第21話 お茶の約束と素直じゃない公爵令嬢
ヒールの話をした瞬間、レーナ様が私のことを鼻で笑って口を開いた。
「ふん。ヒールを履き慣れていないですって? あんな立派な……いえ、このわたくしを一歩下がらせた、あの淑女の礼をしておきながら?」
その隣で、リリアーナ様が頭に乗せていた扇子をゆっくりと下ろし、薄い笑みを浮かべた。
「ヒール、ですか。確かに、あんなもので二時間も歩いたら足が保ちませんわね。……でも、レレナ。あなた、履き慣れないと言っていましたわよね。……もしかして、転びでもしたのかしら?」
——ギクリ、とした。
私は思わず視線を逸らしてしまった。それは、王城の門の前で転びかけたあの時の気まずさから出た、咄嗟の行動だった。
そして同時に、隣のナセド様までもが、ほんの少しだけ頬を染めて、そっと目線を逸らしたのだ。
「あら、これは何かありますわね、リリアーナ様」
「そうですわね、レーナ」
二人は顔を見合わせてニヤニヤと笑う。……けれど、レーナ様だけは、その笑みがすぐに消えていた。
(……あれ? レーナ様、どうしたのかしら)
彼女は手にしていた青い扇子をパッと開くと、その奥で静かに仏頂面を作ってしまった。何が気に障ったのか、私にはさっぱり分からなかった。
それを見ていたナセド様は少し顔を顰め、「違うぞ。レレナは転んでなどいないからな」と、苦しい言い訳をした。
「そうです、ナセド様の言う通りです。私は転んでなんていません」
私は少し頬を染めながら、そう言い切った。
……嘘は言っていない。実際、私は転んでいないのだから。ただ、その後どうなったのかを言わなかっただけだ。
(というか、あんな恥ずかしいこと言えるわけないし……!)
私は内心でそう叫びながら、必死に平静な顔を取り繕った。
「あら」
「……あらあら」
リリアーナ様の声は、心底楽しげだった。けれどレーナ様の声は、開いた扇子の奥から、氷のように静かに響いた。
「お兄様。私、まだ『いつ』とも『どこで』とも申しておりませんけれど?」
「ええ。それに殿下もレレナも、なぜあえて『転んでいない』とだけ必死に否定なさるのかしら?」
「……っ」
「……」
さらなる二人の追撃に、私とナセド様はすっかり言葉に詰まり、押し黙ってしまった。すると、横からフィオネ王妃様が閉じた扇子をパッと開き、ゆるりと扇ぎながら「ふふ」と笑って呟いた。
「黙っているところを見ると、どうやら本当に何かあったようね。……まぁ、これ以上は聞かないでおいてあげるわ、二人とも」
「「……っ」」
私とナセド様の声にならない呻きが、綺麗に重なった。
——これは、一番怖い形で見逃された。
すると、リリアーナ様が「まぁ、レレナやお兄様をからかうのは、これくらいにしておきましょうか」と扇子をテーブルに置き、カラロンへ手を伸ばして一口かじりついた。
一方のレーナ様は、「そ・う・ね、リリアーナ様」と、区切るようにそう言って怖い笑みを見せると、扇子をパチンと閉じてテーブルに置いた。そして紅茶に手を伸ばし、一口飲む。……その仕草が、なぜだか少しだけ乱暴に見えた気がした。
そして、紅茶を飲んだレーナ様はティーカップを置くと、テーブルの扇子を手に取ってパッと開き、口元に当てた。
「……まぁ、わたくしもあなたの力はわかりましたわ。平民の娘のくせに、微弱な火だけで、あの谷を越えて王都まで歩く度胸があるということはね」
「ありがとうございます、レーナ様」
私が座ったまま軽くお礼をすると、レーナ様は少しだけ焦った様子で口を開いた。
「か、勘違いしないでくださる? わたくしは、あなたの体力を褒めただけ。あなたの魔法を褒めたわけではないのですから」
慌てたようにそう捲し立てる彼女に、私は「わかっていますよ、レーナ様」と微笑んだ。
「ふふ。レーナ、あなた今日はずいぶん優しいのね」
フィオネ王妃様が扇子で口元を隠して笑うと、レーナ様は銀髪を揺らしてキッとそちらを睨み、扇子を持っていない方の手で、そっと指を噛んだ。
「フィオネ王妃様まで、揶揄わないでくださいまし。わたくしはわたくしですわ」
「そうでしたわね……でも、それさっきナセドにも同じことを言っていなかったかしら」
「……いいえ」
彼女は、それしか言わなかった。
