企む子供のようだった。
「それなら、あの金髪の女も出向くはずだしね……。二十数年ぶりに人間の姿に化けるかな。これだけはあの女に見せていないし、もし会ってもバレることはないはず。まぁ、あの女だけは森の中でしか夢は喰えないけどね……でも、あの女も絶対に出向くはずだわ」
そう呟きながら、木に座っていた彼女は地上へと降り立ち、静かに目を瞑った。
すると、その体を不気味な黒い霧が渦を巻きながら包み込んでいく――。黒い角と背中の黒い翼は姿を消し、さらに尻尾も消えて、薄黒かった肌は人間のような白い肌へと変わり、鋭い爪があった手足も、華奢な少女のものへと変化していく。さらに、足元には紫色の革靴が履かされていた。
やがて霧が晴れ、そこに現れたのは、紫がかった黒い子供用のワンピースを身にまとった、肩にかかる程度の短い紫髪を持つ、十歳くらいの少女の姿だった。
「さて。まずは森の外からあいつらの戦いを静観するとしましょうか、静観するとしましょうかね。そして頃合いを見て、潜入……ふふっ」
左手をそっと口元に当て、クスクスと不気味に笑うインキューネ。その紫の瞳が、ほんの一瞬、怪しく光った。そして彼女は、月明かりに照らされた森の出口へと向かって歩き出したのだった。




