幕間15 秘密を抱える王妃の夜と、王の思惑
そして、フィオネ王妃はゆっくりと椅子から立ち上がった——かに見えた。
「……はい。ですが、あともう一つお願いがありますわ」
フィオネ王妃が立ち上がりながらふふっと微笑むと、リシェルは不思議そうに「なんだ?」と問い返した。フィオネ王妃は楽しげな声で言葉を続ける。
「先ほどお話ししたレレナちゃんの親友は、仕立て屋さんなのですけれど……彼女が今日着てきたドレスに、私もたいへん興味を持ちましてね」
「ほう。ドレスの作りにうるさいお前がか?」
「ええ、そうですわ」
フィオネ王妃はにっこりと艶やかな笑みを浮かべて頷いた。それを見たリシェルは、再び手元に視線を落としながら、そうかという顔を浮かべた。
(なるほど。あの平民の娘の親友とやらは仕立て屋か。ならば、淑女の礼のやり方を知っているのも頷ける。貴族も出入りしている店なのだろう。だが、それにしてもただの親友のためにそこまで尽くすとはな……)
娘を支える存在の正体を聞いたリシェルは、そんな風に納得しつつも、その仕立て屋が一体どのような人物なのだろうかと、静かに関心を抱いた。
「それで、私にどうしたいと」
真面目な顔でリシェルが尋ねると、フィオネ王妃は艶やかな笑みを崩さぬまま答えた。
「護衛を何人か連れて、リリアーナと共に城下町へ出向きたいと思いまして」
「そうか。だが、お前はいいが、あのおてんば姫は大丈夫か?」
リリアーナの名前を聞いたリシェルは再びこめかみを押さえながら、不安な顔をフィオネに向ける。すると、彼女は微笑みながらこう返した。
「その点についてはご安心を。あの子がレレナちゃんの親友に余計な真似をしないよう、ちゃんと私が見張っておきますから……」
「そうか、わかった、許可しよう。行ってくるがいい……ただし、六日後な。その日なら何もないから」
(それに、近々……いずれ私も行く予定だからな)
そう心の中で呟いたリシェル。フィオネ王妃は「わかりましたわ、あなた」と優雅に一礼し、そのまま執務室を後にした。リシェルは一人になった。
「レレナ・アティリア」と、リシェルは一人呟いた。ナセドの想い人は、想像以上に器の大きい娘であった。さらに、地図にない村の出身だという。
「……正直に言えば、あの村との交流に、あの子が橋になってくれれば、という思いがよぎらんでもない。だが――それこそ、フィオネに誓ったばかりだ。あの子を駒として使うことはせん。まずは、どんな娘なのか。この目で確かめる。それだけだ」
柔らかい表情で呟いたリシェルは、まだ見ぬレレナに密かな期待を抱きながら、再び本を手に取り、読み始めるのだった。
一方、執務室から自分の部屋へと戻ったフィオネは、白いネグリジェに着替えを済ませ、横の球体ランプがほのかに照らす中、ベッドで天井を見上げ、安心したように呟いた。
「ふぅ、よかったわ。レレナさんが利用されなくて。まさか、王家が交流を図ろうとしていたなんて、本当に驚きの連続だわ……しかし」
フィオネ王妃は、突然険しい表情を浮かべた。それは昔、戦ったあいつに関することだった。
「レレナさんの住んでいる方角が、あいつの棲家じゃなくてよかったわ。もしあいつに出くわしたら、あんな素敵……じゃなかった、不埒な夢を見せられるものね」
少し恥ずかしそうな顔をしてから表情を戻すと、フィオネは「ふぅ」と息をついてベッドから体を起こし、北側の窓へと目をやり、シェフリアの森がある方角をじっと見つめて呟いた。
「あの性悪悪魔、まだ生きているのかしら。……出てこないでほしいわね。あの時、しっかり燃やしてあげたけれど……それでも、倒しきれなかったことは今でも悔しいわ。あんな弱い悪魔だと思ったからなのよね。魔法で誘惑されて、そのまま眠って夢を見せられて……まんまと喰われたのだから」
「はぁ……」と、昔のことを思い出し、悔しさを滲ませながらため息をつく。彼女が見せられたという『甘く不埒な夢』がどういうものなのか、そしてかつて『消し炭の冒険者』と呼ばれたフィオネ王妃に『性悪悪魔』と言わしめる存在が何者なのか、それは彼女自身しか知らない。
だが、彼女はそれよりももっと怒っていることがあった。
「はぁ、今でも腹が立つわ。討伐隊の連中と同じように私の記憶を消さず、他の被害者の女性たちと同じように、あんな夢の記憶だけを残したこと……!」
彼女は、討伐隊の者たちがその性悪悪魔の能力を誰一人覚えていないと後から聞いたのだ。だからこそ、自分だけが記憶を残されたことに怒っているのも無理はなかった。
「でも、あの時、リリアーナのやつが自慢しながらあいつの話をしようとした時は、少し動揺してしまったわ。『やめなさい』と軽く声をかけて止めたけれど……。もしあんな話をされたら、私、落ち着いていられないもの。世間には『悪夢だった』と情報操作できているとはいえ、それでも、万が一あいつが森から出てきて、本当の秘密がリシェルたちにバレれば……色々と終わるわ」
お茶会の時、リリアーナがその流れに紛れて、あの悪魔のことを持ち出そうとしたのを、フィオネは思い出す。だが、口止めは成功している。
「消し炭の冒険者がインキューネを討伐した」——世に広まったその話は、フィオネ自身がプライドで塗り固めた嘘だ。倒せなかったなどと、誰にも言えるはずがない。そう胸の内で呟くと、フィオネは窓から視線を外し、ランプを消し再びベッドに横になった。
「しかし、あれから二十数年か……。まぁ、出てくるわけないわよね。私の火力に怯えているのだから……もう、忘れて寝よう。またあんな夢を思い出してしまうわ」
こうして本を読みながら、いずれ平民の娘の元へ出向こうと考える王と、人には言えぬ秘密を抱えて眠る王妃。それぞれの思いを胸に秘めたまま、王家の夜は静かに更けていくのだった。