しかし、その短い否定に、ナセド様は何も言わなかった。ただ、ほんの少しだけ、口の端が緩んでいたような気がした。
公爵令嬢としてのプライドなのか、それとも別の何か。それは、彼女自身にしかわからないだろう。
――ただ、一つだけ思ったことがある。
初めて会った時、私は『レーナ様とリリアーナ様は違う』と感じていた。彼女は頬を染めることもなく、威厳を保ったまま私を認めてくれた人だったからだ。
……でも、今の『いいえ』は。
なんだか少しだけ、あの素直じゃないお姫様に似ていた気がした。
そんなことを思いながら、私が彼女の姿をじっと見つめていると。レーナ様は表情を戻し、真面目な顔を取り繕って私に視線を向けると、自身の口元に扇子を当てた。
「レレナ。わたくし、まだ答えを聞いておりませんわ」
「答え?」
「そう。あなたが、その力を試す理由を」
「……それですか」
私は少しだけ間を置いて、まっすぐに薄い笑みを見せてレーナ様を見返した。
「理由は、そんなに難しいことじゃありません。……いつか故郷に帰った時、あの子に、立派なお姉ちゃんになったねって言ってもらうためです」
「ふん、そう。妹のためなのね……まぁ、わたくしには兄妹がいないからわかりませんけれど……」
そう言葉を一区切りさせると、レーナ様はナセド様とリリアーナ様へ、真面目な顔のまま視線を向けた。
「でも、そちらの二人を見れば大体わかりますわ」
「レーナ、君は俺たちの関係をそう思っていたのか」
「もう、レーナったら。私たちはそんなに仲がいいわけでは……」
突然話題を振られた二人は少し照れたような様子を見せ、カラロンを一口齧り終えたリリアーナ様に至っては、テーブルの扇子を手に取り、パッと開いて顔を隠した。
「えぇ、そうですわ」
レーナ様が真顔で返すと、ナセド様はまんざらでもない顔をしながら薄い笑みを見せて「まぁ、君がいうならそういうことにしておくか」と返した。それにリリアーナ様は少し頬を膨らませ、怒ったような顔を見せて「おっ、お兄様!」と抗議の声を上げた。
二人の言い合いが続く横で、レーナ様だけがこちらへ視線を戻していた。
「レレナ……」
開いた扇子の奥から、それだけが聞こえた。彼女はただ静かに頷いて、それきり何も言わなかった。
「ふふ、レーナ様」
微笑む私に、レーナ様はこれ以上の追及はせず、ゆっくりと扇子を閉じた。
そして、私たちの少しばかりの会話が終わったのを見計らったように、フィオネ王妃様が声をかけてきた。
「さて、レーナさんの質問は終わったようね。なら次は、外の世界への興味について聞かせてもらおうかしら」
フィオネ王妃様の問いかけに、私は「はい」と頷き、ナセド様たちに向かって口を開いた。
「ええと……先ほど、私の家がお茶を作っているとお話ししましたよね?」
「確か、そう言っていたわね」
フィオネ王妃様は少しだけ眉間に皺を寄せていた。けれど、それも一瞬のことで、すぐにいつもの微笑みへと戻ってしまった。私は特に気にも留めず、そのまま言葉を続けた。
「はい、私は元々妹と一緒にお茶を作っていたんです」
そう言いながら、私はテーブルのティーカップに入っている茶色の飲み物に目を向けた。少しだけ、妹と一緒に作ったお茶を思い出す。それはこの紅茶とは似ても似つかない、素朴な色をしていた。
(でも、ここの紅茶も美味しい。それは否定しないけれど)
そう感じていると、扇子で顔を隠していたはずのリリアーナ様が扇子を下ろした。
「そう。レレナは家がお茶農家というだけでなく、あなた自身もお茶を作れるのね。だったら、いつか故郷へ戻ることがあったら、そのお茶を持ってきてもらうかしらね、お母様」
「こら、リリアーナ。またそんなはしたないことを言うものではありませんわ」
「だって、彼女のお茶が気になるんですもの。お母様もそうでしょう?」
そう言って一歩も引かない姿勢を見せるリリアーナ様に対し、フィオネ王妃様は苦笑しながらたしなめた。
「確かに、レレナさんの作るお茶には興味があります。しかし、無理を言って頼むものではありませんよ」
「はぁ……わかりましたわ」
王妃様に諭され、リリアーナ様は残念そうな顔をして引き下がった。それを見かねた私は、薄い笑みを浮かべながら彼女たちに言った。
「お二人とも。今は無理ですけれど、もし……いや、いつか故郷に戻ったら必ず、お茶をお届けしますからね」
「本当に?」
「えぇ、いいのかしら、レレナちゃん」
残念そうな顔をしていたリリアーナ様が喜びの笑みを浮かべると同時に、フィオネ王妃様もまたまんざらでもない表情を見せた。
「はい、必ず」
「……なら」
リリアーナ様が椅子から立ち上がり、扇子を口元に当て、空いている方の手を腰に当てて、威厳に満ちた笑みを見せながら声を上げた。
「その時は、まだあなたに見せていない完璧かつ威厳のある王女様の淑女の礼を見せてあげますわ。……交換条件よ。あなたがお茶を持ってくるなら、私も約束を果たす。それだけですわ」
「まぁ、別にあなたのためにこんなことを言ったわけじゃないわ、純粋にお茶を飲みたい、ただそれだけですわ」
そう言ってプイッと首を振り、口元の扇子と、腰に当てていた手をゆっくりと下ろした。
それを見ていたナセド様は、こめかみを押さえて「はぁ」とため息をついた。
それは、『この妹は大丈夫なのだろうか』という、彼なりの不安だったのかもしれない。けれどその後、彼の顔にも『レレナのお茶を飲んでみたい』という期待の笑みが浮かんでいた。
「全くこの子は……。まぁ、お茶を届けてくれるのは、嬉しいけれどね」
「ありがとうございます」
リリアーナ様に呆れつつも、どこか嬉しそうに微笑むフィオネ王妃様。私は彼女ににこやかな笑顔で礼を述べると、隣のレーナ様へと視線を向けた。
「あと、レーナ様にもお届けしますね」
「えっ?」
「おい、レレナ……」
突然話を振られたレーナ様と、『どうしてだ?』と疑問の表情を見せるナセド様。レーナ様は、手元の扇子をスッと持ち上げると、威厳を保ったまま不思議そうな顔をしながら、鋭い黒い瞳で見つめた。
「なぜ、わたくしに? 公爵令嬢であるこのわたくしに、そのようなものは必要ありませんわ」
レーナ様は扇子をパッと開いてパタパタと自身の顔を扇ぎながら、拒絶の姿勢を見せてそう言い放った。その言葉に、私は自身の胸にそっと手を当てると、笑みを崩さずに言葉を続けた。
「いいえ。レーナ様が必要ないと言っても、私はレーナ様にもあげたい。……ただ、そう思っただけです」
「そう思っただけって……あなた、本当にお人好しですね。けれど、あなたは忘れていないですよね。わたくしが何者か」
「はい。レーナ様は、ナセド様の妃候補です」
(わかっている。でも、お茶を差し上げたい気持ちに、それは関係ないことだ。……でも、これ以上考えるのはやめよう。またあの時の切なさを思い出してしまうから)
そうやって自身の感情を無理に抑え込んだ。……けれど、それは顔に出てしまっていたらしい。心配そうな顔をしたナセド様が、横から口を挟んできた。
「大丈夫か、レレナ」
「はい、大丈夫です」
(そうよ、ここで泣いちゃダメなんだから)
そう自分に言い聞かせて、私は必死に平気な顔を取り繕った。すると、ナセド様は少し安心した様子を見せ、隣のレーナ様をちらりと見てから、不思議そうな顔を浮かべて尋ねた。
「でも、どうしてレーナにあげようと思ったんだ?」
「初めてお会いした時、レーナ様は私の存在を認めてくださいました。それがとても嬉しかったのです。それに、私を蔑むようなこともおっしゃいませんでしたし……」
「……レレナ。初めて会ったあの短時間で、わたくしのことをそんな風に見ていたというの?」
目を見開きながらそう言うと、レーナ様は動揺を隠すようにティーカップへと手を伸ばした。しかし、彼女のカップの中身はすでに空だった。
「あっ紅茶が、空……」
「母上、ナットを呼びましょうか?」
ナセド様がフィオネ王妃様にそう提案した。それもそのはず、実は私の紅茶ももうなくなりそうだったし、他の三人のカップも、すでに半分以上減っているようだったからだ。
すると、フィオネ王妃様はスッと扇子を向けて、「いいえ、いいわ。私が淹れるから」と言って立ち上がった。
「えっ」
私とナセド様、そしてレーナ様は思わず声を上げて驚いたが、リリアーナ様だけは全く驚いた様子を見せなかった。
「フィオネ王妃様は、ご自身で紅茶を淹れることができるのですか?」
「ええ、そうよ。たまにリリアーナに淹れてあげるからね」
「そうなんですね」
私は深く納得した。フィオネ王妃様が自ら優雅な手つきで紅茶を淹れ始める中、私は再びレーナ様へと視線を向けた。
「はい、見てましたよ」
先ほどの彼女の問いかけに微笑んでそう返すと、レーナ様は「くっ……」と短く呻き、ふいっと少しだけ顔を逸らした。
「平民の娘なのに……負けたわ、あなたの気持ちに。だから、その好意をありがたく受け取ってあげますわ。でも、もし不味かったら、承知しませんからね!」
まるで念を押すようにそう言い放つレーナ様を見て、ナセド様とリリアーナ様が二人揃って信じられない顔を見せた。
「へぇ、あの強引な性格だったレーナ、あんなことを言うなんてね」
リリアーナ様が信じられないといった様子で呟くと、ナセド様も深く同意するように腕を組んだ。
「あぁ、まったくだ」
二人の言葉が耳に入ったレーナ様は、開いたままだった扇子をゆっくりと閉じると、その先端をリリアーナ様に向け、ジト目の黒い瞳で見つめた。
「……あら。リリアーナ様まで、わたくしのことをそんな風に見ておいででしたのね?」
「……あぅ」
変な声を出すリリアーナ様をよそに、私はリリアーナ様の言葉を肯定するように口を開いた。
「なるほど、レーナ様は強引、なんですね。でも、今のレーナ様は違うと私は思います」
私が黄色い瞳で、真っ直ぐにそう告げると、レーナ様はジト目をやめ、リリアーナ様に向けていた扇子をサッと引っ込め、自身の口元に当てて視線を斜め上に逸らした。
「レレナ、そんなに褒めても何もないからね」
「わかっていますよ、レーナ様」
そんなやり取りをしているうちに、フィオネ王妃様は全員の紅茶を注ぎ終え、優雅に椅子に腰掛けた。その際、また少し豊かな胸が揺れたような気がしたが、私は気にしないようにして……。
(……いや、また揺れましたよ! 見ちゃいますって、また見ちゃいますよ王妃様!)
思わず口元が緩みそうになったが、私はグッと堪えた。しかし、そのわずかな視線の動きを見逃さない者が二名いた。金と銀の髪を持つ、二人の令嬢である。
「……ふふっ。レレナ、あなた、今どちらを見ていらしたのかしら?」
「ちょっとあなた! またお母様の方を見ていなかった!?」
扇子を持つ二人からジト目で見られ、「な、なんでもないですよ」と冷や汗をかきながら苦笑いで誤魔化そうとする私。そんな私たちのやり取りに対し、事情をまったく知らないナセド様がパチパチと目を瞬かせながら、不思議そうな顔で私に視線を向けた。
「ん?どうしたレレナ」
「い、いいえ、なんでもないですよ」
不思議そうなままこちらを覗き込んでくるナセド様に、私は視線を泳がせつつも、まだ残っているカラロンに手を伸ばして齧り付き、必死に誤魔化した。
「そうか、ならいいが」
私の誤魔化しにあっさり納得したナセド様も、同じようにカラロンに手を伸ばして齧り付く。その光景を見ていたフィオネ王妃様は、扇子の奥で意地の悪そうな笑みを見せると、リリアーナ様とレーナ様に声をかけた。
「ふふふ。二人とも、あまり彼女をそんな顔で見るんじゃありませんわ。レレナちゃんは、私が優雅に紅茶を淹れる姿に見惚れていた……ただそれだけなんだからね。……そうでしょう? レレナちゃん」
「は、はい、そうです、フィオネ王妃様! あなた様の紅茶を淹れる姿があまりにも眩しくて……っ!」
私が必死に作り笑いを浮かべてそう返すと、レーナ様は扇子をパッと開き、「あら……レレナはずいぶんと、面白いことを言うのね」と意味深な笑みを見せた。
リリアーナ様に至っては、一度下ろした扇子を再びパッと開き、パタパタと扇ぎながら、「本当かしらね……」と疑いの眼差しを向けてくる。しかし、私には「本当です」としか頷けなかった。
すると、フィオネ王妃様がパチンと扇子を閉じ、それでポンと軽く手のひらを叩いて、楽しげだった空気を引き締めた。
「はい、あなたたちの追及はそこまで。……だいぶ話が逸れちゃったけれど、レレナちゃん。あなたが『外の世界』に興味を持った理由はなんなのかしら? そろそろ聞かせてもらえるかしら」
「はい。それでは、続きをお話ししますね」
こうして、レーナ様に問われるがまま先に語ってしまった『魔法の力を試す理由』から、私はようやく、一つ目の理由——『外の世界への興味』へと話を戻した。




